第六場 愛情
――ピーピー、ガタンとマイクのハウリング音と金属同士のぶつかるような金切り音が会場内に響いた。各席に着座した社員達は、皆自主的に静粛を保っている。
前方でスタンドマイクの前に立った
「皆さんお疲れ様です。本日司会を務めさせて頂きます、取締役の帆ノ宮です。宜しくお願い致します」
帆ノ宮が
「本日は土曜日にも関わらず、これだけの皆さんにお集まり頂きまして、大変ありがたく感じております。これも一重にですね、壇上にいらっしゃるお二方の人徳の賜物ではないかなと思います。
まずは皆さんを代表して申し上げます。
先程の拍手よりもさらに大きな祝福の破裂音が割れんばかりに沸き起こった。
高砂に座っていた鉄哉と尋美も立ち上がり、二人して深々と頭を下げる。いかにも夫婦然とした動作に、女子社員の数名は黄色い声を上げている。
「ああ、ありがとうございますお二人共、どうぞご着席なさって下さい」
帆ノ宮が促して、田丸夫妻を再び着席させる。
「それではですね、こんな年寄りが話していても面白くないでしょうから、会を始めさせて頂きたいと思います――その前に、一つだけお話をさせて下さい」
一人一人はきっと抑えたつもりなのだろうが、それが百人規模ともなれば会場から一斉に大きな嘆息が漏れ聞こえたとしても不思議ではなかった。
「結局年寄りが話すんかい」
会場の空気を気にも留めず、帆ノ宮は口を滑らかに動かした。
「本日はこの会を、より結婚披露宴に近い形で行わせて頂くプランもございました。しかし主役のお二人が固辞されたのです。理由は社員の中にはお二人のご結婚に対し違和感を抱く方もいらっしゃるだろうから、とのことでした。
私は『そんな人間はこのタマルにはおりません』と、申し上げたのですが、お二人のご意思は固かったので、本日このような結婚記念パーティーという形にさせて頂きまして、ご入場、ケーキ入刀などのイベントについても差し控えた次第です。
非常にご謙虚であり、慎ましい、お二人らしい判断であったと思うわけではございますが、皆様是非ですね、そのことを頭に置きまして、より一層のご祝福をお二人に届けて頂きたく考えております。私の口からこんなことを申し上げるのは、誠に僭越ではございますが、皆様どうぞ宜しくお願い致します」
冗長な言葉でまくし立てたが、要するに『お前らに気使ってパーティーって形にしてんだから、その分お前ら盛り上げろや』ということかなと礼史は納得した。
長い話で油断していたのか、会場に拍手が起こるのが少し遅かったが、パラパラと鳴り出した音は次第に大きな拍手となり帆ノ宮の話を讃えた。
帆ノ宮はそれを耳で感じ、満足そうに鉄哉の方に目を遣って会釈をした。そしてマイクをスタンドから外すと、それを持って鉄哉の方へと歩み寄る。
「それでは乾杯に移りたいと思います。皆様! お手元にグラスはございますね!」
帆ノ宮が歩きながらそう発すると、会場内の至るところから、グラスや瓶ビールから発せられる心地良い接触音が響いた。
礼史も多分に漏れず、テーブル上の空いたグラスにビールを注いでいく。
「やっとだぜ! 待ってました」
グラスに泡沫を讃えながら注がれていくビールを見て、蒼人が目を輝かせる。
「やれやれ、ただでさえ慣れない正装なんだ、さっさとしてもらいたいねえ」
世良がぽっこりしたお腹を擦りながら、締め上げるベルトを恨めしそうに睨む。
二人にビールを注ぎ終えると、窓が礼史から瓶を取り上げる。
「礼史、グラス」
言われるがまま礼史がグラスを突き出すと、窓が注ぎながら発する。
「悪いね、今日は」
「お前が言うことないだろ」
「いやいや、もろにうちの話でしょ」
「それもそうか」
今度は礼史が瓶を奪い取って窓のグラスにビールを注いだ。
礼史は少し安堵した。思ったよりも窓が落ち着いていることを確認出来たからだ。
「どうも」
窓が発すると、今度は会場に鉄哉の低い声が響いた。
「ええ皆さん、本日は私達のためにこのような会を開いて頂き、誠に感謝申し上げます」
めいめいに会話が弾んでいた様子だった会場が、一気に引き締まった気がした。
会場内の皆が音を立てて体勢を整え、高砂を向いて背筋を伸ばす。
「ええと、とりあえず、堅苦しいのは帆ノ宮さんで飽き飽きだろう。
ここからはいつも通り話させてもらおうか」
鉄哉が砕けた声でそう言うと、会場からは笑いが漏れた。帆ノ宮も苦笑を浮かべる。
「みんな、今日は本当にありがとう。
恥ずかしながら私は五十にもなって、はじめての結婚となります。それも弟が伴侶として迎えていた女性です。なにを言われても仕方のないことかなと思ってもいます。でも――」
鉄哉は語気を強めた。
「――この会社にいて、みんなと仲間になれて良かった。今日、心からそう思ってます。こんなおじさんの祝いに来てくれて、形だけでも良い、祝ってくれて、ここからまた新しいスタートが切れるような、そんな気持ちがしているんです。
伝わってるかな? すみません、私は
鉄哉はグラスを顔の高さほどに持ち上げた。会場もそれに合わせ、皆手元にあったグラスを構えた。
「私達の門出に、素晴らしい仲間に、ありがとう! 乾杯!!!」
やや辿々しく要領を得ない挨拶ではあったし、突然の乾杯だった。それでも、そんな人間らしい社長の姿に、社員達は心からの祝福を贈っているように見えた。
各テーブルから同時に乾杯の声が上がり、グラス同士の接触音が響いた。
礼史もテーブルの面々とグラスを交わすと、あっという間にビールを喉の奥へと流しきった。炭酸の弾ける感覚と麦汁の香りが胃から鼻へと駆け抜けて、礼史を爽快感へと導いた。
「クーッ、いやあ最高!」
「礼史、飲みすぎないでよ」
「母さんみたいなこと言うなって。今日はタダ酒、タダ飯だぜ」
やや呆れた様子で礼史を諭す窓だったが、その表情は満更でもないように見えた。
「それでは皆さん、しばしご歓談下さい!」
帆ノ宮がマイクで発すると、席を立つ音があちらこちらから聞こえてくる。
いつのまにやら礼史のグラスは再びビールで満たされている。窓が注いでいた。
「お前、飲ませたいのか? 飲ませたくないのか?」
「飲みすぎないでって言ったんだ。二杯くらいならどうってことないでしょ?」
「まあな。よし、じゃあ頂くとしよう。しかし空きっ腹じゃあキツイぜ。なにか肴を取りに行かないか?」
「……なんか言い方がジジくさいよ」
礼史は肘で窓の脇腹に一撃見舞ったが、既に窓の腕によりガードされていた。礼史は小さく舌打ちを漏らすと、窓に行こうと目顔で示した。窓もそれを理解したように立ち上がった。
「何を取りに行く?」
「炭水化物。だから予告通り寿司だ。あとは唐揚げとか」
道すがら会話をする二人の目には、ビール瓶を持って列を作る社員達が映った。どうやら鉄哉と尋美のもとにお酌をしたい面々が並んでいるらしい。
列を目で辿っていけば、その先には満面の笑みを浮かべる鉄哉と、口元を手で隠しながらも笑みを称える尋美の姿があった。
「あれって俺も並ぶべきか?」
礼史が窓に視線を送る。窓の視線は既に主役たちからは逸れていた。
「強制ってわけじゃないんだし、好きにすればいいんじゃない? あ、エビチリ」
「エビチリ!? その伏兵は想定外だ、いくぞ窓、確保だ!」
いつの間にやら礼史の頭は目前の中華皿の方に引き戻されていた。
◆◆◆◆
乾杯から三十分が経過した頃、礼史たちのテーブルには既に食べ終えた皿やら飲み終えたグラス、ビール瓶が散乱していた。
「――でよお、世良さんマジですげーんだよ! 俺が口で仕様とコードの説明しただけだぜ、そんだけでエラーの原因当てちまうんだから!」
大声で饒舌に会話を飛ばしているのは蒼人だった。隣の世良に肩を組みながら、その素晴らしさを周囲の面々に語っている。無論礼史と窓も巻き込まれていた。
世良が細い目を更に細めながら、
「大げさだよ蒼人くんは。私なんてちょっと経験があるだけのジジイだよ」
「いや経験も確かにありますけど、それ以上に地頭がエグいんですよ! さすが秀勝さんに引き抜かれた伝説の男です!」
言いながら蒼人が力強くテーブルに手を置いた衝撃で、食器たちが一斉に音を発して周囲を驚かせた。
「いやいや、言い過ぎだよ。あ、礼史くんも窓くんも気にしないでね。蒼人くんはちょっとハイペースで飲みすぎているだけだからね」
「いや礼史、窓、このぷよぷよした好々爺的な見た目に騙されるな! この人は引退した今も天才エンジニアだぜ!
その名も、せ・ら・ま・す・みぃ――――」
蒼人は声を張り上げながら世良の手首をつかみ、まるでボクシングの勝者であるかのように天高く掲げた。
世良の体型も相まって、格闘技の勝者というよりも乱雑に扱われているテディベアのような愛嬌のある姿に見えた。礼史と窓は思わず吹き出してしまった。
「……蒼人くん、いい加減ちょっと落ち着こうか?」
世良のトーンが幾分低くなったのを察してさすがの蒼人も手を離した。
「あ、あのすみません。調子に乗りました」
蒼人が赤ら顔に似つかわしくない真面目な顔でヘコヘコと謝る。世良は表面上は笑顔なのだが、その細い目の奥が笑っていないような不気味さがある。
「そうだね。調子に乗ったね。君の悪いところだ」
酒が入っているとは思えないはっきりとした口調で世良が言う。
「すみません!!! 誤りますからあぁぁ!!! だから世良さん相談室をこれからも利用させて下さいいぃぃぃ!!!」
蒼人は必死に懇願しながら、世良のグラスに飲み物を注ぐと直様背後に回り込んで肩を揉み始めた。
一連の流れを見ていると、あまりの自然さとスムーズさから、これまでも何度となく行われ繰り返されてきた慣行なのかと推測が出来て、礼史はさらに可笑しくなった。
「世良さん相談室ってなんですか?」
純粋に疑問があるといったような曇りなき眼で、窓が世良に問いかける。世良は照れくさそうに口を開く。
「……いやね、うちの社員が、管理人室のことをそう呼んでいるみたいなんだよ」
肩を揉みながら背後から顔を出した蒼人が、自分のことのように得意げに発する。
「開発で困ったら世良さんに訊け! これはタマルの伝統だぜ!」
「いや……引退した身に訊かれても困るんだけどなあ」
「へえすごいです、それは覚えておかないと」
窓は礼史の方を向くと、いい話を聞いたとばかりに何度も頷いた。
歓談の中でもマイクを握った帆ノ宮は事あるごとにアナウンスを入れ来た。正直な話、会場内で聞いている者などごく一部だっただろうと思うが、帆ノ宮にとってはそれでいいのだろう。
礼史の耳にも僅かながら届いてはいた。やれ「どこどこ部署の誰々が目を潤ませていますよ」だとか、「若手の誰々が社長に資格の取得を約束しましたよ」とか、それこそお酌に行った面々の内輪話を、内輪で盛り上がるために放送しているといった様相だった。だからあまり気にも留めていなかった。それより、自分の内輪で展開されている話の方が面白かったし、興味もあった。
しかし開始から一時間が経った頃だろうか。突如聞き捨てられないアナウンスが会場に響いてきた。もっとも、嫌でも耳についてしまったのは当事者だからであって、会場にとってその時点では全く関心事ではなかった。
「窓くん、あと本田礼史くん、主役のお二人がお待ちですよ! 急いで前方高砂の方まで起こし下さい!」
窓はスピーカーを確認するように黒目を上に向けてキョトンとしていた。礼史も同様に自分を指差しながら首を傾げる。
「おい、なんかお前ら呼ばれてないか?」
赤みがすっかり顔に馴染んでむしろ落ち着いた表情となった蒼人が発した。
「帆ノ宮さんもすっかり良い気分、って感じだねえ」
世良が苦笑交じりにそう言うと、蒼人も目を閉じながら呆れたように
「……めんどいな、ジジイのゴマすりに付き合うなんてよ。なぁお前ら、ちゃっちゃと挨拶だけして帰ってこいよ」
「えぇ……行くんですか……」
気後れしている礼史とは対象的に、窓は瓶ビールを片手に立ち上がった。
「仕方ない、行くだけ行って帰ってこよう。それに、僕は……」
そこまで言って窓は少しだけ黙って、また口を開いた。
「……まだ母さんにおめでとうも言ってない。それくらい、言わないと、かな……」
蒼人が素早く後ろに回り込んで礼史の肩をパシッと叩いた。
「おう! 窓がこう言ってんだぞ、気が変わらないうちにさっさと立て! 一緒に行くのがお前の役目だ!」
流石の礼史もキレのある動きで立ち上がり、スーツの裾を正した。
「よ、よし! 行くか!」
礼史にとって窓のこの発言は意外なものだった。母におめでとうと言うことなど未来永劫ないと考えていたからだ。窓が祝いを口にすれば、それは鉄哉を家族と認めたということに相違ない。それは秀勝との決別を受け入れたということであり、現状故人を偲んでやまない窓からその発想が生まれるとは考えられなかった。
酒の力も多少は借りているだろうが、それを自ら口にした窓の姿を見て、本当の意味で吹っ切れる良いきっかけを掴めるような気がした。
これはチャンスだ。自分が気後れしている場合ではない。下手な喧嘩の仲裁よりも、見届人としては余程緊張感がある。礼史はそう感じていた。
窓と礼史は会場の視線を少し感じながら、前方の高砂席を目指して歩を進める。
次第に群衆の向こう側に、主役の二人と帆ノ宮の姿が見えてきた。よく見れば、帆ノ宮のすぐ脇には一香も立っている。近づいてみて分かるが、皆一様に笑顔だ。
礼史は隣を歩く窓に目を遣った。表情はない。しかし無感情の機械といった顔ではなく、どういう顔をして良いのか分からずに、全てのパーツが定位置で様子を見ているだけのように思えた。
「遅いよ、二人とも!」
礼史と窓の姿を見つけた帆ノ宮が、手招きする。その顔は赤くもなく酒に酔っているという雰囲気もない。この調子の良さはただ単に気分が良いだけのようだ。
軽く会釈しながら壇上に上る。前を歩いていた礼史が鉄哉の横に立つと、腰のあたりを擦るようにポンポン叩きながら、鉄哉が発する。
「礼史くん、入社前なのに悪いね。今日はありがとう!」
声が大きい。顔から察するにこちらは結構酒が入っているようだ。長いことお酌の列に付き合っていたのだから無理もない。隣から尋美も声を出す。
「礼くん、ありがとう」
こう呼ばれるのは小さい頃から変わらない。その呼び名がこれは窓の母なんだと実感させてくる。そのドレスからこぼれる女性らしい肉体、発せられる色香とのギャップに困惑してしまう。礼史は目をそらしながら答える。
「鉄哉さん、おばちゃん、おめでとうございます」
この場に似つかわしくない呼び名かも知れないが、敢えていつも通りにそう言った。当の尋美は何も気にした様子もなく嬉しそうにしている。
「礼史くん、うちに入社してくれるんだろ?」
鉄哉の問いかけに礼史は頷いた。
「はい、雇っていただけるなら……」
「雇うさ! 前にもいっただろう、期待してるんだ!」
鉄哉は豪快に言い放つと、礼史の尻を叩いた。酒のせいで加減を忘れたのだろうか、礼史は突然の痛みに眉をピクつかせた。
「あ、ありがとうございます、頑張ります」
礼史は面倒臭さを感じて、そそくさと背後の窓と入れ替わるように後ろに下がった。途中窓に渋い顔をして、その感情を伝えてみせた。分かったとばかりに窓も苦笑した。
窓が前に出る。背後にまわった礼史からも感じるほど、鉄哉と尋美のまわりに漂う空気が変わったような気がした。
「窓……」
鉄哉がそうこぼす。窓は頬をかきながら小さい声で言う。
「あの、うん……」
「よく、来てくれた……よく、来てくれた……」
そう発すると、鉄哉は座ったまま窓を自分の方へ抱き寄せた。傍から見れば窓の腰辺りにまとわりついているように見えるような体勢だ。決して見栄えはよくないが、鉄哉はそんなことは気にしていないようだ。
鉄哉の顔が見えない分だけ、窓の戸惑った表情に目が行く。会場も壇上で行われていることの意味を察したのか、どこからともなく自然と拍手が沸き起こった。
「ちょっと……恥ずかしいんだけど……」
窓が発すると、鉄哉は慌てて窓を腕の中から解放した。照れくさそうに笑みを見せている。
「悪い悪い、まさかここに来てくれるとは思わなかったからな」
「……言いたいことがあったから、来たよ」
今度は尋美が声をあげた。その上擦った声音だけでも感涙に浸っている様子が感じ取れるほどだ。
「窓……ありがとう」
窓は笑顔を浮かべて頷いた。言葉こそ発しなかった。それでも尋美も嬉しそうに微笑みを返した。その笑顔は母親らしいものに見えた。
「伯父さん……」
窓は口を開いた。
「伯父さんは僕の中で、『伯父さん』だ。それは変わらない」
鉄哉と尋美は、小さな声を聞き逃すまいと黙って耳を澄ましているようだ。窓は不器用に言葉を切りながら続ける。
「父さんが突然、ああいうことになって……僕も、母さんも、タマルも、混乱していたけど、伯父さんが頑張ってくれた。それはしっかり分かってる。だから――」
窓は言いながら、持っていた瓶ビールを鉄哉の手元のグラスに注ぐ。
「何ていうか……母さんを、お願いします」
そう発しながら窓は顔を背けた。その瞬間、尋美の目からは涙がこぼれ落ちて、鉄哉は立ち上がって今度はしかと窓を抱き寄せた。
横で一部始終を見ていた帆ノ宮はマイクをほっぽり出して大きな拍手を打ち、会話が聞こえていないはずの会場までもが、その光景を大きな拍手で讃えた。
会場は割れんばかりの喝采だ。礼史は壇上にいて良いのかと思わず後ずさった。
「あの……伯父さん、もう戻るよ」
窓が発すると、鉄哉は「ああ」と幾分逞しい声で発した。手が解けると窓はそのまま踵を返して、壇上から下りた。その背中に向かって、尋美が発する。
「窓、ありがとう」
窓は背中を見せながらも手を少し振ってそれに答えると、礼史の隣まで歩みより、
「戻ろう」
と発した。礼史は暖かい眼差しを向けている壇上の二人に、窓の分まで恭しく頭を下げると、追いかけるように席へと戻って行った。
窓は速い足取りで席へ向かう。その最中、通り過ぎる席の面々が、窓を拍手で迎えている。背中しか見えないが窓もそれに応えながら歩いているようだ。
頑張ったな、窓。礼史はその背中に心のなかで呟いた。
心中穏やかでは無かったはずだ。それでもこの会に水を差すような対応をせずに、むしろ見せ場を作ってやったのだ。会場の誰よりも年少であるはずの友人が誰よりも大人の対応をしたことが、礼史は誇らしかった。
自席が見えてきた。世良と蒼人は立ち上がって拍手をしながら二人を出迎える。
近づくとすぐに、蒼人が窓の胸に拳をあてて讃えた。
「お前、何言ったか知らんが、やるじゃねえか! ネクタイ締めてないことは多めにみてやるよ」
「窓くん、あと礼史くんも、ご苦労さま」
世良も優しく微笑んだ。窓は空気の抜けた風船のように大きくいきを吐き、ようやく表情を崩した。今までが強張っていただけに、何だか子供のように見えた。
「……疲れた」
窓が椅子に座りながらこぼした。
「お疲れ、ナイスファイト!」
冗談っぽく言いながら、礼史は窓の前のグラスに飲み物を注いだ。
窓はグラスを見つめていた。黙って見つめていた。
満足感でもなく緊張の緩和でもなく、ただただ感情が読み取れない表情で、グラスの向こう側のどこかへ旅立ってしまったかのように、じいっと見つめていた。
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