シロさんの屋台と素敵なごはん
るな
第1話 ほっこりおでんとがっつりラーメンのアンサンブル
「はぁ〜疲れたぁ〜……」
その日、有明ゆかりはとぼとぼと暗い夜道を歩いていた。とある会社の事務をしているのだが、最近会社の経営が思わしくないらしく、上司に何度も怒られる毎日だった。
見慣れた帰り道も、心なしかいつもより暗く感じる。いつも帰り際にセール品の弁当を狙って駆け込むスーパーは、今日は目の前でガラガラとシャッターを閉められてしまった。そのままどこか他の店に寄り道する気力もなく、ゆかりは鞄を両手で握りしめて歩いていた。
冷蔵庫の中のもので何か作れないか必死で考えたが、そもそもビールと水と牛乳しか入っていなかったことを思い出しがくりと項垂れる。
もうどれくらい料理をしていないだろう。それどころか、スーパーの惣菜を買うばかりで、人に料理を作ってもらった記憶も遠い昔だ。
そんなことを考えて悲しくなりながら帰っていた、その時だった。
もう少しで家に着くというところで、不意にいい匂いが鼻先を掠めた。それは昔実家でかいだお出汁のような匂いで、母親が作ってくれたおでんを思い出した。
ゆかりは吸い寄せられるように、家の手前でいつもは入らない一本の脇道へと足を進めた。先程より心なしか足取りが軽くなる。少し進むと、前方にぽつんと温かな灯りが見えて、ゆかりは目を見開いた。
お店……ではなく、屋台?
ゆかりが見つけたのは、昔ながらの小さな屋台だった。ラーメン屋さんの屋台かな?とゆかりは覗き込んだが、暖簾に店名は書かれていなかった。
「いらっしゃい」
ゆかりが遠巻きに屋台の様子を伺っていると、不意に声をかけられた。ゆかりはびくりと体を震わせたが、いい匂いに負けて暖簾をくぐる。暖簾をくぐった先にいた人物を見て、ゆかりはわぁっと大声をあげそうになった。
板前さんのような格好をした彼は、とても細い目でにこにこと笑っていた。頭にはバンダナを巻いていて……いや、違う、そうじゃない。
問題は、およそ人とは思えない毛に覆われたふさふさの肌、そしてバンダナからはみ出している大きな二つの耳だった。それはとても大きくとんがっていて、どうみても動物の耳だった。
まるで猫のようだ。いや、猫だ。人間サイズの猫が後ろ足で立っている、と言った方が正しい。
ゆかりが口をぱくぱく開いて声を出せずにいると、店主は首を傾げて不思議そうにした。
「どうしたにゃ? お客さんじゃないにゃ?」
「あ、あの……耳……というかあなた、猫……?」
ゆかりが店主を指差しながらなんとかそう言葉にすると、店主はにゃははと楽しそうに笑った。
「なんにゃ、そんなことかにゃ。気にするにゃ、人間。猫だって屋台くらい開くにゃ」
気にするな、と言われても気になる。猫の世界では今人間の世界に屋台を出すのがブームなのだろうか。いや、そんな話、ニュースでも聞いたことがない。
ゆかりがずっと見ていると、店主は楽しそうに笑いながらゆかりに座るように促した。
目の前で起こっている不思議な出来事に驚きながらも、ゆかりは勧められたままに椅子に座る。怖い、逃げ出したい、という気持ちは全くなかった。それはさっきから漂ってくるお出汁のような不思議な香りのせいだろうか。
近づいてみると、それは単なるお出汁の香りではないような気がした。おでんのような甘い香りがしたかと思えば、ぴりりと山椒がきいているかのようなスパイシーな匂いが時々鼻を掠めた。その今まであまり嗅いだことのない匂いが、お腹ぺこぺこのゆかりの心を掴んで離さなかった。
「あの、ここって……なんの屋台なんですか?」
「ここは今お客さんが食べたい料理を作る屋台にゃ。いわばなんでも屋にゃ。お客さんは、今何を食べたいにゃ?」
逆に尋ねられてしまい、ゆかりは言葉に詰まってしまった。何を食べたいか、考えつく前に思ったことが口から出てしまう。
「初めはこの匂い……おでんの匂いかなって思って。でもちょっと違うみたい……何が食べたい……ん〜」
「おでんが食べたいにゃ?」
「おでんいいですね。でも、できればがっつり炭水化物も食べたいような……」
「わかったにゃ、ちょっと待ってるにゃ」
「え?」
猫の店主はゆかりの呟きを聞いてそう答えると、手を動かし始めた。その手はやはり猫の手で、その手で器用に箸やおたまを掴んでいるものだから、ゆかりは店主のその手つきから目が離せなくなった。
猫の手ではあったが、店主の手つきは料理に慣れた人(猫?)の手つきだった。目にも止まらぬ早さで材料を切ると、ぽいぽいと鍋に放り込んでいく。隣では、ことことといい匂いをさせながらお出汁が温まっていた。
とんとん、ことことという気持ちのいいリズムと、柔らかなお出汁の匂いに、ゆかりは疲れた体がゆっくりとほぐれていくのを感じた。あまりに居心地がよく、目を瞑ってうとうととしかけた頃、店主から優しく声をかけられた。
「お客さん、できたにゃ」
ことり、と目の前に出されたお椀を見て、ゆかりは思わず大きな声をあげる。
「わぁ! これ……ラーメン?」
店主がゆかりの前に出してくれたお椀には、細麺のラーメンが入っていた。スープは先程のお出汁をアレンジしたのか、甘茶色で透明に澄んでいた。
けれど、ゆかりが更に驚いたのはそのラーメンに乗っている具材だった。大根、ゆで卵、牛すじ……それは普通はラーメンの上には乗っていない具材、そしてゆかりが初めに食べたいと言ったおでんの具材だった。
「ほっこりおでんとがっつりラーメンのアンサンブルにゃ」
「す、すごーい……」
店主が自慢げにメニュー名を披露する。満足そうな店主の頬に生えた髭が、嬉しそうにぴくぴくと動いた。
「さ、冷める前に早く食べるにゃ」
「はい。いただきます」
ゆかりは両手を合わせてそう呟くと、甘茶色のスープにゆっくりと箸をつける。麺を箸で掴みあげれば、少しとろりとしたスープが麺に絡みつくようだった。ふぅふぅと息を吹きかけて、一息にずるると口の中へ滑り込ませる。
「う……わぁ、おいしい〜!」
口に入れた瞬間、ゆかりは思わず大きな声をあげていた。口の中で噛んだ麺はもちもちと柔らかな食感で、醤油とは違う、けれど柔らかな和風のスープととてもよく合っていた。
次にラーメンの上に浮かんだ大根へとゆかりは箸を伸ばす。いつもおでんを食べるように真ん中で力を加えると、大根はほろりと簡単にふたつに割れた。その片方を口に含む。
「うわ、おでんみたいに柔らかい味なのに、どことなしか麺の味もする。何これ……すごい、美味しい」
「気に入ってくれたかにゃ?」
「はい、とっても!!」
ゆかりは満面の笑顔でそう言うと、無言になって目の前のおでんラーメンを食べていった。上に乗った具を食べ終わり、麺を全て食べ、最後にスープを全部啜ると、ことりとお椀を置いてゆかりはほぅっと一息ついた。そんなゆかりを店主は満足そうに眺める。
「あの、とっても美味しかったです!」
「それはよかったにゃ、ありがとうにゃ」
「ありがとうございました。あ、お会計……」
「いらないにゃ」
「えぇ!? だめですよ、こんな美味しいものいただいたのに、払わないわけにはいきません」
「う〜ん、でも人間のお金をもらってもにゃあ……あ、じゃあまた気が向いた時にここに来てもらえないかにゃ?」
「え、お金を払わないうえにまた来て……? だめですだめです、それじゃあたしが得しちゃうばっかりじゃないですか」
「僕は修行中の身なんにゃ。もっと精進しないと一人前と認めてもらえないんにゃ。だから、猫助けと思って手伝ってほしいにゃ」
「そ、それは、手伝ってって言われたら手伝いますけど……」
「決まりにゃ」
猫の店主はそう言うと、にこりと笑った。店主が嬉しそうに笑うので、ゆかりはそれ以上何も言えなくなってしまった。
また来る約束をして席を立った時、ゆかりはふと気になっていたことを聞いた。
「あの……あなたのこと、なんて呼んだらいいですか? 店主さん? マスター?」
「ん? あぁ、僕はまだ修行中の身だから、もっと名前みたいにフランクな呼び方がいいにゃ。君が好きなように名前つけてにゃ」
「え? いいんですか? う〜ん」
いざ好きなように呼んでいいと言われるとゆかりは悩んだが、ふと、白い毛の猫の店主の耳に黒い毛でハートに見える模様があることに気がついた。
「その耳……じゃあ、シロって呼んでもいいですか?」
「シロ……どうして、そう呼ぶにゃ?」
「昔私が飼ってた猫の名前なんです。その子も、あなたと同じ耳にハートの模様があったから。その子、急にいなくなっちゃったんですけど……」
「うん……うん、シロって呼んでにゃ。じゃあまた来てにゃ。待ってるからにゃ」
「はい、今日はありがとうございました」
ゆかりは満面の笑みを浮かべてぺこりとお辞儀をすると、くるりと踵を返した。
その足取りは来た時と比べ物にならないほど軽いものだった。
そんなゆかりの後ろ姿を見ながら、シロは嬉しそうに笑った。
「ありがとう……次が楽しみにゃ」
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