第二幕

中:個人の事情

第一場 開孔

 礼史れいじは、そうが結婚記念パーティーで見事なマイクドロップを決めた時、内心ガッツポーズを掲げていた。未来の上司となるであろう帆ノ宮ほのみやを会場の端まで引き摺り、関節技に近い体勢で固めていたことがどんなにまずいことかなんて、吹き飛んでいた。

 同じ気持ちだった人間は多数いるだろう。それ程に帆ノ宮の言動は常軌を逸していたと思った。現に娘の一香いつかまでもがノーを突き付け、蒼人あおと世良せらのような『秀勝ひでかつ派』と言える旧社長時代からのメンバーも、窓の行動を助けたのだ。

 だから礼史は、窓はそれほど気に病む必要なんてないと考えていた。しかし、窓が確実に気に病んでしまう性格であることも分かっていた。だから絶対に事後、窓を一人にはすまいとスピーチの最中から心に決めていた。

 しかし窓を一人にすることを助長するかのようなタイミングで生じた照明の不具合のせいで、その姿を見失ったのだ。

 会場は取り乱す鉄哉てつやと、泣き崩れる尋美ひろみ、更には拘束を解いた帆ノ宮が怒り散らかしており、社員達は戦々恐々としていた。

「礼史くん、窓を追って!」

 尋美の介抱をしながら一香が言った。

「礼史、こっちの後始末は任せろ。窓のとこに行け、例のことを伝えろ!」

 一生とともに、帆ノ宮を抑えながら蒼人が言った。

 礼史は二人に頭を下げて、会場を後にしたのだった。

 それからはホテルの屋上やら、各階のテラスやら、庭園やらを探したが見つからず、タクシーに乗って窓の自宅に向かったりなどと右往左往したが見つからなかった。

 何度電話をかけても繋がらないことが、否応なしに礼史の不安を煽った。

 そしてついに、会場直ぐ側の河原で寝そべった窓を発見するに至ったのだ。


◆◆◆◆


 ――礼史と窓は、母親の運転する軽自動車に揺られていた。

 予め窓がずぶ濡れであることを伝えてあったので、後部座席のシート全体に透明のゴミ袋が敷き詰められていた。

「おばさん、すみません」

 いくらか落ち着いた様子の窓が、後部座席から運転席に声をかけた。運転席に座る礼史の母・本田由岐ほんだゆきは、前方から目線を外さずに答える。

「いいのよ。何があったか知らないけど、窓ちゃんも礼史も、家についたらさっさとお風呂に入っちゃいなさいよ」

 由岐は深く訊いては来なかった。礼史は先刻の電話で『いろいろあった』とだけ伝えていたが、それだけで深く踏み込むこんではいけないと察した母親に対し、流石だなと感じた。

 その後は、終始無言のまま車は走り続けた。バックミラーに掛けられたお守りにくっついた小さな鈴の音が鮮明に聞こえるほど、運転音以外は静寂に包まれた。

 礼史の自宅に着くと、由岐が促すままに風呂場へと向かい、何年ぶりだろうか、自宅の風呂に窓を招き二人で入浴した。

 ごく普通の一軒家の風呂場に、洗い場が複数あるはずもない。窓を先に風呂場に行かせて、礼史は外の洗面所で洗い終わるのを待った。

 窓が浴槽に入ったのを合図にして、礼史が風呂場に入りバスチェアーに座った。

「思い切ったことをしたもんだな」

 礼史は頭につけた整髪料を流し落としながらそう言った。

「あんなこと、するつもりは無かったんだけどね」

「そうだろうよ。しっかり黒いネクタイまで持って、準備の良いことで」

 シャンプーのポンプを押しながら、茶化すように言うと、窓は口までお湯に潜ってブクブクと泡を立てるだけで、何も答えなかった。礼史は頭髪を泡立てながら口を動かした。

「……黙ってたことがある」

「そうだろうね」

 窓が間をおかず返答する。ちゃっかりしてるなと礼史は思った。

「一週間くらい前のことだ。先に断っておくが、今の今までお前に言わなかったのは、今日のパーティーが終わって落ち着いてから話そうと思ったからだ」

「結果落ち着かなくて、申し訳ないね」

 窓は自嘲気味に笑った。その様子に礼史は少し安心した。いつものペースに戻ってきたように感じたからだ。礼史は続けた。

「夜中にタマルに来るように世良さんから電話を受けた。要件は『亡霊が出たから見てほしい』ってことだった」

「亡霊……?」

「ああ。俺もおかしいと思った。だって俺に霊能力でもあれば話は別だが、どっちかと言えば真逆だろ? 俺は心霊体験そのものをしたことがないような人間だ――」

「――そして、しても気付かないような人間だ」

 割り込んだ窓を礼史が睨みつけると、窓は舌を出して見せた。

「……やめるか? この話ここでやめるか?」

「ごめん、ごめん、続けて下さい」

 礼史は嘆息を漏らすと頭からシャワーを掛け流した。顔から流れ落ちる泡が途切れると同時に、また口を開く。

「まあとにかく、それで夜中のタマルに言ったわけだ。そしたらそこに蒼人さんもいてよ、数日前の監視カメラの映像を見てくれって言うんだ」

「うん、うん」

 礼史はボディーソープを馴染ませたタオルで身体を擦りながら続ける。

「それで世良さんがその日の映像を再生したら、そこに亡霊になった、おじさんが映ってた」

「はぁ!?」

 窓が声と同時に浴槽内で立ち上がる。勢いで発生した飛沫が礼史の身体に当たって弾ける。その部分だけ泡が落ちた。

「礼史その『おじさん』っていうのは何を意味してる? そのへんの『おじさん』という意味なのか、もしくは僕の『父さん』って意味なのか」

「……分かるだろ。後者に決まってる」

「嘘……でしょ」

「……マジだ」

 礼史はシャワーで全身の泡を洗い流しながらそう言うと、浴槽で静止した状態の窓に『半分あけろ』とジェスチャーし、自分も浴槽に入った。

 窓は信じられないといった様子で膝を抱えて黙っている。無理もない。礼史だって逆の立場だったとしたら、一笑に付すことだろう。窓が口を開く。

「……なんで」

「あ?」

「なんで亡霊なの。幽霊じゃないの?」

「そういや、そうだな……って、突っ込むのそこかよ!?」

「いや、何となく亡霊ってのが気に食わなくて」

 窓は憮然とした表情をしている。こんな返しが出来る余裕があるのか。礼史は想定と異なった反応に鼻白む。もしかすると窓は、まだ半信半疑といったところなのかも知れない。百聞は一見にしかず。この件に関してはこの言葉に尽きるのだろう。その一見の破壊力をもって証明するしかない。礼史はそう考えた。そして仕切り直して本題に戻る。

「……世良さんが初めに電話で『亡霊が出た』って言ったからよ、なんとなく釣られてそう言ってるだけだ。特に他意はないぜ。

 まあ、呼び方はともかくな、俺は見たんだ。あの霊は間違いなくおじさんだった。そして音声こそ無かったが、唇を読んで分かった。お前のことを、呼んでいた」

「呼んでいた? 僕を?」

「そうだ。映像の中のおじさんの口が動いていた。窓、窓、窓、窓……ってな」

 窓は訝しげな表情を浮かべて礼史を見る。

「……それ、確かなの?」

 礼史とて、確かかと問われれば自信があるとは言えない。何せあの状況であの監視カメラ程度の画質だ。確実であるとは答えにくかった。

「俺には、そう見えた」

「俺には……にトーンダウンしたね?」

 横から伏し目がちに視線を送ってくる窓に、礼史は浴槽のお湯を引っ掛けた。

「仕方ないだろ、確約出来ないんだ! 自分の目で確認しろ!」

 顔を左右に振って水滴を弾くと、窓は悲しそうな表情を浮かべて微笑んだ。

「是非……確認したいね。もしそれが本当に、どんな形であれ、父さんならば……」

「……よし、とにかく風呂から出よう」

 礼史はそう発して立ち上がった。


◆◆◆◆


 風呂から出ると、二人に着衣はいつの間にやら洗面所から姿を消しており、代わりに礼史の普段遣いの服が二セット置かれていた。その上には、窓の財布や携帯も取り出して置いてある。

 由岐の配慮に感謝しつつ、二人は服を着ると、髪も乾かぬうちに礼史の部屋へと向かった。途中由岐が食事はどうするのかと声をあげていたが、気のない返事だけして足は止めなかった。

 部屋に入ると礼史はベッドに、窓は小さなテーブルの前にある座椅子に腰掛ける。

 窓は腕を前に突き出して袖丈を確認しているらしいが、ほとんど自身のサイズと変わらないことを再確認しただけに留まったようだ。

 しばしの無言の後、礼史が口を開く。

「……おじさんに、会いに行く……んだよな?」

「……うん。出来れば」

 窓は考えながらも、すぐに答えた。礼史は続けて問いかける。

「いつがいい?」

「出来るだけ、早く」

 礼史の言葉尻に食い込まんばかりに返した窓は、改めて意思を示したように思えた。礼史は一呼吸入れ、携帯を取り出すと世良に電話をかける。

 耳元で呼び出し音が鳴っている暇に、窓に言った。

「いっちゃん、きっと心配してるぞ。連絡くらいしておけよ」

「……そうだね」

 窓は小さく頷くと、自分の携帯を取り出して、何やら打ち込み始めた。ようやく一香に連絡をしているのだろうと、礼史も少しホッとした。

 ――その時、世良が電話に出る。

『礼史くん、今どこ? 大丈夫だったかい?』

 開口一番、名乗るよりも先に質問をされて、礼史は驚いてしまった。心配をかけていたのは窓だけではなく、自分もなのだと気付かされた。

「すみません、大丈夫です。窓とも合流出来て、今一緒にいます」

『それは良かった――え? うん、そう礼史くん、窓くんも一緒だって――あ、ごめんごめん、後ろから蒼人くんが誰だ誰だってうるさいもんだから』

 蒼人も一緒のようだ。確かに遠くの方で蒼人のがなり声が聞こえてくるようだ。その様子に、礼史は幾分安心感を覚えた。

「それで、その後、会場はどんな様子でしたか?」

『……ひどいもんだよ。大混乱でね、そのままお開きさ。僕も蒼人くんも、帆ノ宮さんから罵声を浴びせられたよ』

 酷い扱いを受けたのだろう世良だが、その声は特に落ち込んだようすもなく、乾いた笑い声まで発している。きっと自分も会場にいたら、帆ノ宮から二人以上に罵られていたことだろう。

「すみませんでした」

『なんで謝るの。そんな必要はないよ、礼史くんも、それに窓くんだってね』

 世良の優しい気遣いに目頭が熱くなるところだったが、窓の名前が出たところで礼史はハッとして本題を思い出す。

「そうだ! それで例の話を、窓にしたんです。そしたら自分の目で確認したいと言っています」

『例の話って……霊の話だね。紛らわしいね、ちょっと。でも意味は同じか』

 意外と緊張感のない世良に鼻白んだが、礼史は続けた。

「それで、なるだけ早いうちが良いって言うんですが、いつなら大丈夫ですか?」

 世良は間をおかず答える。

『いつでもどうぞ。なんなら今からでも大丈夫だよ』

 礼史は目を見開いて窓に目配せする。窓にもニュアンスが伝わったらしく唇が『いま?』と動いているようだった。

 礼史がコクコクと頷いて今であることを肯定すると、窓は親指を立てて『今からでOK』を示した。

 今か……。

 気後れしたのはむしろ礼史の方だった。色々とありすぎた一日で、始終駆け回っていた気分だ。正直、疲労困憊だった。

 それでも窓の瞳は燃えているし、世良も二つ返事で了承するなど、周囲は皆アグレッシブだ。付き合うしかないか、と心のなかで零した。

「それじゃあ……窓も行けると言ってますので、お言葉に甘えて今からでもいいですか?」

『もちろんだよ。こっちはいつでもいいから、焦らずにおいで』

「分かりました。ありがとうございます。それじゃ後ほど」

『はい、じゃあまた』

 それを聞き届けると、礼史は携帯を耳から離し、通話終了をタップした。

「いつでもいいってよ。世良さんは焦らずおいでって」

「そっか……ありがたいね」

 亡霊との遭遇が身近に迫ったからか、窓は少し緊張の面持ちとなった。

 その時――礼史の携帯が鳴動し、着信を伝えた。

 ディスプレイには『㈱タマル・システムズ』と表示されている。これは以前インターンで通っていた時に教わったもので、市外局番からなる会社本体の電話番号だった。

 礼史は表示を窓に見せる。窓も首を傾げている。

「……タイミング的に、世良さんじゃない?」

「だな」

 窓は通話アイコンをスワイプして、電話に出た。

「はい、本田ですが」

『………………』

 返事がない。

「もしもーし、世良さん? それとも蒼人さん?」

『………………』

 これにも反応がない。電波状況が悪いのだろうか。礼史は首を傾げる。

 聞き耳を立てる礼史に、電話越しにカチカチと何かの物音が聞こえた気がした。

 ――と思った次の瞬間、礼史は心臓が止まるかと思った。

『……そうそうそうそうそう……』

 礼史は思わず携帯から手を離してしまった。支えを失った携帯はベッドを跳ねて強かに床へ転がり落ちた。

 それは礼史の知っている声だった。間違いなく、田丸秀勝の声、それだった。

 どこか物悲しい口調で、洞穴から言葉を発するように静かに響いてきた。まるで脳の中に直接入り込まれそうな、そんな得も言われぬ恐怖を感じた。

 後ずさる礼史を見て、窓は不思議そうな顔をしていたが、ふと事態を察知したのか、ゴクリと唾液を飲み込みながら、落ちた携帯に手を伸ばした。

「……もしもし」

 窓は発すると、しばらくそのまま携帯を耳に当てていた。

 程なくして窓の目から、ツーと線を引いて一筋の涙が溢れた。

「……父さん、父さんなの? 僕だよ、窓だよ」

 その言葉から察するに、礼史が聞いたものと同じものを聞いているのだろう。

 よく聞いていられるな、怖くはないのか。礼史は思った。これが実子と知り合いとの壁なのかも知れない。

 窓が呟いた。

「……待ってて、今、確かめに行くよ」

 窓は携帯を耳から離し、礼史に手渡した。礼史は熱い芋でも受け取ったかのようにあたふたと携帯を持て余し、何も聞かずに通話終了のアイコンを連打した。

「……礼史、どう思う?」

「どうって、お前、こんなのリアルに怪奇現象じゃねえか!」

 窓は苦笑いを浮かべる。

「おいおい、父さんを悪霊みたいに言わないでくれよ」

「いや、悪い。でもよ、この電話に、会場の照明に、正直気味が悪いことばっかりだぜ。怪奇現象とも言いたくなるだろ!」

 礼史が必死に弁明をしている最中、再び礼史の携帯が鳴動した。

「うわぁ!」

 手に持った携帯が突如音を発してバブレーションしたことに驚き、礼史は再び携帯を投げ捨てるように手放した。

 窓はその光景を見て思わず吹き出した。

「礼史、携帯壊れるよ」

 床に落ちた携帯は、偶然ディスプレイを上にして転がった。着信表示には『世良真純』と示されている。

 礼史はホッと胸を撫で下ろし、携帯を拾い上げる。

「……別に、ビビってねえからな」

「嘘も大概にしてよ」

 礼史はこほんと咳払いをすると、通話アイコンをスワイプした。

「はい、本田ですが」

『あ、礼史くん? すまないね度々』

 紛うことなき世良の声だった。礼史は胸を撫で下ろす。安堵のまま言葉を返す。

「世良さん、どうしました?」

『さっき言い忘れたんだけれど、ひとつ頼まれてくれないかな』

「あ、はい、いいですけど、なんでしょう?」

『実は懐中電灯を準備していたんだけど、電池の予備が無くってね。悪いんだけど単三電池をいくつか買ってきて貰えないかな? もちろんお金は出すよ』

 礼史は電話ごしなのも忘れて大きく頷く。

「単三電池ですか、了解です!」

『悪いね。あ、レシートは貰ってきてね、領収書はいらないから』

「はい、分かりました。それでは失礼します」

 礼史は通話を終了すると、窓の方を向く。

「内容、聞こえた?」

「聞こえてないけど、お使いかな」

「正解」

 礼史はベッドに携帯を置くと、そのままベッドに横になった。

「少し、休んでからでもいいだろ?」

「うん」

 窓も慣れた手付きで座椅子を一度折り曲げ、倒すように開けて水平にすると、その上で横になる。開いた時に骨組みがカチカチ鳴った音を聞き、礼史はふと先程の怪奇現象について思い出してしまった。

「あぁ……さっきの怪電話の時もさ、そんな感じの音がしたんだよ、ラップ音ってやつなのかな、おぉ怖え」

「だから怪電話だのラップ音だの、悪霊扱いはやめてもらえるかな」

 窓はムスッとして、わざとらしく礼史の方に背中を向けた。

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