第三場 担い手としての使命感
窓は礼史の言葉を受けて、問題解決に向けて足を進めていた。
いや、それは詭弁か。もとよりこのタイミングで解決しようと考えていたのだ。
解決すべき問題は二つ転がっている。そして救うべき女性が二人いる。
一つ目は、自分の家庭の事情。母親のこと。
二つ目は、帆ノ宮家の家庭の事情。一香のこと。
まずは自分のことから解決するのが筋だろう。そうすれば一香のことも自ずと解決出来ると考えていた。窓は一ヶ月以上ぶりに、自宅の敷居をまたごうとしていた。
今日は土曜日である。出かけていなければ自宅には鉄哉と尋美が揃っているだろう。自分が今どこにいるかなどは、礼史の親を通じて伝わっているはずだ。それでも会いにも迎えにも来ないのは、負い目を感じているからか、それとも単純に憎まれているのか。それは窓にも分からなかった。
窓は意を決して、自宅の戸を開けた。
靴が並んでいる、奥から光が漏れている。窓は早足でリビングの方へと向かっていく。すると、物音に気づいた鉄哉が、リビングの前まで出てきていた。二人は結婚記念パーティーの時以来に、顔を突き合わせた。
「窓!!!」
鉄哉が大声をあげたので、リビングの奥から尋美も姿を現した。
「窓、窓じゃない!!!」
二人は激昂しているという風には見えなかった。ただただ驚いている、そんな表情だった。窓は小さく呟いた。
「……ただいま」
◆◆◆◆
鉄哉と尋美は、久しぶりに帰ってきた家族の一員を、ひとまずダイニングテーブルに座らせた。そして、今まで何をしていたのか、これからどうしたいのかを、事細かに聞いてきた。
きっと既に、礼史から礼史の母へ、礼史の母から尋美へと、全て伝わっていた内容なのだろう。あくまで裏取りのように、誘導されるように、今までのことを自分の口から言わされた。窓はそれを把握しつつも、自分の口からしっかりと説明した。
窓にも分かっていた。
自分がここで理路整然と話せないとしたら、きっとこれから自分が為そうとしていること、大学を辞めて別の会社で歩もうとしていることに、説得力がなくなってしまう。だからこそ、堂々と、これからしたいこと、すべきことを話した。
「――だから僕は、スピーチで言った通り、立派な経営者になりたい。今のこのチャンスと閃きを、無駄にしたくない。わがままを言っているのは分かっているし、伯父さんのことも、母さんのことも、恥をかかせたのも分かってる。
でも、今やりたいんだ。だから、大学を辞めたい。そして一度<タマル・システムズ>との縁を切りたいんだ」
窓は真剣に話した。鉄哉は腕組みをしながらそれを聞いていた。
尋美はキッチンで紅茶を入れながら、その言葉を聞いていた。
鉄哉が何かを話し始めようとした時、窓目の前のテーブルの上に、ジップロックに入れられた財布と携帯が、ポンと投げ出された。そうしたのは尋美だった。
窓は座りながら、思わず横に立つ母親を見上げた。そして驚愕した。
紅茶を持って帰ってきたかと思った母親の手に握られていたのは、刃渡り二十センチはあろうかという、包丁だったのだ。
「尋美!!!」
鉄哉が慌てて声をあげる。尋美は包丁を前に突き出して、窓の眼前へとその刃を剥き出しにする。舌を出せば触れてしまいそうな切っ先を前にして、窓は仰け反って椅子から転がり落ちた。
窓はすぐに床で受け身を取ると、尻と腕でそのまま後ずさる。尋美もその方向をつ追尾するように切っ先を窓に向けて、口を開いた。
「出ていけっ!!!!!!」
尋美が金切り声でそう発した。
「あんたの言う通り、私は女よ! それでいいわ!
だからもう、あんたのことを息子とは思わない!
競合他社だろうがなんだろうが、どこへでも勝手に行きなさい!」
言いながら、尋美の目から大粒の涙が零れ落ちた。窓はその姿を見て、自分の発言を後悔した。窓の目からも涙が零れ落ちた。
「ごめんなさい、母さん……」
窓が発すると、尋美が包丁を構えたまま、逆の手で窓の財布と携帯の入った袋をもう一度そうに向けて投げつけた。
「いいから、もう行って!!!」
包丁を構え、目からは涙を流し、尋美は声と身体を震わせる。窓は投げられた私物を拾い上げると、深々と頭を下げた。
「……今まで、ありがとうございました」
そして顔を上げた。
「行って……きます」
尋美も、声を上擦らせながら言葉を絞り出す。
「……行って……行って、来なさい!
好きなようにしてみなさい!
秀勝さんがしたように、あなたも自分の力でやってみなさい!
大学なんて、さっさと退学の届けを出してやる! もうあなたに払う学費も必要ないなら、清々するわ!
そのお金で、私と鉄哉さんとで、楽しく旅行でも行かせてもらうわよ!!!」
尋美の言葉を全部浴びきって、窓は頷いた。その顔は微笑んでいた。窓はそのまま軽く会釈すると、走って玄関に向かった。靴の踵を整えることもなく、乱雑に履き、玄関の戸を蹴破るようにして外に飛び出した。
「――――窓!!!」
玄関のに飛び出したところで呼び止められて、振り向いた。
裸足のまま玄関の外まで追いかけてきた、鉄哉の姿があった。
「……悪かった。お前に一言謝りたかった。あのパーティーでの私は、どうかしていたんだ。お前への配慮を欠いていた。
いや違う、私はお前に甘えた。わざと何も気にしていいないかのように振る舞って、そうやって、秀勝の死を、乗り越えようとした――」
鉄哉の細い目からも、細く線を引いて涙が流れ出る。
「――すまなかった。私の、独りよがりだ」
窓は力強く、首をブンブン横に振った。
「謝らないでよ……伯父さんは、何も気にしないに徹して良いんだよ。その強さに惹かれて着いてくる社員もいるんだ、だから謝らないで。
僕の方こそ、伯父さんの晴れ舞台を、潰してしまって、本当にごめんなさい」
鉄哉は眉を上げると、そのまま空を仰いだ。腰に手を当てて、空を仰いだ。
そして、もう一度窓の顔を見たときには、もう笑っていた。
「……行ってこい。やりたいことを、やってこい。もちろん、今生の別れだなんて思わない。帰るべきときには、帰ってこい」
鉄哉はそう言って、窓に親指を立ててみせた。窓も笑顔で返す。
「伯父さん、母さんに伝えて、そして誤っておいて。母さんに一番似合っている肩書は、母親だった。今日の姿こそ、母親の姿だったよ。ありがとうって伝えて。
そしてそんな母さんを任せられる人がいて良かった。伯父さんがいるから、僕は新しく一歩を踏み出せるんだ」
窓は踵を返すと、一歩踏み出して、また止まった。そして振り返る。
「――なんか今日の伯父さんは、『親父』って感じがしたよ」
そう言うと、鉄哉よろしく親指を立てて見せた。鉄哉も大きな声で返す。
「任せろ! 行って来い、窓!」
窓はその言葉を背にして、走り出した。もうわだかまりはない。自分の家庭にしっかりとけじめを付けることが出来たのだ。
必死に足を動かして、必死に足を回転させた。自分の目から涙が溢れていることは分かったが、何の感情による液体なのか、もう全く分からなかった。
人生のあらゆる局面で生じる出来事に色を付けて、一つ一つにリキュールとして名前を付ける。そして好き勝手混ぜ込んでシェイカーで振れば、きっとこの目から溢れる液体の味のカクテルになるのだと思う。つまりこんなものは、きっともう二度と作れやしない。それくらい人生において意味のある水が、惜しげもなくこの道路にこぼれて、自分の通った証を刻んでいる。ヘンゼルとグレーテルの話では、そんな足跡を辿って家に帰る。それと対象的に窓はそんなことを考えていない。ただただ前に進むために、人生のカクテルを染み込ませながら走り続けていた。
◆◆◆◆
窓がひたすらに走って走って向かっていた先は、帆ノ宮家だった。
今度は自分の愛する女性を、ずっとほったらかしにしてしまっている関係を、しっかりと確認するためにここへ来た。
窓は柄にもなく走り続けたせいで、息は絶え絶え、汗もびっしょりとかいていた。とてもこんな姿で、一世一代の大勝負に出るわけにはいかない。目的の帆ノ宮家の表札の前で、窓はしばしへたり込んだ。
――息を整えないと。
その暇に窓は考えた。礼史を介して一香に連絡をとってはいた。自分がこの先どうしたいか、そのプランに一香が含まれていることも伝えてあった。でもそれは卑怯なことであると分かったもいた。自分の口からは何も語っていないのだから。
窓が一香に対して最後に送ったメッセージは、礼史に亡霊のことを聞いたあの日のものだった。その時には色々と検討がついていたから、一香を利用するために狂ったようなメッセージを送ったのだ。
『飛んでいく。僕は飛んでいく。ちょうちょうのように飛んでいく。
桜の花の、花から花へ。とまれよ遊べ、遊べよとまれ』
このメッセージを受け取った一香の心中はいかほどだったろうか。
狂っていることの演出だったから、かなり荒唐無稽だ。本当はタマルを離れていくことを伝えたかったが、それを書いて事を荒らげたくはなかった。だからそのことを飛んでいくという言葉と蝶々に託したのだが、そんなのホームズでも気付きはしないだろう。窓は自嘲すると、自分の呼吸を確かめた。しっかり整っている。
窓は立ち上がると『帆ノ宮』と掲げられた表札の下の呼び鈴を押した。
『――はい』
この声は、一生だろう。出来ればここで一香に出てほしかったが、人生そんなに甘いものではない。窓は意を決して声を出す。
「田丸窓です。急で申し訳ありませんが、お話させて貰えませんか?」
『田丸……窓? お前窓か? 何しに来やがったこの野郎!』
その声とともに、ブツッと通話が遮断された音が響いた。切られてしまったらしい。これでは目的の一香には会わせて貰えそうもない。どうしたものか。
一香の部屋に向けて小石でも投げてみようか。そんなありがちなストーリーを頭の中で描いてみたが、それは実現しなかった。
すぐに玄関が開き、血相を変えた一生が飛び出してきたのだ。
「てめえ、よくここに来られたな!!!
殴られに来たってことでいいな!?
親父に恥をかかせただけでなく、妹もまでおかしくしやがって!!!」
それを聞いて窓は目を丸くする。
「おかしくなった? 誰がですか、一香がですか!」
「そうだよ!!!」
その言葉とともに、窓の左頬に激痛が走った。思い切り拳を浴びせられたのだ。窓は帆ノ宮家の外壁へと、強かに打ち付けられた。
――その時、家の中の方から声がした。
「一生、もういいから窓くんを連れて来い――」
帆ノ宮の声だった。興奮収まらぬ一生は、殴り足りないとばかりに窓を壁に張り付けて、拳を振りかぶっている。
「一生!!! 聞こえないのか!!!」
帆ノ宮の怒号が響き、ようやく一世の手が下ろされる。
「……チッ、ついてこい!」
窓は脱力してその場に座り込みたい気分だったが、一生の言う通り、後について行った。そして帆ノ宮家の敷居をまたぎ、家に入る。
「……お邪魔します」
そう言って居間に通されると、そこには帆ノ宮がどっしりとソファーに座っていた。奥のキッチンの方では神妙な面持ちで奥さんがお茶を煎れている。窓は小さく会釈して帆ノ宮の前に歩み出る。
「ご無沙汰しています――」
窓は頭を下げた。
「あの日は迷惑をかけて、本当に申し訳ありませんでした」
帆ノ宮は『もういい』とでも言いたげに、咳払いした。
「……さっき鉄哉さんから電話を貰った。だから事情は察している。だからもう謝らなくてもいいし、何もしなくていい。こちらにも落ち度はあったんだ。だから今日はもう帰ってくれ。もうお前のことをあれこれ言う気もない、好きにしろ。だからさっさと帰ってくれ――」
帆ノ宮はそう言いながら立ち上がった。窓はすがりつくように発する。
「待って下さい!」
「……なんだ」
「一香に、一香さんに会わせて貰えませんか!?」
一生が窓の首根っこを掴む。
「てめえ、どの口が言ってんだよ!?
もういいから帰れって言われてるだけでも恩情だろうが!?
その上どの口がこっちに要求していやがる!?」
「一生! やめないか」
帆ノ宮が制して、一生が手を離す。帆ノ宮が窓の顔を覗き込む。
「いいか窓くん、止めはしたが、私だって気持ちは一生と同じだ。
私は鉄哉さんのように、お前に悪いなんて大して考えてないんだからな。
だから反乱分子となり、反乱分子を刺激するお前がタマルを離れると言うならば、こちとら万々歳なんだ。だがその代わり、一香とも会わせる気はない。分かったら帰りなさい」
――その時、窓の耳に、遠くから歌声が聞こえてきた。
「ちょうちょう、ちょうちょう、なのはにとまれ――」
その声に、うんざりとした様子で帆ノ宮と一生が振り返る。
「……あの日から、あの結婚記念パーティーの日の夜から、一香はずっとこの調子だ。通常会話が出来ない。ずっと歌い続けるばかりだ。
お前のせいだ。お前のせいで一香は正気をなくしたんだ!!!」
叫びながら、ついに耐えかねたのか帆ノ宮が窓の胸ぐらを掴む。
歌声が尚も近づいてくる。
「さくらのはなの――はなからはなへ――あそべよ……って、窓?」
胸ぐらを掴まれながら振り返ると、そこには一香が立っていた。帆ノ宮や一生が言うように、狂った様子などまるでなかった。ただ鼻歌を歌いながらリビングに来たら、たまたま窓が来ていた。そんな風にしか見えなかった。
「窓……窓……待ってたんだよ」
一香は涙ぐむと、そのまま帆ノ宮を突き飛ばして、窓に抱きついた。その姿を見て一生は取り乱している。
「どうなってんだ!? 一香はずっと狂っちまってたじゃないか!?」
キッチンで立っていた一香の母がクスクスと笑う。
「うちの男ってのは、本当に馬鹿だね。一香ならずーっと普通よ。ただずーっと演技はしていたけどね」
「……やっぱり、ママは知ってたの」
「当然。母親だもの。面倒だったんでしょ? あれやこれや訊かれるのが」
一香の母はそう言ってウインクして見せた。そして玄関の方を顎でしゃくってみせた。外へ行けという意味だと、窓には瞬時に理解出来なかった。しかし一香には理解出来たらしい。
「窓、行こう!」
一香が窓の手を引く。窓も言われるがままにその後をついていく。
「おい! 待たないか!」
帆ノ宮が声を張り上げたのを聞いて、窓は立ち止まった。
「窓!? 何してるの、早く行こう!」
窓は頭を振った。
「一香、僕はね、今日ここに駆け落ちを宣言しに来たんじゃないんだ」
「……え?」
「僕は本気で、一香を貰いに来たんだよ」
一香はキョトンとしてその場に立ち尽くした。
窓はゆっくりと歩き、帆ノ宮の前へと戻って行った。そして激昂する帆ノ宮の前に両手を付き、丁寧に頭を下げた。
「……帆ノ宮さん、迷惑をかけて、タマルを裏切って、こんなことを言える身じゃないことは百も承知です。でも、僕は今日これを言いに来たんです。
僕は今、新しい事業を起こしています。帆ノ宮さんが、僕の父としたことと、同じことをしています。そうすることで僕は、父さんに、帆ノ宮さんに、並びたいと切に思っています。そしてタマルにライバルと認められるような、そんな立派な会社を作ってみせます。そしてタマルに危機があれば助けれられるような強い会社になります。だから、今すぐにじゃなくていい、一香さんと一緒になりたい。
それに相応しい男になります。だから僕と一香の交際を、許して下さい!」
額を地面に擦り付けて、窓は心から懇願した。
てっきり頭を踏みつけられると思っていた窓は、目を瞑ってその時に身構えていた。しかし、その時は訪れなかった。
「――男が簡単に、土下座なんてするもんじゃない。顔を上げろ」
帆ノ宮の声に、窓は顔を上げた。立っていたはずの帆ノ宮は、ソファーに戻っていた。威勢のよかったはずの一生も、気付けばキッチの方に腰掛けて、母親の煎れたお茶を飲んでいる。
帆ノ宮が口を開く。
「……新しい事業、立派な男、それとタマルを助けるだって?
言いたい放題言ってくれる。誰かとそっくりだ。全く腹立たしい」
窓はそれでも、帆ノ宮の目を見据えて、視線をそらすことは無かった。
「――その目。そっくりだな、秀勝に。昔から生意気だった。
でもな、言ったことは何だって実現しやがるから、こっちも手に負えない」
帆ノ宮は大きく息を吐くと、観念したように目を閉じた。
「――三年だ。三年以内にお前の会社がタマルと仕事が出来るくらいになってみせろ。そうしたら、一香とのこと、考えてやってもいい」
「三年って、結構甘くね?」
一生が横から口を挟むと、帆ノ宮は一生を睨みつけた。一香の母は、娘に向かって親指を立てて見せた。
窓は立ち上がると、大きく頭を下げた。
「ありがとうございます! 絶対に三年で、結果を出してみせます!」
帆ノ宮は後ろを向くと、埃でも払うように、窓に向けて手を振った。
「ああ分かった分かった。分かったから、もう行け」
窓はもう一度しっかりと頭を下げた。そして一生と母親の方にも頭を下げた。
「急に来てしまい、ご迷惑おかけしました。失礼します」
そう言うと、一香の手を引いて、玄関の方へと早足で向かった。
◆◆◆◆
窓と一香は、外に飛び出すとそのまま走った。
一香の手を引く窓の顔には、やりきったという笑顔が浮かんでいた。そして手を引かれる一香の目からは、涙が溢れていた。
帆ノ宮の家から見えなくなる程度に遠ざかった所まで来て、窓は振り返り、走って来る一香の身体を強く抱きしめた。
「……一香、ゴメン、待たせてゴメン」
「いいの。全部、良かった。窓のさっきの言葉を聞いて、全部良かった。そう思えたから、もう何もかも、全部いいの」
一香も窓の腰に手を回してきつく抱きついた。その感触に窓はたまらなく幸せなものを感じた。一香の温もり、一香の匂い、一香の声、そのどれもが自分にとってどれほど大切なものなのかを、細胞レベルで噛み締めた。
「……どうして、ずっと歌って、狂ったふりなんてしてたの?」
「……窓のメッセージをずっと読んでいたら、勝手にパパ達が狂った、狂ったって言ってきたから、話をあわせちゃっただけ」
そう言って一香は、茶目っ気たっぷりに舌を出して見せた。
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