第50話 お支払いはリコピンで

 りんごジュースのパックを捨てた公園からさらに数分歩いた頃、突然足を止めた玲奈れいながくるりと体を建物のある方へと向けた。


「ここよ」


 そう言って指し示されたのは、ごくごく普通の一軒家。あえて紹介するとしたら、壁が新品のように綺麗だということくらいだろうか。

 もしかして、お客さんが来るからと掃除してくれたのかもしれない。瑞斗えいとはそんなことを思いつつ、手招きをする彼女を追いかけるように家の中へと入った。


「お邪魔します」


 そう声を掛けてみるも、薄暗い廊下の向こうからは何も返ってこない。

 これで外が雷雨だったなら、ホラーゲームの序盤のシーンと見紛うほどだろう。

 念の為確認してみたところ、玄関は不思議な力で閉じられたりしていなかったし、玲奈に「何やってるの」と変な目で見られたけれど。


「お姉ちゃんは二階の部屋で待ってるはずよ」

「その前にお手洗い借りてもいいかな」

「すぐそこのドア。りんごジュースをがぶ飲みするからそうなるのよ」

「僕も今、そう反省してたところ」


 もしこれが本物の彼女だったとしたら、家に来て初めにすることがトイレだなんて最低な彼氏だ。

 いや、もしかすると恋人関係でなくとも、初手お手洗は禁止カードだろうか。

 そんな考えが頭をよぎっても、人間誰しも尿意に勝つことは出来ない。それが世の常なのである。

 瑞斗は大急ぎでトイレへと駆け込むと、せめてもの償いとして便座を念入りに拭いてから出ることにした。


「随分と遅かったわね」

「ごめん。その代わり、次に入ったら驚くよ」

「どういうこと?」

「それは見てからのお楽しみかな」

「……?」


 意味がわからないと言いたげに首を傾げた彼女は、一度トイレのドアを開いて覗き込んだ後、眩しそうに目を擦りながら戻ってくる。

 そんなにピカピカしていたのだろうか。いや、逆に拭き足りなくて見苦しいものを見た時の反応かもしれない。

 そう思って引き返そうとしたところで、襟首を掴まれて強引に階段を昇らされてしまった。


「お姉ちゃん待ちくたびれてるわよ、早く入って」

「わかったよ。ちょっと話するだけでいいんだよね?」

「ええ、これはあくまで顔合わせだもの」

「何だか仕事みたい」

「私たちの関係を割り切るなら、そう表現する方が正しいのかもしれないわね」

「じゃあ、お給料は?」

「さっき払ったでしょ」

「……ケチ」


 瑞斗は、呟いた言葉に対して飛ばされる鋭い視線から逃げるように、目の前のドアをノックして中へと入る。

 そして「いらっしゃい」と微笑みかけてくれる人物、日奈ひなに「失礼します」と頭を下げた。


「そんな畏まらなくて大丈夫だよ」

「いえ、僕のために時間を取ってもらったくらいですし……」

「ううん、実は私が会いたいって言ったの」

「……どういうことですか?」


 言葉の意味がわからずに首を傾げていると、腰掛けていたイスから立ち上がった日奈は、ニヤリと笑って彼へと近付いてくる。

 身の危険という言葉はこういう状況において使うのだろう。背筋がそう語るのを感じた瑞斗は、気圧けおされるかのように後退り始めた。

 しかし、先にも述べたようにここはごく普通の一軒家。部屋ひとつでかくれんぼも鬼ごっこもできるはずがない。

 10秒も経たないうちに壁際へ追いつめられた彼は、為す術なくどんどんと顔を近付けられてしまう。


「瑞斗くん、だっけ。レイちゃんよりお姉さんの方が胸も大きいし経験豊富だよ? 私に乗換えるつもりは無い?」


 甘い口調でそう囁かれてしまえば、もとより玲奈への恋愛感情を持ち合わせていない彼の心は簡単に揺れた。

 目の前で豊満なバストを見せつけられ、抗える男なんているだろうか。いや、居ない。


「僕は……」

「うんうん、僕は?」

「お姉さんと……」

「私と?」


 頭ではそう思っていても、やはり姉川あねかわ 瑞斗みずとは姉川 瑞斗らしい。

 彼の本質とも言えるお人好しはもはや、玲奈との約束にまで根を張り、偽彼氏としての自分を捨てようとはさせてくれなかった。


「…………僕はお姉さんに興味がありません」

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