第5話

「助かった……」

 愛工が安堵のため息をついた。

 伊375潜は既に先程の海域から長距離を移動しており、完全に米軍駆逐艦の追跡を振り切った。敵はこちらが逃げたことに気づきもせず、未だにあの海域で待機しているはずだ。何しろモーターもスクリューも、まったく動かしていないのだから。アクティブソナーに反応がないのを不思議に思っているだろう。危機は去った。しかし。

 この謎の海流は何か。

「水中速度30ノット超、信じられない……」

 速度計の針が30を越えて張り付いたままでいるのを見て愛工は愕然としていた。

 30ノット超の速度?それどころではない。メーターの数字が30までしかないから、そのように見えるだけだ。

 叶槻は元々水上艦の士官だったので、30ノットを越える艦に乗る感覚を知っているが、今の速度はそれを遥かに上回っている。用事のために航空隊の飛行機にも何度か乗ったことがある。今の感覚はむしろその時のものに近い。だとすれば、少なくとも100か150ノットで伊375潜は移動していることになる。

 あり得ない。深度120メートルの深海を飛行機と同じ速度で流れている海流など……。

「こんな海流が存在するなら、とっくの昔に世界中に知られています。おそらく、一時的に発生したものでしょう」

 愛工が言った。

「私もそう思います。どこかで大地震や海底火山の噴火があって、その影響でこんなものが」

 蘭堂も愛工の見解に賛同した。

「この海流の正体は不明だが、今は二の次だ。もうかなりの距離を移動したはずだ。とりあえず浮上してみよう」

 叶槻は浮上を命じた。副長と軍医もうなずく。

 機関室がメインタンクの排水を始めた。

 だが、しばらく待っても深度計の針は変わらない。

「どういうことだ?ちゃんと排水しているのか?」

 叶槻は伝声管で機関長の引馬を呼び出した。

「機関長、浮上しないぞ。どうなっている」

 引馬はその問いに答えるためにわざわざ発令所まで走ってきた。その顔は真っ青だ。叶槻と愛工、蘭堂を手招きして3人の顔を近づけてから小声で囁いた。

「メインタンクは完全に排水しました。しかし、浮力が発生しません」

「そんな馬鹿な、ちゃんと確認しろ」

「ここに来る前に何度も確認しました。間違いなくメインタンクは空になってます。なのに浮上しないんです」

 4人はお互いの顔を見合わせた。とんでもない事態だ。

「海流が早すぎて、その流れから離れられないんだ。艦の浮力よりも、この海流の力の方が遥かに強いんだ」

「つまり、この海流が収まらないと浮上できないのか」

 愛工と引馬がそのような会話をした。

 物理的にそんなことがあり得るのか、叶槻は疑問だったが、現にそうなっているのだから仕方ない。とにかくこれは異常事態だ。

「この海流は一時的なもののはずだ。収まるまで待つしかない。艦内の空気はどれくらい保つ?」

 叶槻の問いに愛工は下を向いて答えた。

「30時間、二酸化炭素の中和剤を使っても、プラス5時間です」

「30時間待とう。それでも状況が変わらなかった場合は魚雷を棄てる。この潜水艦には2発積んでいるから3トンは軽くなる。そうすれば浮力も上がる」

「魚雷を棄てれば艦は丸腰ですよ?私は反対です」

「俺だってそんなことはしたくない。だが、乗組員の命には代えられない」

 愛工はまだ何か言いたそうだったが、引馬に肩を叩かれて言葉を飲み込んだ。

 叶槻は艦内放送で現在の状況を説明した。その上で全員に酸素を極力使わないように眠るか、横になって待機するように命じた。乗組員たちは皆激しく怯えて次々に質問や不安を口にし始めた。

 蘭堂が耳打ちした。

「乗組員をなだめてきます。私が判断した者には鎮静剤を打ちます」

 叶槻はうなずいた。

 おかしい。

 叶槻は違和感を抱いた。

 水中という特殊な環境で行動する潜水艦では、不測の事態が起きてもパニックを起こさない強靭な精神力の持ち主が乗組員として選ばれる。どんな新人であれ、それは同じだ。ましてや彼らは自ら志願して潜水艦乗りになっている。海に出る前から命の危険は覚悟しているはずだ。

 確かに今の事態はまったく想定外のものだが、敵と戦う時と比較して本質的な危険度は大きく変わらない。

 それなのに、彼らの反応はあまりにもナイーブだ。

 愛工や引馬のようなベテランの幹部乗組員も、いちいち動揺し過ぎている。これでは戦艦や巡洋艦の乗組員たちの方が余程肝が据わっている。

 これが彼らの本来の姿だとは思えない。皆、闘志溢れる海軍軍人のはずだ。

 何か、言いようのない嫌な雰囲気が艦内を支配している。それが全乗組員に悪い影響を与えている。そんな気がしてならなかった。

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