第4話 ユウキ

 リビングの窓辺から射し込む春の陽には、うっすらと冬の色が見え隠れしていた。


 テレビからそのニュースが流れて以降、園宮家の昼食は止まってしまった。せっかく母が用意してくれた手料理も、残ったものは処分された。

 数日前、ウクライナ戦争が始まったときと同じような雰囲気だった。春はもうすぐだというのに、家の中は暗かった。


 半年ほど前、妻のサオリが妊娠した。安定期を見計らい、ユウキは妻と共に帰省した。

 妊娠を報告したとき、両親は家族を集め、結婚したときのようにお祝いをしようと言ってくれた。ただ、それを数日後に控えたタイミングで、ウクライナ戦争は始まった。

 一度、園宮家全員がオンラインで話し合った。両親には、「帰ってこれるなら来てほしい」と言われた。トモキには「非番だからその日にしてほしい」と言われた。ミユには「いつでもいいよ」と言われた。最終的に、集まることにした。何かイベントでもなければ、こうして園宮家の家族が一同に会する機会もあまりない。


 当日。久しぶりに顔を合わせる妻を、家族は温かく迎え入れてくれた。両親、特に母は、初孫の報せを誰よりも喜んでくれた。


 崩壊したヨーロッパの街並みの映像とともに、キャスターがウクライナ戦争のニュースを伝える。

「これからどうなっちゃうんだろうね……」

 ポツリと呟く妻のサオリの横で、ユウキは言葉を濁した。何か安心させてあげられる言葉をと思ったが、いい言葉は浮かんでこなかった。そんなユウキの横で、母はいろいろとサオリを気遣ってくれた。

 父がテレビのチャンネルを変える。しかし、どの局も報道内容は変わらない。

 テレビとスマートフォンを交互に見やる父が、弟のトモキに声をかける。

「トモ。そっちは大丈夫そうか?」

「とりあえず大丈夫そう。まぁ今日は非番だから、よっぽどのことがない限り家にいるよ」

 自衛隊員のトモキは淡々としていた。二つ年下だが、その目は兄であるユウキより落ち着いていた。家族の誰よりも鍛え上げられたその姿は、前に会ったときよりもさらに精悍さを増していた。


 ユウキもスマートフォンを取り出す──ウクライナ戦争──画面をタップし、検索ボタンを押す。

 文字、画像、動画……、あらゆるメディアのあらゆる情報が手元に表示される。

 首都キエフ陥落、ゼレンスキー政権崩壊、ロシアによるウクライナ併合宣言……。都市部での略奪により民間人に多数の被害。ロシア政府、占領地域の住民へパスポートの発行を開始。東部のドネツク、ルガンスクでウクライナ系住民に対する民族浄化の恐れ。ロシア国連大使、勝利と正統性を改めて強調。ロシア系の民間軍事会社がジャーナリスト暗殺か……。


 これから世界はどうなってしまうのだろうか──妻と同じく、それが率直な思いだった。


 妻のサオリとは大学の頃に出会った。出会いはお互い二十歳で、きっかけは友人からの紹介だった。

 大学卒業後、ユウキはシステムエンジニアとして働き始めた。半年後、コロナ禍が全世界を覆った。仕事もまだ手探りだったというのに、さらに何もかもが手探りの状況に陥った。閉塞していく社会の片隅で、ユウキの心身はどんどん疲弊していった。

 そんなとき、サオリはずっとそばにいてくれた。彼女自身も働いていたし、同じように辛い時期であったはずだった。しかしそんな素振りは見せず、彼女はそばで支えてくれた。

 コロナ禍から一年後、ユウキはサオリと結婚した。周りや両親からは、二十四歳での結婚は早いのではともも言われたが、早い遅いは関係なかった。ユウキにとって、結婚は彼女の献身に報いる一つの回答だった。

 そして結婚から一年後、妻は妊娠した。

 子供はたくさんいた方が楽しいと話し合っていた。せっかく早めに結婚したのだから、早く子供を作って、どんどん産むと妻は言った。お金やキャリアなど具体的な内容はともかく、それが二人の将来設計だった。


 しかし今、妻の笑顔は沈んでいる。

「ちょっとミユ! ケータイなんていじってないで、早くサオリさんにケーキ出しなさい!」

 台所でスマートフォンを見ていた末子のミユを、母が叱る。ミユがスマートフォンをポケットにしまい、冷蔵庫からケーキを取り出す。

「ユウキ兄ちゃん、サオリさんのどれにする?」

「あー、まぁどれでもいいけど、とりあえず一番でかいのはお前にやるよ」

 小さく「やった」とガッツポーズをしながら、ミユがケーキを皿に載せ、妻へ手渡す。トモキもそれぞれの分を皿に取り分け、食卓へと運んでいく。

「悪いね、母さん。サオリのこといろいろ気遣ってもらって」

「いいのよ。今が一番不安なときなんだから」

 言いながら、母がシャンパンをグラスに注ぐ。

「サオリさんが笑顔でいられるように、たくさん笑ってあげなさい。お腹の子はそれを聞いて大きくなるんだからね」

 ユウキは改めて母にありがとうと言った。母は微笑みながらシャンパンを運んで行った。

 ユウキはスマートフォンをポケットにしまうと、食卓に着いた。

 シャンパンとケーキを前に、園宮家の全員が笑顔になる。コーラを片手に乾杯するミユのケーキだけは、すでに一口かじられている。


 ケーキを食べ始めると、妻の笑顔はまた明るくなった。妻が笑顔になると、両親も笑顔になった。

 ふと、両親はどうやって家庭を築いていったのかが気になった──父は多くを語る人ではなかった。母はよく笑う人だった──思ったが、今は春の陽に身を任せた。


 これから世界がどうなるかはわからない。しかしユウキは、自分が育ったこの家と同じような家庭を築いていきたかった。ただそれだけだった。

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