くちびる

凡imi

くちびる

おしゃれ髭。ツーブロックの髪のトップはジェルだかワックスだかでオールバックにツヤめく波のようにいつも美しくセットされていて、それから筋肉質な体つきが悪目立ちする体に沿ったデザインのスーツにインナーはVネックの白いTシャツ。

仕事帰りに会う彼は、自信が服を着て歩いているような男だった。


彼とは行きつけのバーで知り合った。

人を見かけで判断するのは良くないとは思うのだけれど、見ていると背骨のあたりがぞわぞわとしてしまうくらいの、いやもうホントに苦手なタイプで、偶然隣の席に座った日にはじめて彼に話しかけられた時の、私の態度はあまりに酷かったと彼は何度も笑って私をいじった。


彼は、とても明るくて社交的で、何度も顔を合わせ会話を交わすうちに、まるで昔からの親友のように仲良くなってしまった。





私が残業帰りのある日、バーカウンターに座る彼はいつもとは様子が違って、背中を少し丸めてウイスキーグラスを握っていた。

声をかけて隣に座ると、こちらを向いて会釈したと同時にオールバックの髪の一房が額に落ちた。


聞けば、デートの帰りだと言う。

何があったのかはよく分からないが、どうやらふられてしまった様子で、あきらかにいつもより飲んでいるようだった。

特にその話を深く掘り下げることもなく、マスターを交えて出来るだけいつものように私は彼と接した。


次の日が休みだったこともあり、私は閉店時間まで彼に付き合うことにした。


閉店時間に店を一緒に出たところで、よろけた彼を支えてふいに顔が近づき、どちらともなく、くちびるを合わせた。

それから、顔の角度を変えながら少し生々しく何度かお互いにくちびるを動かした。


髭を蓄えた彼とのそれは、くちびるへの刺激より、くちびるのまわりの皮膚への刺激が強く、かたい質感の髭からの刺激は食事の後にゴシゴシとペーパーナプキンで口を拭いた後のようなヒリヒリとした痛みが残るものだった。


世の中の髭男子と付き合う女子はすごいなと思った。彼女らはくちびるまわりの皮膚が強いのかもしれない。私の皮膚はこの刺激に耐えられそうもない。


決して多くはないけれど恋愛経験だってあるし、この程度で騒ぐ年齢でもなかったけれど、それは彼への恋を気づかせるには充分すぎる刺激だった。


「髭が痛い」と小さく言うと、酔って潤んだ目を細めて彼は笑って私を見つめ、そして、ゆっくりとまたくちびるをはんだ。


彼が髭を剃ってくれたら、今度は目を閉じてウィスキーの香りのするそれを深く味わってみるのも、悪くないかもしれないと思った。


彼の吐息と湿度、それからくちびるの筋肉の動き。





次に会った時、彼は髭にビールの泡を付けて、彼女と寄りを戻せたとうれしそうに笑って言った。


あの日のことを覚えているかなんて、そんなこと、聞くことも出来ないくらいに彼はいつも通りだった。


私は閉じたくちびるにきゅっと力をこめて彼に笑いかえすしかなかった。


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