第98話 自立した個人による個人化への過程での核家族
こう申し上げますと、何なのでしょうか、人間社会のある程度の「群れ」程度のものは崩壊していくのが文明の基本なのかなと、そんなことさえ思えてしまいます。
何はともあれというか、それが証拠に、身近な集団としての単位は、確実に「少数化」していることは、間違いないのではないかと。
夏目漱石は、そのあたりのことを、あの時代既に見抜いていたのでしょうね。
もっとも、それに対してどんな感想を持つかは、思想の自由。
それが大げさだというなら、どうでもええってこと。
ただし、どのような系統の感想が出てくるかは、想定する必要がある。
テメエの意見や思いよりもまず、そういう分析ができねえと、ゼニにならん。
そういうわけで、かれこれ分析してみるね。
核家族というのは、何世代も、何世帯もが同居している、それこそ「一族郎党」に限りなく近い形から、それが枝分かれしていき、やがて親子だけの核家族になってき状態というイメージで、ご理解を。
こうすることによって、親世代と子世代と孫世代の無用なぶつかり合いを回避できることにつながってくる。さすれば、夫婦生活をその家族の両親と、程よい関係で維持できることが可能になる。無駄に群れ合う必要もなくなるしね。
たださすがに、成人前の子どもを放置するわけにはいかないから、そこは、両親が少なくともせわしないといけない。場合によっては片親だったり、あるいは祖父母であったり、両親のどちらかの兄弟姉妹だったりということもあるだろうが、まあつまりは伯父叔母の類ってことになるわな、それはまあ、それ。
しかし、子どももいつかは成人し、自らの道を歩むようになる。
そうなったあかつきまで、そんな「家族」という共同体が必要なのか?
そうなって来るわな。
なんも後生大事にそんなもの維持し続ける必要があるのか?
そうなるのは、必然だ。
皆、自立した個人として成長してしまえば、そうなってしまうよ。
そうなるために、大学まで行くパターンも多かろうし。
テキトーなこと抜かして、手に職とか何とか、それでなんか仕事して、ゼニが稼げたらそれでもいいではないか、程度の感覚は、そんなところでは当然かどうか論ずる必要もなく、通用するわけもない。
徒然書いたけど、要するにね、核家族というのは、大家族の欠点、とりわけ無駄ないさかいを回避するための手法で、それによって生じるリスクは、人とのつながりをもってこちらは回避するという上で、格好の「組織体」だってこと。
ただし、その組織体における構成員の皆が自立してしまったら、実は、その時点でそんな組織は、もう、必要がなくなってしまうわけよ。
そこが、「核家族」の良くも悪くも、強さと弱さではないかと、私は考えておるのであります。
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