記憶のない戦乙女
オオタカ アゲル
第1話 老魔術師
薄暗い部屋の中に一人の老人がいた。
上質だがくたびれた感じのローブを着ており、そこからのぞく顔や手は枯れ木のように萎びて見えるが、眼だけは生気を漲らせて大きく開かれていた。
「やっとだ」
老人の口から掠れた声で呟きが漏れる。
「やっとここまできたぞ」
老人は真っ直ぐ前を見つめながら続けてつぶやく。
その視線の先には自身の背丈よりも大きな石版があったが、老人はさらに先を見つめていた。
老人が真に見つめていた物。それは巨大な水槽だ。
水槽には薄っすらと緑色に光る液体に満たされていた。
「さあ、目覚めておくれ」
懇願と哀愁を込めた呟きと共に両手を前に突き出して一歩前へと踏み出す。
そのまま石版へと歩みを進め両手を触れる。
それから目をつぶって呼吸を整えなが意識を集中していく。
しばらくそのようにしていた後、覚悟を決めたかのように目を見開き呪文を唱え始める。
老人が掠れてはいるが朗々とした声で呪文を唱えると、石版から神秘的な文字が光ながら浮かび上がってきた。
どれくらいそうしていただろうか、永遠ともいえる時間を力強く呪文を唱え続けた老人は全てを唱え終えてぐったりと沈黙する。
しばらく老人は息を荒げてうつむいていたが、耐えかねたかのように咳き込んで跪いてしまう。
咳も治り落ち着いた老人は期待を込めた眼差しを水槽へと向ける。
水槽の中には薄緑色に光る液体だけでなく何かが沈んでいた。
そこにいたのは一人の妙齢なる女性だ。
20代と思われる女性は眠っているかのように目をつむり、豊満で均整のとれた裸体を惜しげも無く晒していた。
「おおっ!」
水槽の女性を見つめていた老人は感嘆の声をあげる。
見ればずっと瞼を閉ざしていた女性がうっすらと瞼を開き始めた。
目覚めた彼女は体が液体に浸されているにもかかわらず、慌てふためく様子も見せずに虚ろな表情で天井を見つめている。
「ついに、ついにやったぞ!」
水槽の中の女性が目覚めたのを見て老人は子供のようにはしゃいで喜びをあらわにする。
興奮した老人は這い上がるように石版にしがみつき、今度は短い呪文を唱える。
すると静寂に包まれていた空間に轟音が響き渡る。
それに合わせて水槽の水位が見る見るうちに下がっていく。
やがて水槽の液体は全て何処かへ排水されたが、その間も女性は表情を変えず身じろぎもせずに虚空を見つめ続けている。
水槽から液体がなくなるのを見届けた老人は、もう一度呪文を唱えて次の操作をする。
三度目の操作で水槽のガラスがせり上がっていく。
人が通るのに充分な高さまで上がったところで老人は振り向いた。
そこには二体のゴーレムがいた。
一体はほっそりとしたウッドゴーレムで、もう一体は筋骨隆々とした大男に見えるストーンゴーレムである。
老人はそのうちのウッドゴーレムの方へと駆け寄り、手に持っていた杖を荒々しく掴み取る。
「行け!」
老人は杖を振るい二体のゴーレムに短く荒々しく命令する。
命令を受けた二体のゴーレムは鈍重な足取りで開かれた水槽へと向かっていく。
ゴーレム達は、そのまま水槽の中へと入って行き女性の元へとたどり着く。
その間も女性は何の反応も見せず、ゴーレム達が覗き込むように前に立っても驚く様子などまったく見せなかった。
「ていねいに扱え!」
女性の前に立ったゴーレムに老人は厳しい口調で命令する。
二体のゴーレムは老人の態度に憤ることもなく、命令通りに慎重に女性を持ち上げる。
そのようにされてもやはり女性は身じろぎ一つせず、何の反応も見せなかった。
「よし、ついて来い!」
その様子を見届けた老人は振り返って前へと進んでいく。
老人の進む先には閉ざされた頑丈な扉があったが、老人が杖を振りなが呪文を唱えると滑らかに開かれていく。
開け放たれた扉の先には上りの階段が見えていた。
老人は長そうな階段を疲れた様子も見せずに勢いよく登っていく。
二体のゴーレムも老人の言い付け通りに女性を傷つけないように慎重に運んでいく。
やがて老人達は階段を登りきり建物の外に出る。
老人が出てきたのは一軒の小屋。
入り口から入ってすぐに地下へと下りる階段があり、左右の壁にはドアが一つづつある簡素なもののようだ。
小屋のある場所は周り中が木々に覆われており、ここが深い森の中だということが推察できる。
老人が外に出た時、辺りは暗く空には銀の皿のような満月が輝いていた。
そんな月明かりの中を老人は迷いなく進む。
このまま勢いで森の中を突っ切って行くように見えたが、すぐ目の前に屋敷があった。
どうやら老人はここに住んでいるらしく、ノックもせずに荒々しく屋敷の中へと進んで行く。
そうなると、この小屋は屋敷の離れとということになるのだろう。
老人が入った後、屋敷には次々と灯りが灯って行く。
その後に女性を運んでいたゴーレム達が入ってきた。
ゴーレムが家に入るのを見た老人は女性を浴室へと運ばせる。
そこにはすでにお湯が張ってあり、老人は女性を湯浴みさせる。
女性は虚ろな目で虚空を見つめていて体を動かそうとしないので、体を洗うのは老人の役目であった。
そのような事はゴーレムに任せて大雑把に済ませればいいと思うのだが、老人はそのような事はせず、黙々と叮嚀に体を洗っていく。
老人の顔は妙齢な女性の裸を前にしているのにもかかわらず、慈しみにあふれた表情をしており、情欲の感情は一切見る事はできなかった。
入浴が終わり、腰まで伸びた金糸のような長い髪まで洗い終えた老人は体をふいてよく乾かしてから服を着せて、ベッドへと横たえさせる。
こうして一息ついたためか老人は彼女の手を握って感極まった表情となりつぶやいた。
「姉さん」
老人は自分よりはるかに年下に見える女性を確かに姉と呼んだ。
「姉さん。レティシア姉さん。遅くなってごめんよ」
女性をレティシアと呼んだ老人は、そのままむせび泣く。
姉と呼ぶ人間の前で見せる男泣きする姿には、余人には理解できない苦労と歓喜の感情が入り混じっていた。
それから一通りの感情の発露を終えた老人はポツリポツリと思い出を語っていく。
自分が貧乏だったが子だくさんな貴族の家に生まれたこと。
その中でレティシアは男勝りで、家の兵士に混ざって剣を振るっていたこと。
年頃になって嫁に行くことが気にいらずに冒険者になったこと。
その時、一番可愛がってくれていた自分を誘ってくれた事がとても嬉しかったこと。
やがてレティシアは剣士として、自分は魔術師として名を馳せていったこと。
そして、レティシアが陣頭指揮をとって国の危機を救い英雄になったこと。
「なのに奴らめ!」
そこまで話したところで老人の顔は怒りと憎しみに歪んでいく。
「恩知らずの恥知らずどもめ!」
そのまま感情を爆発させた老人は勢いのまま立ち上がり、チェストへと向かっていく。
そして荒々しく中をまさぐり目的の物を見つけ出す。
それは一本の剣だった。
老人には大きな剣を両手で抱えて持ち上げ、レティシアへと渡す。
「魔剣<ラース>。姉さんのために作った剣だ」
剣を受け取ったレティシアは、そこで初めて動きだし剣を鞘から抜き放った。
それは見事な黄金の輝きを持つ剣であった。
クレイモアと呼ばれる両手用の大剣で、鍔の部分が竜の頭と広げた翼の形で作られていた。
老人はこれを両手で重そうに持っていたが、レティシアは片手で楽々と持ち上げていた。
老人はその姿を懐かしく嬉しそうに見つめている。
「さすがは姉さんだ。剣を持たせたら世界一だね!」
ベッドの上で虚ろな目で大剣を見つめる姿は、老人の知るかつてのレティシアと比べればとても弱々しく見える。
けれども老人の心を歓喜させるには充分なものがあった。
「姉さんを遂に蘇らすことができた。ならば次は復讐だ!」
しばらく在りし日の思い出に浸っていたが、気を取り直して激情して再び立ち上がる。
「さんざん持ち上げておいて、都合が悪くなったら掌を返して姉さんを貶めた全ての者に復讐しよう」
老人は泡を吹くほどに激昂しているが、レティシアがそれに感化される様子はなかった。
「まずは南だ。朝になったら南に行こう。姉さん!」
一通り怨嗟の言葉を吐き終わった老人は息を切らしながら椅子に座り直す。
「姉さん。レティシア姉さん」
そして、疲れてしまったのか、そのまま眠り込んでしまう。
それを見ていたレティシアは剣を朱色で金の金具で装飾された鞘えと収める。
それから窓の外をぼんやりと眺め続けた。
レティシアはそのまま動かないでいたが、やがて時間がたち空が白み始める。
空が明るくなるのにしたがい鳥がさえずりはじめ爽やかな朝へとなっていく。
部屋の中に充分な朝の光に満たされていった頃、レティシアは老人の方へと振り向いた。
老人はまだうつむいたままだ。
レティシアはベッドから出て来てから老人の顔を覗き込む。
その顔には何かをやり遂げた満足感があったが、息をしていなかった。
老人は眠ったまま息を引き取ったようだ。
永遠に動かなくなった老人を見たレティシアの表情には動揺や悲観といった感情は見受けられない。
ただ何も理解できなくてボンヤリとしているようにしか見えなかった。
しばらく立ち尽くしていたレティシアだったが、意を決したのか出口へと向かっていく。
屋敷を出たレティシアは空を見上げてから太陽のほうへと目を向ける。
そして、方位が分かっているのか、南へと歩き始める。
魔剣<ラース>だけを持ち、何日もかけて大森林を縦断し始める。
昼夜を問わず一心不乱に歩き続けていたレティシアだったが、ふと足を止める。
そして、目をつぶって耳をすます。
レティシアの聴覚が何かを捉えて位置を探り続ける。
やがて何かの位置を探り当てたレティシアは大きく目を見開いてから全力で走り出す。
その目はいつもの虚ろな眼差しではなく明確な意思を持った力強い武人のものであった。
その脚力は人の常識を超えた脅威的な速さを誇っていた。
土煙を上げて木々の間を抜けて向かった先には赤毛の少年が狼に囲まれて窮地に陥っているのが見えた。
それを見たレティシアは迷うことなく狼の群れの真っただ中へと突き進んでいった。
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