第八場 劇場

 力ない足取りで高砂脇、帆ノ宮ほのみや一家が構える位置までたどり着いた。

 一香いつかは心配そうな表情でそうの動向を見つめていた。窓はそれに気付いていたが、敢えてしっかりと目を合わせることをしなかった。

「それでは一言頂きましょう!」

 帆ノ宮はそう言うと「頼んだよ」とばかりに窓の肩を二度三度叩いた。完全に調子に乗っている。全てが自分の思惑通りに進み、このアドリブでのイベントも自分の器量によりもたらされたのだと、脳内にポジティブな物質を充満させているのだろう。

 窓はニヤリと笑う。そのお前の脳内をノルアドレナリンでいっぱいにしてやる。

 帆ノ宮に会釈すると、マイクを受け取った。

 窓は家族と呼ばれたものを一瞥いちべつする。今にも飛び出さんばかりに身を乗り出して、今か今かと窓の言葉を待つ鉄哉てつや、泣く準備が万端であることを物語るように潤んだ瞳を向ける尋美ひろみ。まるで我が子の初めての発表会でも見に来ているかのようだ。

 窓は呟いた。誰にも聞こえない微かな声で。

「いいよ、もう。僕は話したいことを話すから」

 一つ息を吐き出すと、窓はマイクを口元に寄せて話し始めた。

「父さんと、母さんに、一言ずつ……話します」

 会場から「おおおぉぉぉ!!!」と歓声が上がった。窓が「父さん」と発したからだろう。

 その歓声の静まりを待って、窓は続けた。

「……こうして、前に出て喋るなんて柄じゃないんです。だけど、本当に尊敬できる存在の父さんに、その姿を見せたいと思ったので、ここに立ちマイクを持ちました」

 窓の透明感のある声とその続きを期待させるような言葉の切り方や口調、更には眉目秀麗な出で立ちも相まって、人を惹きつけるには充分だった。

 言葉を切ったところで、再び会場からは拍手が巻き起こった。

 最前列に陣取っていた金星かなほし花輪はなわが、そのざわめきに乗じてガヤを入れる。

「いいぞ! いいぞ!」

「窓くーん! ネクタイくらいしようや!」

 その言葉にハッとして自分の胸元に目を遣った。

 ――なるほど。

 窓は思った。言われてみればネクタイを付けていなかった。蒼人あおとに散々言われたのに付けていなかった。でも付けていないのには理由があった。

 窓は今日、二択を迫られていた。だから可能性の数だけネクタイを持っていた。背広の外側右ポケットの中には『うまくやる』用のネクタイが、左胸の内ポケットには『やりたいようにやる』用のネクタイが準備されていた。

 窓は指摘した花輪に向けて手で礼を述べると、その手で左胸の内ポケットに手を遣った。そして取り出したネクタイを持ってくるりと後ろを向き、ネクタイを巻いた。

 次に窓が振り返った時、会場は静まり返った。


 窓の首からぶら下がっている、まるで通夜のような漆黒のネクタイに絶句した。

 窓は微笑みながら、再びマイクを口元に寄せる。


「父さん。父さんはあの日、亡くなってしまったけれど、今も僕の心の中では、生き生きと存在しています。たった一人の尊敬出来る父さんです」

 背後に立っていた帆ノ宮は事態を把握できていなかったが、その言葉に流石に違和感を覚えたのか、窓を止めにかかる。

「おい! お前、何を考えて――」

 窓の肩を掴もうとした時、帆ノ宮の身体は背後から羽交い締めにされ、後ろに引き摺られて行く。礼史れいじだった。

「スピーチの邪魔しないでくださいよ、帆ノ宮さんが喋らせたんでしょ」

「違う、離せ!」

「終わったら、離しますので、一回ここから離れましょうか、ね?」

 礼史は振り向いた窓に「やれ」と目配せをした。

 今度は帆ノ宮一家の席から一生いっせいが勢いよく立ち上がる。

「礼史、親父を離せ! 何考えてるんだ!」

 一生が止めに入ろうとした時、その背後から誰かが一生に肩を組んだ。蒼人あおとだ。

「一生、ちょっと黙ってろ。もとはお前の親父が、けしかけたことだろ?」

「あ、蒼人!? お前何言ってんだ、今がどういう状況か分かってんのか!?」

「……お前らこそ、窓がどういう状況か、分かってたのかよ? 同期のよしみでぶん殴るのは勘弁してやるからよ、ちょっと座っとけよ」

 蒼人が高圧的にそう発すると、ただならぬものを感じてか一生は力なく腰を下ろした。隣から涙声で一香いつかが呟く。

「こうなったのは、パパのせいなんだからね、窓は、我慢してたんだからね……」

 蒼人は大きく頷くと、窓に向かって親指を立てた。窓には行けと言っているように見えた。

 窓は再び前を向く。前列では世良せらが金星と花輪の間に割って入り、黙って見るように促しているようだ。窓はそんな世良の笑顔に、小さく会釈して話し出す。

「ここで僕は、父さんに、そして会場にいらっしゃる皆さんに約束したいと思います。僕は父・田丸秀勝たまるひでかつのような、立派な経営者になります。それは、今現在の<タマル・システムズ>のあり方とは違うかも知れない。僕はもっと、シガラミのない、父さんが実現したような、実力と技術でのし上がる事が出来るような、そんな会社を経営できる、立派な人間を目指します。

 憧れではなく、目標ではなく、同じ目線に立てるように、僕がいつか死んでそっちに行った時、父さんと酒を片手に対等に語り合えるように、立派な人間になります」

 窓の頬にはいつの間にか、涙が伝っていた。

 高砂席の方に目を遣る。尋美が嗚咽混じりに泣いていた。反論に飛び出してくるかと思った鉄哉が、その場で頭を抱えて下を向いたまま動かないのは意外だった。

 窓は思った。その実行力のなさが、父さんと伯父さんの差だと。

 会場は不思議なほど静まり返っていた。止める者がいてもいいし、席を立つ者があってもいいような状況だが、皆一様に鎮座し、窓の言葉に耳を傾けていた。

 窓は不思議なくらい落ち着いていた。

 泣いているのは父を偲んでいるからだけではない、自分の言葉で自分の意見を述べたた事に対して、自己陶酔している部分もあった。そんな分析すら出来ていた。

 ――まだ言えていないことがある。

 窓はマイクを握り直して口を開いた。

「母さん――。僕は正直、今日一番がっかりしたのは、母さんに対してだよ。

 だって分かっていたから。伯父さんがこの程度の人間だってことも、帆ノ宮さんが人の心を重んじない下劣な輩だってことも、それに付き従う金星さんや花輪さんが馬鹿犬だってことも。全部元から知っていたから。それほどショックじゃなかった」

 それを聞いた金星は、横の世良を突き飛ばすと、窓に掴みかからんと勢いよく立ち上がった。

「てめえ、調子に乗ってんじゃねえぞ!!!」

「――黙って!!!」

 金星の怒鳴り声に被せるように、甲高い声が響いた。一香の叫び声だった。

「黙って、窓の話を聞け!!!」

 一香は席から立ち上がると、机を叩くように勢いよく手を付きながら叫んだ。

 その迫力に気圧されて、まるで飼い主に叱られた犬さながらに、鼻白んだ様子で金星はその場にへたり込んだ。

 窓は一香を振り返ると、親指を立てて見せた。そして前を向き、また口を開く。

「――母さんと伯父さんの間に何があったかなんて知らない、知りたくもない。だからそれは勝手にすればいい。僕の許可なんて必要ない。

 でもさ、デリカシーってもんがある。何だい、そのドレスは?

 どこの子供がそんなに胸の開いた母親の姿を見たいって言うんだよ。只々気持ちが悪いよ。いい歳こいて、この状況下で、人前で浮ついているのもどうかと思うよ。

 人前でね、人前で。

 父さんを、父さんのことを、未亡人ってことを忘れてるの? 年相応って言葉を忘れてるの? もっと慎ましくあるべきじゃないのかな、少なくとも僕はそう思う。

 始め、母さんは権力が好きなのかと思った。社長夫人という肩書きを捨てられないのかなと。だから伯父さんなんかと再婚したのかと。

 でも違うんだ。田丸尋美と言う人間の肩書きは、社長夫人でもないし、母親でもない、シンプルに『女』だ。もう分からない、母さんと呼べばいいのか、女さんと呼べば良いのか、もう僕には分からない! 勝手にしてくれ! お幸せに!」

 次第に勢いを増した窓の独演は、窓がマイクを床に放り投げて発せられたハウリング音で幕を閉じた。

 窓は静まり返った会場に背を向けると、そのまま会場の外へと向かって歩き出した。横目に見えた尋美は、メイクが崩れ黒い涙を流すほどの号泣をしていたが、窓はそんなことを気にも留めなかった。

 その時だった。突然、窓の視界が暗くなった。自分が気を失ったのかと錯覚したが、そうではなかった。会場の照明が消灯したのだ。会場から悲鳴にも似た声があがる。

 停電かと誰もが頭に過ぎったが、次の瞬間今度は点灯し、また数秒もせずに暗転するを繰り返した。会場は点滅する照明に翻弄されていた。

 従業員は慌てて大声を張り上げる。

「慌てないで下さい、照明のトラブルです、今原因を確認しています!」

 窓にはこれが、秀勝からのメッセージであるかのように感じられた。

 それが「よくやった」とも聞こえるし「やりすぎだ」とも聞こえた。何故かいても立ってもいれらなくなり、混乱に乗じて窓は走り出した。


◆◆◆◆


 廊下を駆け抜け階段を下ってホテルの外へと飛び出す。不思議なことに、道中の電気は何の問題もなく点灯していた。

 勢いよく外に飛び出すと、外は明るかった。昼間っから何をしているんだろう、そんな気持ちが強くなった。窓はホテルに沿った唐川の河川敷に向かって再び駆け出した。川の空気を感じたいわけではない。単純に人気のない場所に行きたかった。

 河川敷とホテルの間のせり上がった道路を渡ると、ランニングコースに使われ舗装されたの長い一本の道があり、そこを超えて草の茂った斜面を下ると河川敷に出る。

 普段は少年野球やサッカーなどが行われていることもある広場だが、今日は何も行われていないようで、あまり人気は無かった。

 窓は河川敷を走り抜けて河原までやってきた。革靴は、足元の小石と小石の間を通り抜ける川の水に濡れ、その水滴が光を反射していた。

 窓は大きく息を吸い込んだ。そして吐息代わりに川に向けて発した。

「身体が熱い、胸が熱い。あつい……厚い、と言うなら僕の面の皮の方か。らしくないことをしちゃったもんだ。今日は我慢だって決めていたのに、うまくやろうって決めていたのに。どうにも抑えられなかった、駄目だった。

 耐えようとした、良い子であろうとした。でもそれに付け込んで、あんなに辛辣な扱いを受けてどう耐えろっていうんだ。そもそも何故僕が耐えなきゃいけないんだ。堪え性のないのはお前達の方だろ。或いは権力に、或いは情欲に、素直すぎるのはお前達の方だ。

 ……会場はどうなっているかな、僕はどう思われているかな。きっとぶち壊した悪人だ。悪が本当はどこに蔓延っているかなんて、見ている人からすればどうでもいいことなんだ。何が問題で誰が悪か、それさえ分かれば不自由ない、叩くことには困らない。それで御輿を担ぐんだ、正義という名で祀るんだ。宗教にも似た正義信仰は善悪基準の価値観を、いつの間にやら無くすんだ。集団心理の糾弾神儀、敵を見つけて踊るんだ。

 叩くんだったら僕でいい。僕に加担した人じゃない。礼史や一香や蒼人さん、世良さんだって関係ない。皆知らんぷりしてほしい。僕を放って逃げてくれ。僕を悪にして踊ればいい。納得無くとも舞えばいい。それで皆が怪我をしないなら、喜んで僕は僕を差し出すよ。

 父さん、どうかな?

 今日の僕は立派だったかな。それとも怒ってるかな。いつもみたいに『いいぞ、窓!』って言ってほしいけど。なんだろう、聞こえてくる気がしない。母さんを傷つけたからか。父さんはきっと、今の僕を叱るだろうな。そんな気がする。

 もう疲れたし面倒だ。敵なら全部、敵でいい。分かりやすくて気持ちいい――」

 窓は空を見上げた。秋の暮れなずむ空は赤みがかっていて美しかった。

「――だけど本当は、そばにいてほしい。大切な人が、そばにいてほしい。特別なことは望まないから、この空を見て綺麗だねって問いかけたら『大したことないよ』ってはっきり言ってくれる、大切な人がいてほしい」

 窓はその場にへたり込む。尻にはゴツゴツした川原の石に感触があった。湿った空気が漂い、生臭い川虫が好みそうな香りがした。何より手が足が尻が水に触れた全てが冷たかった。窓は自分が生きていることを感じた。

 窓はそのまま大の字に寝転ぶと、思いついたままめちゃくちゃなメロディで歌った。二度と同じ唄を歌うことは出来ないだろう。狂ったような声音で歌った。

「神経や痛覚があるのは何故だろう。自分の身体を守るため。

 頭脳や感情があるのは何故だろう。自分の心を守るため。

 そうして生まれたのだとしたら、人間はとんだ失敗作だ。

 痛みが分かっても、それを他人に応用できない。

 感傷が理解できても、それを他人に応用できない。

 せいぜい映像を見て『痛そう』とか『可哀想』とかを認識出来るだけ。

 それも結局自己投影しているだけで、その映像を保存してシェアするくらいの余裕があるんだ。人間はとんだ失敗作だ。僕もそんな人間なんだ」


◆◆◆◆


 ――何時間経ったのだろう。空はすっかり暗かった。

 せせらぎのある場所で寝転んでいるのだから、当然つま先から頭までじんわりと濡れている。時折総毛立つような感覚があったが、どの感情によるものか、または身体機能のなせるものなのか、把握できなかった。

 ここまで独り言のレベルじゃない程に、河原の一画を私物化して好き勝手過ごして、警察が来ていないことはラッキーだとしか考えられない。

 上着のポケットに入った携帯が何度も振動していたが、応じる気にはならなかった。

 そう言えば、パンを食べそこねた。パンくらい食べておけばよかった。窓がそんなことを考えていると、遠くの方から足音が近づいてくることに気がついた。

 寝転んでいる頭の方から近づいてきたその音は、窓のつむじのあたりまで来て止まった。

「こんなところにいたのか」

 礼史の声だった。

「灯台下暗しだな、俺今しがた、お前の家まで行ったんだぜ」

「……そうなんだ」

 礼史は薄暗い河原で寝転んでいる、窓の横に腰を下ろした。

「つめてっ! お前ここ濡れてるじゃねえか! 風邪引くぞ」

「風邪はウィルスがいなければかからない、寒さは関係ない」

「屁理屈こねてる場合かよ! ほらあ! 立て立て!」

 礼史は慌てた様子で窓を引き起こした。窓はゴム人形のように力なく、仕方なく立ち上がった。

 窓のスーツの裾やパンツなど、あらゆる箇所から水が滴っている。中のワイシャツも下着もグショグショだ。まるで砂場遊びがエスカレートした時のようだなと、窓は懐かしさを感じた。

 礼史はその様子を見て頭を掻いた。

「あーあーどうするよ。これじゃバスもタクシーも難しいな。母さん呼んで車で来てもらうか」

「大丈夫、なんとかするから」

「何が大丈夫なんだよ、とりあえずうちに行くぞ、待ってろ今電話するから」

 窓はかぶりを振った。

「いや、本当にいいんだ。僕はこれから父さんに会いに行くから」

「どこに行こうってんだよ。まさか天国とか行ったら流石に殴るぞ」

 語気を強めた礼史に、窓は声を上げて笑った。そしてまたかぶりを振った。

「まさか、違うよ。故人に会うならお墓しかないでしょう。僕は父さんに話がある」

 それを聞き、礼史は少し口ごもったが、決心したように口を開いた。

「いいか、窓。おじさんがいるのは墓場じゃない。タマルだ」

 窓は首を傾げる。

「何言ってるの、礼史」

「……詳しくは家で話す。俺を信用しろ。窓、お前をおじさんに会わせてやる」

 礼史は冗談をよく言うが、冗談か冗談じゃないかははっきり分かる。この真剣な眼差しにはきっと意味があるのだ。窓は直感して、礼史の言う通り従うことにした。


――第一幕終演――

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