第22話
ナンシーは部屋の中央の床に腰を落とすと胡座をかいた。ベッドの上にいた叶槻は扉に移動して、空いたベッドにはベイカー教授が座る。
その様子を見たナンシーは両手を膝の上に置いて、両目を閉じる。3回ほど鼻で深呼吸を続けた後、彼女は口を開いた。
「フングルイ ムグルウナフ クトゥルフ ルルイエ ウガフナグル フタグン イア イア クトゥルフ フタグン」
これまで耳にしていたナンシーのそれとは全く別人のような暗く、地の底から響くような低い声で紡ぎだされる言葉は、叶槻には意味不明だったが、ベイカー教授は驚きに大きく目を見開いていた。
「ああ、まさか、そんな……」
「フングルイ ムグルウナフ クトゥルフ ルルイエ ウガフナグル フタグン イア イア クトゥルフ フタグン」
同じ言葉を繰り返すナンシーは額のみならず全身から汗をかいている。声は次第に大きくなり、ナンシーの声に高揚と興奮が入り雑じり始めた。
「フングルイ! ムグルウナフ! クトゥルフ! ルルイエ! ウガフナグル! フタグン! イア! イア! クトゥルフ! フタグン!」
これは一体何だ?
全く意味不明な言葉の羅列が、奇妙な旋律を伴って部屋中を満たす。叶槻はそれを聞く内に、どこかで覚えがあるような気がしてきた。
これは何かの呪文だ。ナンシーは呪文を詠唱しているんだ。叶槻がそう思った時、扉の向こうから男の声が聞こえた。
「おい、何をやっている?何を言っているんだ?」
見張りの兵だ。初めて聞く奇妙な言葉に、さすがに黙ってはいられなくなったのだろう。
ナンシーは今や全身から滝のような汗を流して呪文の詠唱を繰り返していた。その声は時には低く、時にはヒステリックなまでに高くなり、完全にトランス状態に入っている。
「イア! イア! クトゥルフ! フタグン! イア! イア!」
「止めろ!その変な念仏みたいなのを止めろ!」
見張りの兵が苛立ちと怒りのこもった声で叫ぶ。しかし、今のナンシーには届かない。
「止めろと言ってるんだ!痛い目に遭いたいのか!」
扉の錠に鍵が差さる音がした。続いて鍵を回す音。扉は内開きになっている。叶槻は扉の横の壁に背中を付けた。
扉が荒々しく押し開けられた。
「止めろ!さもないと!」
小銃の銃身が叶槻の眼前に現れた。彼は素早くそれを掴み取り、自分の方に引き寄せた。不意を突かれた見張りはあっさりと小銃を叶槻に奪われる。叶槻は小銃の銃床を見張りの腹に打ち当てた。見張りは腹を押さえて蹲る。その背中を飛び越えて廊下に出ると、もう1人の見張りが構えている小銃の前部に向けて自分の銃床を叩き付けた。1発の弾丸が見当違いの方向に飛んでいく。慌てた見張りが次弾を撃とうとするが、その腹部に叶槻の蹴りが入る方が速かった。
いつの間にかナンシーは呪文の詠唱を止めていた。船室を出ると、床に転がっている小銃を拾い上げて日本語で言う。
「そのまま床に伸びていなさい。少しでも動いたら撃つわ」
苦悶の表情を浮かべる見張りたちは、ナンシーの台詞に従う。
「ロープとナイフ、タオルを2本探してくれ。どこかにある筈だ」
叶槻は小銃の銃口を見張りに向けながら、ナンシーに英語で頼んだ。彼女はすぐさま甲板に出ると、希望の品を持ち帰る。
見張りたちを後ろ手に縛り、捻ったタオルを口にくわえさせて無力化すると、叶槻は大きく息を吐いた。
「どうにか上手くいった……」
「カラテね。やるじゃないの」
ナンシーが面白そうにケラケラと笑う。
こんな状況でよく笑えるな。叶槻は先程のナンシーが詠唱していた呪文について尋ねようとしたが思わず口ごもった。
先ほどまで汗をかいていたナンシーからは変な臭いはしない。上気した顔と身体はむしろ妖艶な雰囲気を醸し出している。
一体、どういう状況なんだ……。叶槻は再度大きなため息を吐いた。
「この2人をボートに乗せたい。手伝ってくれ」
「この船に置いときゃいいじゃない。反乱者なのよ」
「俺の部下だ。見捨てておけない」
その言葉にナンシーは改めて叶槻の姿を上から下までしげしげと見つめた。
「あなた、本当にいい人なのね」
「こんな時にからかうな。時間が無いんだ」
「わかったわ。でも私も一緒に行く」
「何を言うんだ。危険なんだぞ」
「乗組員が全滅した以上、この船はもう動かせない。ここに居ても助かる可能性は低い。あの潜水艦に乗るしかないのよ」
ナンシーの言うことに間違いはなかった。しかし……。
叶槻が返答に窮していると、ナンシーは少しきつめに言った。
「時間が無いのよ。あなたにも、私にも」
「わかった。その代わり俺の指示に従ってくれ」
ナンシーは軽くウインクしながら敬礼した。
「アイサー、キャプテン」
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