君は星
@_naranuhoka_
君は星
空気がつめたすぎて、肺が透き通ってしまいそうだ。
【6時に仙台駅前のベローチェにいて。高速バス降り場所のすぐ近く。迎えにいく】
初ちゃんから返信が来ていた。既読だけつけておく。
もういちど天を見上げた。ざらめのような、粒の大きい星たちがいっぱいにまたたいて、空というより宇宙みたいだな、と思った。肺のなかにある丸い肺胞一つひとつが凍って、ランプのようにひかりだすのを想像しながら、最短距離を見定めてお手洗いまで歩く。
寒い。できるだけ旅費を削ろうと思って夜行バスを取ったけれど、こんなにも眠れない乗り物だとは思っていなかった。来年からはどんな遠くであっても絶対夜行バスは選ばないようにしよう、と決める。
ようやくたどりついたトイレの蒼ざめた光に目がしょぼしょぼする。寒い中用を足していると、やけにおしっこが熱かった。ここだけまだ寝ぼけて東京にいるみたい、とよくわからないことを考える。
つららのような冷たい水で手を洗い、自分が乗っていた夜行バスに向かって歩きだす。霜が降りているのか、雪もないのになぜか足元でざりざりと音がした。凍てついた空気が肺の中にじわじわ侵食する。いま誰かに抱きしめられたら、胸の中で肺胞がぱりんと音を立てて砕け散ってしまうかもしれない。柄にもなくセンチメンタルな想像がよぎる。
空にはざらめをばらまいたように銀の星が目一杯光っている。平たい豆腐のようなそっけない建物とバスが何台か並ぶ以外は何にもないところで空を見上げていると、自分がどんどん小さくなっていくような錯覚になる。
四列シートだから、信じがたいことに隣に知らない人が寝ている横で寝なければいけない。こんな不都合な乗り物で初ちゃんは就活して東京にきていたんだな、と今さら思った。
「おはよう」
指定されたベローチェでコーヒーを飲んでいると、飲みきるより前に初ちゃんが店に現れた。眉も描いていない、ほとんどすっぴんの初ちゃんはあまりにも無防備で、なぜだか胸が狭くなる。
「おはよう。こんな早くにありがとう」
「長旅お疲れ。うちで仮眠でもする?」初ちゃんはここでお茶をする気はないのか、立ったまま私を見下ろしている。
「仮眠はしないけど、着替えたいから寄っていっていい?」
絵とか見たいし、とつづけると「まあ来たいならくれば」と出口に向かって歩きだした。慌ててコーヒーを返却口に置き、追いかける。
「仙台ってやっぱり寒いね。もっと着込んでくればよかった」
「二月の仙台にトレンチコートで来るのはなめすぎだと思うよ」
「やっぱり? 初ちゃんのコートあったかそうだね。冬のコートにするんだった」
ワンピース型の、真っ黒いダウンコートをしっかりと着込んだ初ちゃんは振り返って「貸さないよ」と意地悪そうに笑った。私より頭ひとつ分小さな初ちゃんは、サイズがだぼだぼのかさのあるコートのせいでなんだかてるてる坊主みたいなシルエットだった
「パン買ってうちで朝ごはん食べる?」
「うん。いいね」
じゃあこっちの道から行くか、と初ちゃんが私を振り返ることなく道を曲がった。なんか、長いこと付き合ってる彼氏みたい、と思っておかしかった。だって私たちは友達どころか、恋敵なのだから。
「気になる子ができたんだよね」
久遠君が言いだした時、私たちは裸で、彼の家のベッドの上にいた。笹の葉っぱみたいにつるんとした胸の上に頭を載せていた私は、身体を起こした。
私たちは大学一年の冬から二年の秋にかけて一年近く付き合っていた。ゼミが一緒だから関係性を切りきれず、別れて一年以上経っても、頻度にばらつきはあれどだらだらと会って遊んでいた。気づけば大学四年間、ずっと腐れ縁がつづいていた。
初ちゃんのことを切り出された時、てっきり、もう関係性を終わらせようという意味なのかと思った。
「へえ誰。付き合ってるの?」付き合ってなんかないよ、と久遠君は楽しそうに否定した。
「同い年で、でもうちの大学じゃない。宮城の女子大生の子」
「宮城って、また。なんでそんな子知り合ったの」
「たまたまTwitterで繋がった。友達の友達が初ちゃんと知り合いで」
ウイチャン、と口の中で響きを転がす。なんか江戸時代みたいな名前だな、と思った。
「初ちゃんって、変わった子なんだ。国立大の文学部なんだけど、絵描いててウェブサイトとか雑誌にも載ったことあるんだって」
「ふうん、多才な人なんだね」
よくわからないけど初ちゃんはサブカル文科系女子らしい。久遠君って意外とミーハーだな、と思った。
「就活生だから東京もよく来るんだって。だから今度ごはん食べる約束した」
「そうなんだ」
よかったね、と言いながら久遠君の身体からのく。なに、やめるの、と後ろから声が上がったので「トイレ」と返した。
翌日久遠君からご丁寧に【初ちゃんってこの子】とTwitterのリンクが送られてきた。
〈ui〉という名前で、普通に日常の呟きや描いた作品が載っていた。アイコンや写真を見るかぎり、東北っぽい素朴な女の子、という印象でしかなかった。うちの大学は私立で結構派手な子が多いから、一年生ならともかく四年生の中にまぎれたら悪い意味で目立ちそうだ。時々載せている自撮りは素朴で愛嬌があって、加工もアプリカメラも通さず、顔の一部をスタンプで隠してもいない潔さには好感を持てた。ツイートには毒が紛れていて結構鋭いことをさらりと書いていたりする。フォロワーも、ふつうの学生のリアルアカウントとしては多く、二千人くらいいた。
いままでも、私と別れたあと久遠君がほかの女の子にちょっかいを出したりデートしたり家に行ったりするのはままあった。「彼女」がいた時期も短いけれどあったはずだ。飽きると祭りで買った金魚を川に流すみたいにしてあっけらかんと手を引く。
つまり久遠君は、顔が綺麗で、博識で、見栄えのする大学にいて、セックスが好きな男の子ならまあそうするだろうみたいな生活を送っている洒落くさい人だった。久遠君と付き合い始めた時は「やめときなよ」といろんな人に言われたし、別れることになった時「よくあんな人と一年も続いたね」と驚かれた。いまだにお互いの家を行き来する間柄であるということは、本当に親しい何人かの女友達にしか明かしていない。
明かすと決まって「久遠君みたいにいいかげんな人でも、遥みたいな高嶺の花には未練たらたらなんだねえ」と感心したように言う。実際のところ、彼が私によりを戻そうと持ちかけたことはいちどとしてない。
初ちゃんのアカウントをスクロールする。ツイート内容はともかくとして、確かに載せている作品自体は、絵に疎い私でもわかるくらいはっきりと巧く、同い年の女の子が描いているんだと思うとはっと心臓が引き締まるようなものが並んでいた。
ふうん、と思いながら初ちゃんのTwitterを見るのをやめた。それで一旦は興味は無くなった――はずだったのに、奇しくも私は久遠君より先に、初ちゃんと対面することとなる。
初ちゃんの家はモルタルの二階建てアパートの一階角部屋だった。上がって、と言われて素直に上がる。
「お手洗い借りるね」
「うん」
床に積み重なった単行本や絵の資料、巨大なキャンバス、油絵の道具。なんだか美大生のような部屋だ。
「油絵の匂いって、こんな感じだっけ。なんか中学校の美術室思いだすなあ」
「匂い、きつくない? よくこんなところでごはん食べられるねってよく言われる」
口では言いつつ、特に換気をする気はなさそうだ。
「うーん。そこまでは気にならないかな」
「春歌ちゃんって意外と図太いね。もっと繊細な人かと思ってた」
悪口なのか褒められているのかよくわからないで黙っていると、トーストしたクロワッサンを皿に並べてテーブルに出してくれた。
「あ、お土産あるよ。よかったら食べて」
「バターサンドの木だ! ありがとー、超嬉しい」
鮮やかな水色の箱を見て初ちゃんが露骨なくらい満面の笑顔になった。
「というか今日どうするの?」と直球で問われ、曖昧に笑う。
「ごめん、結構ノープランで来ちゃった」
「わざわざ東京から来たのに?」
初ちゃんが疑わしそうに眉根を寄せたので、「初ちゃんに会ったら、なんかもう目的達成されちゃった」と冗談っぽく笑いかけてみたものの、ますます胡散臭そうな目つきで眺め渡されただけだった。
なんのために来たの?
さすがにはっきりとは言われなかったけれど、初ちゃんがそう思っているのは明白だった。関係性を考えれば当然だ。好きな人の元カノ。初ちゃんにとって私はそれ以上でも以下でもない。
「ねえ、絵見せて」
「前も見せたよね? 東京で」
「もう一回見たいの」
めんどくさいな、とぼやきながらスケッチブックを手渡してくれた。猫のスケッチ、大学のキャンパスのスケッチ、自画像のようなもの、可愛い女の子のイラスト、ロゴをデザインしたと思われるもの、桜の木、魚の点描画。モチーフはばらばらで、さわれば指紋の溝を染めそうな濃い鉛筆の粉の気配が生々しかった。一枚ごとにじっと目で追う私を、初ちゃんはつまらなさそうに眺めていた。
「面白いの、そんなの見て」
「うん。初ちゃんの絵って、迫力があるよね」
可愛いとか綺麗とか、そういう耳障りのいい感想を跳ねのけるような鋭い佇まいに、見ている側にも緊張をあたえる。そんなような感想を拙い言葉を並べて述べると、ふうん、と初ちゃんが喉でうなった。鈍い反応ではあったけれど、頬のあたりがふくふくと持ち上がっていた。
「迫力ねえ」
「この、桜の木の絵が一番好きだな。前見た時から思ってたけど」
スケッチブックの、水彩で淡く色づけされた絵のページを見せる。紙がぼこぼこと波打ち、妙な陰影がついているからこそなんだかリアルだった。実物の桜に対しては、儚い美しさを感じることがほとんどだけれど、初ちゃんの濃い鉛筆の線で象られた桜の木は、みっしりと重厚で、気配が濃い。
へえ、と初ちゃんが力なく呟いた。「それ、遥君も一番好きだって言ってたな」
「そうなんだ」
初ちゃんは久遠君のことを「遥君」と呼ぶ。私は下の名前が同じだから、そう呼んでいたのは付き合い始めの最初だけだ。
手を差し出されるまま、スケッチブックを返す。もう初ちゃんの柔らかそうな頬は持ち上がってはいなかった。
「今日仙台に来たこと遥君も知ってるの?」
「ううん、特に言ってない」
嘘だった。本当は、夜行バスのチケットをとった時点で「初ちゃんに会ってくる」と伝えていた。久遠君はふにゃふにゃした笑みで「へー、楽しそう」とコメントしただけだった。そうなんだ、と初ちゃんが無表情に呟く。
「……っていうか」と初ちゃんが唇を尖らせた。「行きたいところかないの? 仙台来るの初めてなんじゃないの」
松島でも行く? と言われて首を振った。「大学時代よく行ったところに連れてって」と言うと、ふうん、と小さく呟いて、「まあいいけど」と言った。
久遠君の好きな人に、彼を介さずに出くわすとは夢にも思わなかった。
初ちゃんと初めて会ったのは大手出版社の四次面接だった。集団面接で同じグループにいたのだった。
出版社の面接というのはどこも割とそういうものなのだけれど、志望理由や学生時代頑張ったことなんかはほとんど聞かれなかった。もはや大喜利のような質問が飛びかい、私たち学生は風になびく旗みたいに遊ばれていた。毎度どんな質問が来るのか全く予想がつかないので、題が変わるたびにぴりぴりと空気に緊張が走った。
そんななか、一人だけ纏う空気が違う学生がいた。そして彼女は、私の隣に座って、ピンと竹刀のように背すじを伸ばしていた。
堂々と答えているその子の、忘れられない回答があった。
「失恋したときの思い出深いエピソードを教えてください」
大抵の人は、友達に慰めてもらっただとか、趣味に打ち込んだとか、酒を浴びるように飲んだとか、いいこのありふれた回答だった。私自身は、失恋という失恋経験がなかったので「仲のいい女ともだちと終電で海に行って、徹夜して朝焼けを待ちました」とアドリブでエピソードを捏造して見せた。青春っぽい回答に、面接官たちの反応はまずまずで胸を撫で下ろしていたら、次の女の子の回答にすべてを持っていかれた。
「別れた翌日に、セルフサービスで水葬をしました」
スイソウが咄嗟に変換できなかった。それは面接官も同じだったらしく、一瞬間があった。彼女は淡々と説明し始めた。
「前、インドのドキュメンタリー番組で見たんです。遺体を火葬じゃなくてガンジス川に水葬して弔ってるのを。それを真似して、失恋した翌日に川に行って、三十分くらいしゃがみ込んで川に浸かってました」
空気がアコーディオンみたいに伸びたり縮んだりするのが目に見えるかのようだった。学生たちはざわめき、面接官は声を出して笑い、なるほどねえ、セルフ葬式ねえ、とうなずいていた。
横で聞いていた私は、ざっと腕に鳥肌が立つのを感じた。それは面接が終わるまで、ずっと続いていた。そして、すべてが終わったあと、間髪入れずに「お茶、しませんか」と話しかけたのだった。
午前中は初ちゃんの部屋で画集を見たり、作品が掲載された雑誌をめくったりしていたけれど、初ちゃんが退屈しはじめたので街まで歩いた。貸さないなどと言っていたけれど、「それじゃ見てる方が風邪ひくから」と顔をしかめながら紺色のダッフルコートを貸してくれた。
途中で、太い川を渡った。「何て川?」と尋ねると「広瀬川」と短く返ってきた。赤い、錆の目立つ欄干から覗き込む。青碧色の水が、ゆるやかにうねりながら流れていた。
「ねえ、面接で言ってた、自分の葬式をした川も広瀬川?」
初ちゃんは振り向かないまま「そうだよ」と短くこたえた。よく覚えてんね、と小さく笑う。
「忘れるわけないよ、あの回答聞いて、この面接終わったら絶対あの子に話しかけようって思ったんだもん」
「一緒にお茶したね。懐かしいね」
懐かしい、なんて。そんな心地のいい毛布のような感情でまとめられるような思い出だろうか。
「まさか好きな人が昔付き合ってた人が、自分と同じ出版社の面接受けてると思わないじゃん、すっごいびっくりしたよ」
「そうだね」
久遠君なんかより私の方がずっと、初ちゃんと縁があったんだと思う。きっと初ちゃんは認めたがらないだろうけれど。
どうしても話してみたい、と言って初対面の女の子を連れ出し、目についたカフェに入った。キャリーケースを重そうに引いて家出少女のようななりでついてきた彼女は、どこか居心地悪そうにしていた。
飲み物を注文し、「ごめんなさい、急に声かけて」と切り出しても、いえ、ともごもごと歯切れが悪い。面接の時はあんなに堂々と話していたのに思いっきり人見知りの対応をされて正直面食らった。
「私、牧瀬春歌って言います。名前聞いてもいいですか」
「工藤、初です」
一瞬反応できなかった。うい、という古風な名前。少し三白眼になったつり目、鍵盤のようにぱっつりと切り揃えられたつややかなショートボブ、あまりいじっていない野性味のある眉。
「初、ちゃん?」
「そう」
「あの、私、知ってます。絵を描いてるんですよね、仙台に住んでて」
「……そうだけど。え、なんで知ってるんですか。初めて会ったのに」
さっと雨雲が広がるように表情に怯えが混ざった。興奮しすぎて、どう説明していいかわからないまま口にする。
「大学の研究室の同期が、初ちゃんのこと教えてくれたことがあって」
「え? 私のこと?」
久遠遥って言うんだけど、と口にしようとしたその瞬間、「もしかして遥君のことですか?」と初ちゃんが言った。話がつながったうれしさで「そうそう!」と思わず大きくうなずいてしまう。
「遥君の、知り合い?」何か考え込むようなそぶりを見せ、はっ、と手本のような仕草で私を見つめる。
「遥君が手紙で書いてた。昔、同級生で同じ『はるか』って名前の子と付き合ってた、って……」
今度は私が固まる番だった。手紙? 二人は文通する仲だったんだ。久遠君はそんなことは言っていなかったのに。というよりもなんで私のことをわざわざ書いたんだろう。
私たちはテーブル越しに見つめあった。たまたま遭難した人同士で山小屋に入ったら、どちらも刃物を隠し持っていたことが発覚したかのような、妙な緊張感があった。
そして、わかってしまった。初ちゃんは、まだ会ったことのない久遠君のことが好きなんだ。でなければこんなにもあからさまに傷ついたような反応をするはずがない。
「えっと……久遠君が書いてるの、多分私のこと」
「え……」
初ちゃんは呆然として、露骨なくらい私の顔をじっと見つめていた。
「そうなんだ。春歌さんも、出版社受けてるんですね」
「そうそう。さっきの会社は第二志望なんだけど、初ちゃんみたいにインパクト残せなかったから落ちてるかもしれない」
「別に、インパクトだけが大事なわけではないから」と言いながらも、初ちゃんははにかんだ。
「さっきの、自分の葬式を川でした話は本当なの?」
「うん。嘘の話なんて、就活で話したことない」
あっさりとした言い方だったけれど、自分の経験に自負があることが濃く透けて見えた。「なんか、びっくりしすぎて他の回答が全部かすんじゃってたね」と言うと、「うーん、そうかもね」と肩を竦めてカフェオレをすする。少しびっくりした。
こういう、人なんだ。いままで会った、どの人とも違う振る舞いだった。
しばらく、互いの就活事情について話した。初ちゃんは就活で出版社と新聞社だけを受けていて、他の企業は説明会にも行っていないのだと言った。内定もう持ってる? と聞かれたので「空港と、百貨店で一つずつ出た」と正直に言うと、「いろんなところ受けてるんだね」と拗ねた子供のような声でぽつりと呟く。
「地方の大学だからって言うのもあって、あんまりたくさん数撃てないんだよね。出版社も新聞もエントリー数はめちゃくちゃ絞ってるから、どこにも受からないかもしれない」
「イラストの仕事してるって聞いたから、デザイナー職か、フリーランス目指してるのかと思ってた」
「よく言われるけど、好きなことで仕事するのはしんどいってよくわかったら、もういいかな」高卒で就職すると言っても通用しそうなほど幼い見た目だけれど、この子は私より先に社会に出る経験をしたんだな、とふと思った。
「ごめん、私この後選考あるんだ。そんなに長くいられないかも」初ちゃんが携帯で時間を確かめながら言った。
「そうなんだ、こっちこそ引き止めちゃってごめん。よかったら、連絡先教えてもらえませんか」
一瞬黙ったあと、いいけど、と初ちゃんがラインのQRコードを差し出した。無言で読み取る。つむじを見下ろしながら、なぜかこう口走っていた。
「私も、初ちゃんに手紙書いてもいいですか?」
「え」
「本当はもっと話したかったし、お願い」
なんでそんな面倒くさいこと言ってるんだろう、と自分でも思った。友達と文通したのなんて小学生以来だ。だけど、なぜかそう言っていた。初ちゃんは「そんな返事早くないかもしれないけど、くれたら返すよ」とその場で住所を送ってくれた。9から始まる郵便番号を見て、ああこの子は本当に遠くに住んでるんだな、と何故だかそんなことを思った。
信じがたいけれど、初ちゃんとの文通が本当に始まった。
〈遥君から初めてメッセージが来たのは3月で、絵のことを褒める内容でした。
最初は知らない人のDMなんて無視しよう、と思ってたんだけど、遥君は色んなものに精通してて賢そうだったから、なんとなく返信した。文通しようって言ってきたのも、向こうだった。ちょっとびっくりしたけど。
初ちゃんは名前のイメージと真逆でわりとひねくれてるよね、と一通目で書いてきた時はかなり腹が立ったけど、絵のことは結構細かく褒めてくれて悔しいなと思いながらも返信を送った。高校生の時俳句やってたらしくて、みょうに文章が風流だった。おじいさんみたいだね、って仕返しで書いてやったら「人より、世界に対して目をくばってる証拠」って返ってきて、何かっこつけてんだ、って思ったけど、この人なんかいいなって思って悔しかった。〉
〈こんにちは。少し間があいてしまいました。この間はお茶できて楽しかった。**社、初ちゃんも落ちちゃったんだね……あそこは例年、少ししか取らないらしいし、しょうがない。まだ選考はいくつか残ってるけど、空港の内定に落ち着きそうです。
久遠君に「私も初ちゃんと文通始めた」と言ったら、「なんかこえーよ」と怯えられました。今度初ちゃんが東京に来たら、3人で会いたいねと話したんですが、どうかな。
あと、久遠君とのデートはどうでしたか〉
〈出版社のほとんどが東京にあるから就活で出てるだけで、東京に行きたいとか、住みたいとか思ったことほとんどない。むしろ行くたびに嫌いになってる気がする。
東京のここが嫌い、ここが気に食わない、とばかり書いていたから、遥君はあんまり東京っぽくないところに連れて行くよと言って新宿御苑に一緒に行った。確かに入場料は東京にしては安いなーって思った。遥君は、写真通り、顔が綺麗で話もうまくて、なんか、存在自体が嘘くさい男の人だなって思った。
三人で、って。どんな顔して会えばいいの、全員。〉
久遠君とも文通しているらしいし、前もって予防線を貼っていたくらいなのであまり期待していなかったけれど、初ちゃんは私よりずっと筆が早かった。エントリーシートにあきてはせっせと手紙の返信を書いた。
久遠君と初ちゃんが初めて会った日、お互い面接も予定もなかったそうなので、カフェに行ったり御苑で散歩したり、ほぼ一日中一緒にいたらしい。「泊めたの?」と訊くと「いや、夜行で帰ったよ」と言われてさらに驚いた。就活でお金がない、と手紙ではこぼしていたのに、久遠君に会うためだけにわざわざ東京に来ていたと言うことが衝撃的だった。それだけ好きなんだ、と思った。
初ちゃんと文通していても、久遠君は相変わらずふらりと私のマンションに現れた。公務員試験の勉強道具を抱えてくる日もあれば、映画を見てだらだらするだけの日もある。変わらずセックスをするので、この人は本当に、初ちゃんにふれていないのかもしれない、と思った。
二人が二度目に会ったあとの手紙で、初ちゃんは久遠君への恋愛感情を初めて認めた。
〈文通を始めたときは、この男の人何が目的なんだ、と警戒していた。最初は、やな感じ、と思って結構手紙でも皮肉ばかり書いていたけど、遥君はのらりくらりかわして私を褒めてくれるので、お手上げだった。
好きにならないように気をつけてたけど無理かもしれない……と足元がぐらつき始めたとき、牛込神楽坂の面接のあとで、とても綺麗な子が話しかけてきた。
自分の劣等感を呼び起こす要素をこれでもか、と詰め込んだようなその女の子は、好きな人の元彼女で、浮かれていた私の踏んでいた地面が、地割れして崩れていくのが見えた。
なんで、そんな人と文通してるんだろう。それでも手紙が春歌ちゃんから来ていたらすぐに封を開けてその日のうちに便箋にペンを走らせる自分のことは、もっとよくわからない。すべてにおいて敵だなあ、って思ってるのに。〉
「敵だなんて、初めてそんなこと人に言われたよ。いくらなんでもストレートすぎて」
ミルクティーをすすりながら言うと、初ちゃんは「そう?」とすました。
アーケードの小さなビルの二階にあるカフェは、広くはないけれど、デザインがばらばらのソファセットがあちこちにあって、間接照明がぶら下がり、洞窟めいていた。アイデアが枯渇すると、よくこの喫茶に来てスケッチブックを広げるのだという。
「私からしたら、すっごい褒め言葉だけどね」
ふーん、と相槌を打つ。初ちゃんはプライドが高そうに見えて、実はそうでもない。そういうところがかわいげがあって、久遠君は惹かれたのかな、と思う。
「昔、東京のファミレスで私の絵を描いてくれたよね。いまでも持ってるよ」
携帯の写真フォルダから見せると、「まだ緊張してた時の春歌ちゃんだね」とにやっとした。
その時私は、初ちゃんの乗る夜行を待つのに付き合って、入れ替わりの激しいファミレスに二十三時まで一緒にいた。会話が間遠になった時、初ちゃんが不意にスケッチブックを構えたのだった。
「何描いてるの」
「春歌ちゃん」
「えー」
照れくさかったけれど、人に描いてもらった経験がほとんどなかったので純粋にうれしかった。むっすりと唇を尖らせて、黙々と鉛筆を滑らせ始めた。
「できた」
スケッチブックを破り、こちらに押し付けるようにして紙を差し出された。乱暴な仕草とは裏腹に、紙の中の私は繊細なタッチで佇んで、こちらに微笑みかけていた。
「すごいね! 似てる。さすが、うまいね。嬉しい、ありがとう」
初ちゃんは照れ笑いするでもなく、じっと私の反応を観察していた。なかなか懐かない親戚の子供みたい、と思いつつ、汚しさないように折ってスケジュール帳に挟んで持って帰った。
「そういえば久遠君の絵は描いたの?」
意地の悪い質問かな、と思ったけれど聞いてみた。初ちゃんは「描くわけないよ、気持ちわるがられるじゃん」とあっけなく否定した。
「でもあの時私のことは描いてくれたのに」
あれは、と初ちゃんは眉根を寄せた。あの頃は眉上だった前髪も、いまではしっかりと眉を隠している。
「負けたくなかったから描いただけ。単なるパフォーマンス」
うんざりしたような声音だった。これで満足か、とでもいうように、初ちゃんがこちらを真っ直ぐに見据えるので、視線を床にすべらせた。
大学四年間で、久遠君としか付き合わなかった、というといろんな人に驚かれた。春歌ならいくらでも付き合えるのに、と女の子たちは口々に言う。正直、デートに誘われたり告白されたりと言うことは日常茶飯事だった。就活をしている時も、他大の男の子に連絡先を渡されたりごはんに誘われることも結構あった。そして、そういう事態は決して誰にでも起こることではないと言うこともわかっている。
それでも、なぜか興味が持てなくて、何度かデートしてみてもしっくりこなくてフェードアウトすると言うのを繰り返した。
〈遥君みたいな男の子に会ったことがなくて、何話しても新鮮だった〉
〈センスがよくてそつがなくてかしこくて、悔しいのに嬉しい、みたいな気持ちになる〉
〈遥君といると、自分がすごく上等な女の子になったみたいな気持ちになれる。田舎しか知らなくて、ひがみっぽくて、冴えない工藤初じゃなくて、才能があって、まっすぐで、大胆な工藤初になれる。遥君といる時の自分が好きだから、遥君のことが好きなのかもしれない。でも、本当にそれが自分の素かって聞かれたら、よくわからない〉
いちど認めるとひらきなおったのか、初ちゃんの手紙は、往復するごとに久遠君への気持ちに関することの記述が多くなり、蜜が滴りそうなくらい甘く熱を持つようになった。大仰すぎる表現に思わず笑ってしまったこともあった。
目の前の恋で目一杯になって、のめり込んでいる初ちゃんを痛いと片付けるのは簡単だった。でも、その相手は、自分の元彼で、いまでも寝ている。でも、優越に浸っている、というほど余裕のある感情で二人の進展を追えているわけではなかった。むしろ、付き合うなら付き合う、寝るなら寝るで早く結末を見せてほしくていらだった。
「初ちゃんのことどうするつもりなの?」
正面から問いただしたのは七月のことで、私は既に就活を終えていた。それでも、初ちゃんはまだ内定が出ておらず時々東京に来ていて、久遠君と会っているようだった。三人で会おう、という私の案は初ちゃんによってやんわりと退けられ、相変わらず、会うときは初ちゃんと久遠君、初ちゃんと私、私と久遠君、という組み合わせしかなかった。
「え、何」
「仙台から来るたび毎回会ってるんだよね? 私は第二候補でしかないから久遠君が空いていない日しか呼び出されないけどさ」
久遠君はうっそりとソファから身を起こした。無遠慮に私を眺め、「めずらしいね」と言った。
「何が」
「いままでだったら、僕が女の子と遊んでてもそんなふうに突っかかって来なかったじゃん。なんで初ちゃんの時だけそんな興味あんの」
自分でも理由がわからないことをあっさりと指摘されて、わけもなく腹が立った。なんでなんだろう。なんで、初ちゃんの時は、こんなに気になって、心をかき乱されるんだろう。
こんなにも気にかかるのは彼女が絵を描く人で変わった経歴があるからだろうか、と思おうとしたこともあるけれど、単に初ちゃんのクリエイター的な面に劣等感を覚えているから、ということではない気がする。でもどうしてか初ちゃんの一挙一動から目が離せないのだ。
「しらない。っていうか久遠君って初ちゃんのこと本当に好きなの? あんまりそんな感じしないんだけど」
手紙によれば、会えば久遠君は冗談まじりに口説いてくるけれど、手をつないだりキスをしたりというわかりやすい身体接触はいちどとしてしてこないのだと、初ちゃんが書いていた。そんな露骨なことを実況中継のように書き送ってくることにすこし呆れたけれど、手の早い久遠君にしてはめずらしいな、と不思議に思い、同時に苛立ちが胸を毛羽立たせた。
「好きっていうか、うーん。いままで会ったことがないタイプだから気になる、って感じ。遠距離だし、付き合うのもなんか違うじゃん」
久遠君はあっさりと答えを言った。付き合う気はない、ということに圧倒的に安堵と勝利を感じている自分を、とてもみにくいと思った。それでも、お湯をたっぷりと注ぎ込まれたみたいに、心がみるみる潤っていくのを止められなかった。
「からかってるだけってこと? それもどうなの」
「人聞き悪すぎでしょ。そういうんじゃないよ。本気の遊びがあったっていいじゃん」
きざったらしい言い回しに、ばかじゃないの、と眉が寄った。ひねくれているわりに夢みがちでロマンチストな初ちゃんは久遠君のこういうところが好きなんだろうけれど、私からすれば、彼のこういう言動は痛々しく、鼻につくだけだった。
「久遠君って本当適当だよね。刹那快楽主義者もいいところだよ」
「そんな男としてる春歌もまた刹那快楽主義者じゃん。同族嫌悪でしょ」
突き放すような言い方とはあべこべに、やさしく頭を抱き寄せられ、髪を指でとかれた。こういう状況にいることで初ちゃんにざまあみろと思えればいっそ楽なのに、くだらない、としか思えなかった。中途半端に引かれたネイビーのカーテンを醒めた目で眺め、久遠君が私の身体に潜り込もうとすることから意識を飛ばす。
カフェを出て、ファミレスで遅いお昼を食べたあとはひたすらアーケードをぶらぶらした。
二週間前、仙台に行くから遊ぼう、と初ちゃんにLINEを送ると【仙台って暮らすための街だから何にもないよ、期待しない方がいい】と返ってきた。やんわり拒まれている気配を感じつつも、夜行バスの往復路チケットを買った。この日に行く、と言うと、ちゃんと初ちゃんは予定を開けておいてくれた。大学四年の二月なんて多忙だろうに、律儀な人だな、と思った。
「初ちゃんの大学生活って、どうだった?」
立ち食いの店でずんだもちを食べながら聞いてみた。
初ちゃんはやけにきっぱりと「あんまり思いだしたくない」と言った。
「何それ。つまんなかったの?」
「そう言うわけじゃないけど。自分で失恋の葬式を川で行うような人間の学生時代が明るいと思う?」言えてるね、と言うと肘でどつかれた。
ずんだ餅は思っていたよりずっとあっさりとした味で、懐かしい感じがした。けれど「なんか、いまひとつパンチにかける味」と初ちゃんは毒づいた。
「そう? まあ、確かにやさしい味だと思うけど」
「こういう、印象に残らないものはあんまり好きじゃない」
初ちゃんらしい言い草だと思った。この子は、自分に対しても他者に対しても、記憶に爪痕を残すことに執着があるんじゃないかな、と思う。ものを作っている人がみんなそうなのか、初ちゃん固有のものなのかはわからないけれど。
「春歌ちゃんみたいな人にはわからないよ。思いだすたび、比喩とかじゃなくて本当に部屋でのたうち回るような記憶ばっか」
暗い表情で吐き捨てる。ふと、ずっと思っていたことを尋ねてみたくなった。
「久遠君も、そういう人だと思うんだけど、なんで好きなの。っていうか、私なんかよりずっと、勝負しないでカッコつけたまま生きてるタイプの人だと思うんだけど」
沈黙があった。そして、小さく言う。
「そうだね。そうだと思う。遥君はよくて、春歌ちゃんはなんかむかつくのって、なんでなんだろうね」
「むかつかないでよ。それか公平に両方にむかつくべきだよ」
「知らないよ」
ずんずんと、またアーケードに向かって歩きだす初ちゃんを、ずんだの容器を捨ててから追いかける。高校生のような頼りない小さな背中。身体に対して大きすぎるコート。ああ。
この子が好きだ。目が離せない。でも、嫌いだ。見ていられない。久遠君に対する感情に似ているようで、全然違う、と思う。
「そんなにお金がない」と初ちゃんが言うので、晩ごはんはアパートに戻って鍋をすることにした。
せり鍋にしようか、と初ちゃんが言うので「何それ」と言ったら、「知らないの? 仙台の名物だよ」とばかにしたように笑った。具材は何を使うのかわからないので、スーパーの中で子供のようについて回った。
アパートに戻り、「これ切って」と食材を渡されるがまま作業する。あまり宅飲みという文化がない大学にいるので、二人で台所仕事をするのは新鮮だった。それを口にすると「これだから東京私大はいけすかねー」と顔をしかめていた。
ローテーブルで、鍋を囲んだ。初めて食べるせりは、木のような味がした。「ログハウスみたい」と思ったことを言うと、ばかにされるかと思ったのに初ちゃんは「あ、わかる」と素直にうなずいてくれた。
「ねえ初ちゃん」
「何」
「なんで久遠君と付き合わなかったの」
告白されたのに。
二人の間で湯気がふんわりと立ち昇っている。そこだけ切り取れば天国のようだけれど、鍋の中は地獄の底みたいにぐつぐつとあぶくを吐き出していた。
「なんでって」
「付き合うのかと思ってた。だって、あんなに好きって言ってたのに」
初ちゃんは小鉢を持ったまま黙り込んだ。
久遠君が「ふられたー」と言いながらマンションにやってきたのは去年の十二月のことだった。卒論に忙殺されているところにこられて正直迷惑だったのだけれど、「初ちゃんに、『遥君とは付き合えない』って言われた」とぼそりと言いだしたので思わず手を止めた。
「なんでだろーなー。途中までは、絶対向こうのほうが僕のこと好きだったと思うんだけどなー」
ふられてもなお久遠君はどこか優雅で、みじめに見えなかった。夏が終わり、初ちゃんが就活を辞めてからも二人は月にいちどは東京で遊んでいたらしい。頻度は下がったものの一応は文通を続けていたので、それ自体は把握していた。特に進展はないと思っていたので、「なんで告白したの」と問うた。好きだったから、と久遠君はぽつんと雨粒みたいに言葉を漏らした。
「もう二人では会わない、って連絡先もブロックされたしさ。あーあ」
ごめん忙しい時に、と部屋をあとにしようとした。「泊まれば」と引き留めると、断られるかと思ったのに久遠君はねこのようにベッドに俊敏な動きで飛び乗り、ありがとな、と笑った。あーあ、と思った。
私は、初ちゃんに勝てなかったのだ。
「告白はうれしかったけど、でも、付き合うのも違うなって思って」
「好きなのに? なんで?」
「片思いで好きなのと付き合って好きなのって全然別でしょ。私、遥君のことは憧れのままにしておきたかったんだよ。知りすぎたくなかったって言うか」
ぼそぼそと初ちゃんが言う。わかるような、反論してやりたいような気持ちが、半分ずつ胸に迫り上がる。
「逆でしょ。知られすぎたくなかったんじゃないの。憧れのままでいてほしかったのは初ちゃんじゃないの」
「なんで春歌ちゃんが怒ってんの」
あきれ顔で私を見ていた。カッと羞恥の意識が喉を灼く。
「未練は一切ない、友だち、ってずっと言ってるけどさ。春歌ちゃんこそ遥君のこと好きなんじゃないの? 付き合って怒るならわかるけど付き合わないから怒るの、意味わからないよ」
淡々と、けれど怒りもこもった声で初ちゃんが言った。言い返せないでいると、「とりあえず鍋食べよう。冷めたらおいしくないから」と小鉢を奪われて勝手によそわれた。
黙々と、鍋を食べた。二人して無言だった。初ちゃんからしたら、蚊帳の外の人間からあれこれ言われて、理不尽極まりないだろう。腹を立てて当然だ。私だって、こんなに他人のことに首を突っ込んだことなんて初めてだ。
どうしてなんだろう。初めは久遠君に未練があるのかと自分を疑った。でも、そうじゃない。私の興味の矢印は、初ちゃんに対するものだ。恋愛感情じゃない、もっとぐしゃぐしゃに絡まりあって二度とほどけそうにないもの――嫉妬なのか悔しさなのか羨望なのかわからないけれど、いろんな色の絵の具を混ぜたら一体どの色が入っているのか判断つかなくなるみたいに、一つの大きな感情の滝になって、いま、堰き止めきれずに崩壊した。それを初ちゃんに、ぶざまに垂れ流している。我ながらばかみたいだ。でも、止められない。
久遠君は、才能があって特別だから初ちゃんのことを好きなのかと思っていた。でも、多分そうじゃない。
あの人は、初ちゃんが自分より弱いから好きなのだ。可哀想だから初ちゃんを選んだ。自分でも最低な思いつきだと思ったけれど、実際にそうだからしょうがない。私にはわかる。だって、私が久遠君を選んだのも、自分より弱くて、頭が悪くて、痛くて、ダサくて、かわいそうだから。
でも圧倒的に久遠君と初ちゃんとで違うところがある。それは、土俵に立てる人か、そうじゃないかだ。久遠君は、他人から点数をつけられることを極端に避ける。でも初ちゃんはそうじゃない。
この人は、真っ向から土俵に立って、勝負に立つ人だ。就活でも、絵でも、恋愛でも。
初めて食べたせり鍋はおいしかった。鍋が空くと、初ちゃんは黙って下げて洗った。手伝おうか、とかたちだけ声をかけたものの、「いい、座ってて」としずかに拒まれた。
じっと正座して待っていると「何正座してんの」と戻ってきた初ちゃんが呟いた。相変わらずぶすくれてはいたものの、もう怒ってはいなかった。
「別に」
「もう東京戻んでしょ」
「うん」
「春歌ちゃんが絶対やったことないこと、教えてあげようか」
コート来てついてきて、と言うので言われるがまま一緒に部屋を出た。ずんずんと歩いていくのを、寒いな、と思いながらついていく。
たどりついたのは公園だった。ぶらんこでも漕ぐのかな、と思っていたら、すたすたと通り過ぎて、おもむろに初ちゃんは地べたに座り込んだ。そして、なんの躊躇紋なく、いきなり寝転がった。砂の上に。
「えっ」
「死にたくなると、この公園来て寝転がってんの。死体ごっこ」
意味が分からず、とりあえず初ちゃんの横に体育座りした。寒風にさらされた砂は大理石のように冷たかった。
やっぱりこの子はちょっとおかしいし、痛い。でも、ためしに寝そべった。頭上の空が平行になるまでの数秒、何かを手放すような感覚がふっと、ゆるく身体を包んだ。
「どう」
横から初ちゃんが言う。
「人が通ったらやだな、って思う」と思ったことを言うと「なんでそういう興醒めなこと言うわけ」とうんざりした声が返ってくる。
「久遠君と御苑でもどうせ寝転がったんでしょ」
「え、なんでわかったの」わかりやすすぎるから、と言うと黙っていた。しばらくして、ぽつりと言う。
「私、春歌ちゃんみたいな子だったら、公園で寝転がって絵なんて描かなかったと思うよ」
「そう?」
「ふくらはぎがほそくて二重で色白の女の子だったら絵なんてやんなかった。普通にバトミントンとかヨガとかやってた。知らないけど」
目が慣れてきた。東北は星が綺麗に見えるね、と囁いてみたけれど、「仙台だってそこそこ都会だしそこまで変わらないと思うよ。普段東京で夜空見上げる習慣がないからそう見えるんでしょ」とにべもない。けれど一理あると思った。
私は、初ちゃんみたいになりたかったなんて思わない。よぎったこともない。でも、初ちゃんになれない、とは思っている。まっとうにひねくれていて、でも全部思っていることが透けて見えて、気に食わない相手には丸腰で牙を立てる。可愛い。でも私の可愛いで初ちゃんが喜ぶとは思えないから、言わない。
「久遠君は仙台来たことないんだよね」
「そうだよ。だから、春歌ちゃんが来るって言うから、びっくりした」
「そうだね」
私でごめんね、と意地悪で言おうとして、やめる。
「春歌ちゃんのこと、苦手だなって思ってるけど、でも来てくれてうれしかった」
「そうだよ。本当に好きだから来たんだよ」
知ってる、と初ちゃんが小さく呟く。
私は来年から千葉に住んで、その街の空港で働きだす。久遠君が千葉まで私に会いに来ることはないだろう。東京に行く、と言えば私を拒みはしないとしても、きっと、久遠君が自分の足で私の住む街まで来ることはない。あの人は誰も愛していない。
だから、東京で、私のことを愛していない人を訪ねるのはやめよう、と思う。好きな人のところにだけこうやって会いにいけばいい。
「初ちゃん」
「何」って言うか時間大丈夫? と身体を起こそうとするのを苦笑いして止める。
「また会いに来るよ。だから、初ちゃんもいつか来てね。私の家」
「気が向いたらね」
星がぎらぎらと尖った光を放っている。いまはまだ友だちではない私たちの影を、おんなじ形に引き伸ばしているんだろう。
君は星 @_naranuhoka_
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