彼女はモンブランの夢を見る
北乃イチロク
第1話
7月の早朝、白んだ空の下、枯れ木のように佇む信号機が赤から青に変わる。僕は歩き出すことなく、ただ、去っていく君の後ろ姿を眺めていた。
「先生」
彼女の甘い旋律の様な囁きで僕は目を覚ました。彼女は机に突っ伏している僕の前に立ち、柔らかな笑顔で僕の顔を覗き込んでいた。
僕は上体を起こしまわりを見た。夕方のガランとした教室の中、僕と彼女だけが取り残されたように部屋の中心にいた。
「今何時?」僕は聞いた。
「5時を少しまわったところ」
「そうか、みんなは?」
「もう帰ったよ」
「そうか、君もソロソロ帰ったら?」
「そのつもりだけど、先生を起こさないと、先生このまま朝まで寝ていそうなんだもん」
「かもしれないな、ありがとう」僕はそう言って伸びをした。
僕は高校の教師で演劇部の顧問をしている。部活動の中眠ってしまったようで、他の生徒はお構いなしに帰ってしまったようだが、律儀に僕を起こしてくれたのが部員の立木ミオリだった。
立木は支度の悪い子供を見る様に、ジッと僕の事を見ていた。立木はセミロングの黒髪で背が高く細身、どこか冷ややかに感じる切れ長の大きな目をしている。
「先生、じゃあね。寄り道せずに帰りなよ」立木は手に持っていた鞄を肩に背負い、半身で手を振った。体のバランスが良く、まるでファッション雑誌の切り抜きのようだ。
「ああ、どうも、君も寄り道は程々に帰りなよ」
「程々ならいいんだ」
「程々は人生の遊びさ、遊びがないものはすぐに壊れてしまう」
「先生って、たまに哲学的な事言うよね」
「哲学じゃないよ。こういうのは、衒学的っていうんだよ」
「ふーん、よく分からないけど、じゃあね」
立木を見送ると、僕はもう一度伸びをして立ち上がった。そして窓際に行き、運動場にいる生徒の伸びやかな声や、しなやかな体の動き、抑えがたい性の発散を見て、懐かしく感じるようになった事に苦笑いを浮かべた。
暫くして教室を出ると、途端「わっ」と声をかけられた。
「なんだ立木、まだ帰ってなかったのか」
立木は残念そうに「先生、全然驚かないんだね」と言った。
「驚いたさ」
「全然そんな風に見えなかったよ」
「そうか、ならオリエンタルランドの研修を受けて、派手な身振りで驚けるように善処するよ」
「何それ」彼女は、さも可笑しそうにケタケタと笑った。
「誰か待ってるのか?」
「えっ、うーん」と立木は何となく言い淀んだ。
「立木」と横から声がし、目をやると、確か榎田という生徒が歩きながら手を振っている。
榎田は立木の側まで来て「一緒に帰れる?」と言った。
立木は「うん」と静かに頷き「先生、今度こそさようなら」と言って、二人で帰っていった。
二人は付き合っているのだろう。未来に対し可能性だらけの二人を見ていると、僕には過去しかない事を思い知り、また彼女の姿を思い出すのだった。
次の日の土曜は朝から小雨が降っていた。9時近くに愛車のスバルのフォレスターに乗り、花屋へ行き水仙の花を一輪買った。そして高速に乗り一時間かけて埼玉の長瀞まで行った。ある川の河原で車を停め、歩いて川岸まで行った。昨晩の雨を集めた濁り切った川の水は、海までその勢いをとどめる事なく流れているようだった。
僕はしゃがみ込んで持っていた水仙を川に流した。水仙はあっという間に濁流に飲み込まれ消えてしまった。轟轟たる川の音が耳を刺激する。けれど心は雪の日のようにしんと静かだった。
夕方に止んだ雨は湿気と変わり、西日と相まってまるでサウナの中にいる様だった。僕は駅前で、手で顔を煽ぎながら人を待っていた。
「よう」
長髪のパーマに無精ひげをたくわえ、黒地に赤い花の柄が入ったシャツを着た外村トオルが立っていた。
「久しぶりだな」僕はトオルに言った。
「お前がなんだかんだと理由をつけて俺の誘いを断るから、久しぶりになるんだ。まあ、取り敢えずどこでもいいから店に入ろう。暑くてかなわん」
僕とトオルは入った大衆居酒屋の座敷で、お互いビールを頼み乾杯した。
「最近どうだ?」僕はトオルに聞いた。
トオルは額の汗を押さえ込むように、ビールを一息で飲みほした。
「景気は良いよ。環境問題が金になる時代が来たという感じだ。今は海洋プラスチックごみで靴なんかを作っている。少し高くても良く売れる。エシカル思考がブランドになりつつある」
「それは良いことなのか?」
「結局は資本家からの搾取のやり方が変わっただけな感はあるな。けれど、仕方のない事だ。俺だって始めは勿論、真摯に環境を何とかしなくてはと言う気持ちで始めた事だ。けれど俺らも30だ。俺も家族が出来て、仲間ができて、自分の信念よりも大事な事が増えた。お前はどうなんだ?まだ執着しているのか?」
「ああ、こべり付いて中々取れやしない」
「取る気はないのか?」
「どうだろう。でも取ったところで川の流れのように逆になる事はないさ。俺は一歩も進めていない。ずっと止まったままだ」
「どうであれ、お前もそろそろ違う道を生きないといけないんじゃないのか?どうだ?いい人はいないのか?」
「いないさ。振り子のように規則正しく学校とアパートを往復するだけの生活だ」
「同僚に美人教師はいないのか?」
「美人教師か・・・。一人いるな。安田先生っていうんだけど、美人だ」
「親しいのか?」
「まったく。業務以外で話したことない」
「へえ、話しかけてみろよ」
「俺は黙っていた方が、好感度が上がるタイプなんだよ」
「話すと好感度が下がるタイプって事か」
「そういう事」
「飛び込んでみろ」トオルはタバコに火を着け、一息吸ってから「人生の花は、どんなにみすぼらしくても恋以外にないよ」と言った。
月曜日の始業前、職員室で授業の準備をしていると、向かいの席の安田先生が目に入った。安田先生は前髪を設計図でもあるかのように綺麗に整え、後ろで髪を纏めている。いつも機嫌良く誰に対しても親切だ。そして間違いなく教師の中で一番の美人だ。
「安田先生」と僕は声をかけた。
「何でしょう?」
安田先生は笑みを浮かべているが、殆ど話しかける事のない僕に対しやや驚いている様子だ。ここは軽妙な雑談を持って場を和ませる必要がある。
「先生、ゴリラはみんなB型だとご存じでしたか?」
「いえ・・・」
まずいな。安田先生は警戒している。その証拠に、安田先生の眉間に皺が寄っている。
「そうですか、アメリカでは血液型での性格診断は浸透しておらず、16パーソナリティーという方法で性格分析をするそうです。先生の診断をしましょうか?」
「いえ、あの・・・、結構です。あの私、次の授業の用意がありますので、すいません」
安田先生は足早に去っていった。
完全に失敗だ。ゴリラでもわかる。ただの気持ち悪い奴だ。関係を築けていない相手に、いきなりゴリラの話や、性格診断の話をするのは時期尚早だった。ここは失敗と割り切り次回に繋げよう。しかし、安田先生の僕に対する評価は著しく低下した。次などあるのだろうか。やはり沈黙は金という先代の教えは正解だったようだ。
立木ミオリが部活動の最中、意気揚々と僕の前に来て「先生、知ってる?ゴリラはみんなB型だって事」と言った。
驚いた。いきなりゴリラの血液型の話をする奴が、僕の他にいるとは。
「知ってるよ。ゴリラの正式名称は、ゴリラゴリラゴリラだって事もね」
「なにそれ、何で三回も言うの?」
「ゴリラを忘れないためにさ」
立木は崩れるように腹を抱え笑い「先生って面白いよね。ねえ、他の人とあまり話さないでね」と言った。
「どうして?」
「私だけが、先生の良いところを知っておきたいから」
「独占欲が強いんだな」
「そうかも、それより先生、今度の劇の小道具を買いに行っていい?私買い出し担当になってさ」
「いいよ。行ってきなよ」
「先生も一緒に来てよ」
「面倒臭いな」
「どうせする事ないでしょ?車がないと大変なの。早く行こう」
「面倒臭い、面倒臭い、面倒臭いだな」
「先生はゴリラじゃなくて、顧問でしょ。いつも寝ているんだから、こういう時くらい、頑張ってよ」
「わかったよ。で、買い出し担当はあと誰?」
「小嶋さんだけど、先生が来るなら私一人でいいよ」
「そうなると、俺が荷物を持つ事になってしまう」
「持てば良いでしょ。一人で車で待つつもりだったの?給料分しっかり働いてよ。私たちはいくら頑張っても何の報酬も出ないんだからね」
「わかったよ」僕は渋々了解した。
立木を車に乗せて、東急ハンズまで来た。立木は楽し気に軽やかに歩いている。
今回文化祭で行う劇は落語の芝浜を現代劇にしたものだった。登場人物が2人なので、少人数の我が部に打って付けだった。
「立木は今回小道具係だったな。演者の方じゃなくて残念だったな」
「私?演技にそんなに興味ないからいいよ」立木はあっけらかんと言った。
「だったらなんで、演劇部に入ったんだ?小道具に興味がある訳でもないだろうに」
「先生がいるから」立木はカメラのピントを合わせるように僕をジッと見た。立木はこのように人を凝視する癖があるみたいだ。
「成程、適当にサボれるからか」
「はは、わかった?部活案内の時、他の先生はやる気満々だったり、やりがいや団結力を強要してきそうな人もいてさ。私には合わないだろうなって思ったんだ。でも先生はまったく上の空なんだもん。おかしかったな。でもだからこそこの部にしたんだけどね。先生は使い方が合ってるかわからないけど、多様性を認めてくれるって言うのかな?基本放置で、良く寝てるし。でも、たまに人を良い方向に動かすっていうのかな、足りない部分をしれっと伸ばしてくれる感じがする。だから部活は楽しいよ。部活目的で学校来てる所あるよ」
「そっか」
「実際、うちの部の劇、評判良いんだよ。本格的じゃないけど面白いってさ」
「良かったな」
「良かったなって、他人事だな。先生は虚栄心とかないの?」
「そんなもの、持たない方がいいだろ?」
「そうかもだけど、人間の性じゃないの?」
「何も俺は修行僧の様に自分を自制している訳じゃないさ。ただなんだろうな、忘れた・・・」
「忘れたって」
立木は笑った。何が面白いのか、自分の発言でこんなにも笑う子に初めて出会ったかもしれない。
「先生、今度デートしようよ」
「嫌だよ」
「なんでよ」
「面倒くさいからだよ」
「学校にバレたら?」
「いや、休みの日に出かけるのが面倒くさい」
立木は呆れ顔で「本当に先生は、先生だな」と言った。
「デートは榎田とすればいいだろ?」
立木は一瞬ピクリと固まった。その間の意味するところは良くわからなかった。
「じゃあ、また誘うね」
自分の思いを悟られたくないのだろうか、何かを抑え込むように、明るく立木は言った。
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