影とダイアローグ

唯六兎

影とダイアローグ

大阪のとある大学の第一講義室は今日に限って大勢の人でごった返していた。定員が既に超えたにも関わらず、教室には今もなお人がなだれ込んでいる。そこには種々様々な亡霊の類も興味を引かれ、彷徨い込むほどであったろう。私もその波に揉まれ講義室に入っていった。


群衆は決まって教壇を見ていた。記者もそちらの方ばかり撮影している。そこには手に持った資料をあくびをしながら眺める、細身長身の男がいた。


彼、小山内はこの大学の生物学の教授である。今年で五十になる特筆すべき功績もない人物だったが、そんな彼が一年ほど前から「世紀の発見をした」と世界各地におふれを出し始めたのである。アンドリュー・ワイルズがフェルマ―の最終定理を証明した時はほとんど告知もなされなかったと言うから、それに比べるとややがめつさが目立つ。しかし、そのアンドリュー・ワイルズの例やその他諸々があったからこそ、人々はわざわざ世界中から大阪まで来ざるを得なかったのである。


小山内はこれから自称世紀の大発見について発表すると言うのに、いかにも気だるげな風であった。そんな小山内の態度を聴衆は不審に思っていた。

小山内は一時二十五分のチャイムの音と共に顔を上げると、同時にマイクの電源をつけた。そしてマイクのグリルを爪でトントンと叩く。講義室には小気味良い音が鳴り響いた。途端に騒々しかった空間が静まる。その隙を見計らい、小山内はしゃがれた声で喋り始めた。


「まずは皆さんお集まりいただき、誠にありがとうございます。思っていた以上の人が来てくださったものでですね、えー、嬉しいんですけど、後から来た人は立って聞いてください。あ、そこ、もう少し詰めてもらえますかね。そうです、あなた。ええ、ええ。」


しばらく小山内は言葉で室内の混雑緩和を促した。そうして定位置を見つけた人々の顔を、小山内は一瞥する。一通り安定した顔が見えた小山内は続けた。


「みなさんの顔が見えるようになりました。すみません、この発表を見ることができない人がいると、私にとって不都合ですので。」


各国の記者が外国語をボソボソとつぶやいているが、おそらく翻訳でもしているのだろう。その度に人々の目は険しくなり、つまらない内容だったら承知しないぞという感がひたすらに増幅していくばかりである。それでも小山内の目には自信の炎が灯っていた。小山内は話を続ける。


「今回お話ししますのは、世紀の大発見であります。アリストテレス以降、我々は様々な生物と出会ってきてはそれらを研究してきました。おかげで今日までに約百七十五万種もの生物が発見されることとなったのは、みなさん自明のことと思います。」


人々はこぞってうなずいた。


「しかし、今回わたくしが発表するのは、そのどの分類にも当てはまらない、完全な新生物であります。」


そう言うと、小山内は教壇の上の資料を一枚めくった。そしてパソコンのエンターキーをパチンと弾くと、スクリーンの画面が切り替わり文字が現れる。


「ドッペルゲンガーの発見」


何と滑稽な言葉であろう!

小山内はこのアカデミックな場に、まことしやかに語られる噂に過ぎない、まさに都市伝説や戯言の類を持ち込んで、大々的に公表するという暴挙に出たのである!

たちまち人々はざわめきだす。そして半ばあきれた様相を見せ講義室から出ていく人もいれば、顎に手を当ててなんだか神妙な顔つきをしている人もいた。

外国から来た人々はもはや諦めた様相であったが、どうやら最後まで粘るらしく苦渋の表情を浮かべて席に座っている。せっかく来たなら何か益になることを聞くまで帰れないとでも考えているのであろう。いずれにせよまったく気の毒なことである。

しかし、そんな様子を眺めながらも、小山内はまるで全てを予想していたかのように泰然自若としていた。


「みなさん、そう騒がないでください。これから発表しますのは、まさにドッペルゲンガーと言っても過言ではないもの、いや、生物なのです。それでは。」


そう言うと、小山内は天井から降りてきたスクリーンに一つの映像を映し出した。

見ると、そこには一人の青年が映し出されていた。


    ◆


「じゃあ、自己紹介をお願いしてもいいですかね。」


小山内はそう言うと机上のスマートフォンを見た。青年の姿が録画されているのを確認した後、再び彼に視線を戻す。彼は小山内の向かいに座っていたが、暗い表情で首を垂れ黙っていた。しばらく様子を見ていたが、いつまで経っても話し始める様子はなかった。


「何にも話さないとここから出しませんよ。影の人。」


そう言った途端、彼の目に怒りが浮かんだ。そして椅子を蹴飛ばし小山内の胸ぐらに掴みかかる。机に立てていたスマートフォンが倒れた。

露骨な殺意を向けられた小山内は少しヒヤリとしたが、ここが好機とばかりに落ち着いて話を進めた。


「何を怒ってるんです。間違いではないでしょう。」


我ながら何とも嫌味な表現であったが、無口な青年の口を開くほどに効果はあったらしい。彼は雑に席に座ると、小山内を睨みつけた。


「知ってるんだろ、僕のことを。ならもう何も言わなくていいじゃないか。」

「証拠を残すためにですよ。ほら、この携帯の方に、話してくださいよ。」


彼はため息をつくとおもむろに話し出した。


「稲村健、二十歳。職業学生。好きな物は唐揚げで、嫌いな物はキウイフルーツ……。」

「違います。あなたの本当の姿の方ですよ。」

「……フラクモ、ツツガのカタピラ族のフラクモ……。」


「ツツガ」は彼らの種族名だろう。「カタピラ族」というのはツツガの中にも複数の民族があることを表しているものと考えた。小山内はそれらをメモに書きつけた。


「「フラクモ」の部分はあなたの個体名ということでしょうか。」

「個体名? 名前と言うことだったらそれであってる。」

「ではフラクモさん、次に……」


話を繰り出そうとした時、それを遮るように彼が話し出した。


「今度は僕の質問に答えてくれよ。こういうのは一進一退の攻防戦だろ?」

「……いいでしょう。何でもどうぞ。」

「じゃあ、僕についてどこまで知っている?」


小山内は彼の目をじっと見据えた。彼も小山内を凝視している。部屋は静かになり、外で鳴いている鳥の囀りが聞こえた。

沈黙の中、小山内はいつか述べるつもりだったことを言った。


「あなた方の姿は普段は我々の言う影と変わらない姿をしている、とかでしょうか。ちなみにあなた方はそれを下に見られているようで嫌だと言いますが、我々にはそういうしか表現のしようがないのです。そこは許していただきたい。」


彼は怪訝な表情をしている。聡明な彼のことだ、嫌な気はするだろうがきっと許してくれるであろう。そう考えていると、彼は突然跳ね起きるようにして席を立つ。血相を変えた彼は小山内に詰め寄り、再び胸ぐらに掴みかかった。

そのまま壁に小山内を叩きつけた。小山内は何もわからぬまま硬直する。


「あなた方ってなんだよ。僕以外にも会ったってのか? もしかして、あの森に入ったんじゃないだろうな。どうなんだ!」

「は、入りましたよ! 他の方の姿も確認したかったんです。だからと言って危害を加えたわけでもありませんし、私以外誰も知りませんし! ただ対等に、対等に話し合いを……」

「なら、もっと知ってるよな? 僕らに関して。」


首元をぐりぐりと捻られる度に息が詰まる。小山内も抵抗しようとするが、とても細身の二十歳の力とは思えないほど強かった。一方的な攻勢で流石に疲れた小山内は、もはや平穏な話し合いを諦めていた。


「あ、あなた方の生殖?に関することは知ってますよ……。指と指を突き合わせて、そこから子供を生み出すんですよね? あれに関しては研究の余地があると……」

「他は!」

「影の姿の時は、影の中でしか過ごせないことも知ってます! だから姿を変化させて、別の実体になっているのではないのですか? あの……」

「他!」

「……もうありませんよ!」

「なら殺す!」

「本当にもう何も知りませんって! あと、私を殺したらここから一生出れないと思ってください! 扉を開けるにはパスコードが必要なのですから。」

「しらみ潰しに入れていけばいいだろう。」

「十桁入力、三回間違えれば永久に入力不可、パスコードは私しか知りません! そういう作りにしてもらったんです。殺すなら勝手にしてください。ですが、困るのはあなたです。」


そう言うと彼は冷静になり、おとなしく席に戻った。机に乗せた両手からは黒々とした何かが伸び縮みしていて、しっかりと録画に写っている。

小山内は襟を正し、一息つき、席に戻った。


「すぐ怒るのはやめてください。早くここから出たいのなら余計にです。」

「ちっ、あんたが奴らに何もしてないのはわかったよ。で、何聞きたいんだ。」


小山内はあらかじめ準備しておいた質問リストを冷静に一枚めくった。


「まず、あなた方の身体変化の能力についてお聞きしたいのですが。」

「ああ、ミメーシスのことだな。」

「なるほど、あれをミメーシスというんですね。一体なぜ姿を変えるのですか。」

「なぜって、あんたがさっき言った通りだよ。僕たちは影の中でしか生きられないから、日の下で生きるために、他の動物の姿になるんだ。ミメーシスができるのは二十になってからだがな。」

「なるほど、ですがなぜあなた方は日の下で生きる必要があるんでしょうか? 森の中にも影は多いですし、外に出ればあなたのように正体がバレる可能性も……」

「ああ? 僕が間抜けだとでも言いたいのか?」

「いえそんなことは……」

「もういい。」


彼の眉間に深いしわがはいる。苛立ちを隠す気は毛頭なさそうだった。ため息と共に煩わしげに理由を述べた。


「あえて僕らが日の下で生きる理由は子孫の拡散だ。ずっと同じ場所にいるのは子孫繁栄にふさわしくないってことでな。まあミメーシス反対派もいるが、寿命が伸びるから、ほとんどの奴は断りはしない。変化すれば最大五十まで生きられる。あんたらにとっては短いだろうがな。」

「最大と言いますと、やはり変化する対象によって寿命が違うとか?」

「ああ、そうだ。最近のツツガじゃあ猫だったり鳥だったりに変化する奴が多い。まあ小動物の類はせいぜい四十くらいにしかならんがな。」

「では、何に変化して五十まで生きられるのですか?」

「人間だ。」


小山内は今の情報をメモに書きつけた。これは大きな意味のある話であった。人間に変化したツツガは五十歳まで生きることができる、ということは、この人間社会にある程度順応する機会があるということを示しているからだ。


「ちなみに、どのように変化するのですか? ゆっくり体を変えていくとか、あるいは寄生するような感じか……口から入って、とか。」

「前者だな。まず、変化するモデルを決める。そのまま一、二分モデルを見ていれば、大抵は変化できるようになるな。そこから数ヶ月は変化期に入るんだが、その期間がまた辛い。」

「どういうところが辛いんですか?」

「体の痛みだ。変化するモデルが大きければ大きいほど痛みは激しくなるし、時間もかかる。人間になるのもなかなか骨が折れた。」

「なるほど……。」


小山内は質問リストをさらに捲る。

そこを見ると頭が少し痛んだ。さて質問していいものか。


「あの、ここからが本題なんですが……」

「早く話せ。」

「私があなたのことをだいぶ前からマークしていたことは、既に知っていると思います。」

「ああ、知ってる。なぜマークしてた?」

「それなんですが……」


小山内は唾を飲み、おぞましいあの光景を思い浮かべる。そして息を深く吸って言った。


「あなたが食べているところを見たのです。」

「何を?」


「……人間を。」


「……。」


陽光が窓から刺す中、彼の顔は翳っていた。


   ◆


講義室は冷笑に満ちていた。流れたのがなんとも愉快なコメディー映像であったからだ。

こんなに上手い話はあるわけないと相場が決まっているのである。

しかし、考えない人もいないわけではなかった。曲がりなりにも学者である小山内が、このような公の場であからさまな虚偽を流すだろうか。虚偽であればなぜ真実の証明に走ろうとするのか。現に彼は映像分析用のデータを希望者に配布していた。


「以上が私とドッペルゲンガー……いや、ツツガとの邂逅でした。」


小山内は随分と人の減った講義室内を眺めた。しかし、中には外国から来た学者も多くいた。内外問わず著名な人物もある程度は残ってくれている。

最後の言葉として、小山内は付け加えた。


「彼らに関する研究を私はこれからも続けていくつもりであります。なんせ対話がかなう存在ということですから、学者冥利に尽きる研究対象ということになりましょう。しかし、彼らは人間に危害を加える存在であることも確かです。実際人を殺しているのですから。」


この話を信じる物はいたのであろうか。


「ですが、そんな我々もツツガに対して反省の姿勢を見せなければならないのです。彼らは言っていました。人間が自然を破壊し、我々の安住の地が壊されていくのを何百年と見ていたと。それが原因で彼らも随分と苦労していたようです。要するにツツガと人間、お互いの印象が悪い状況にあると言えましょう。つまり、下手すれば戦争になりかねない、ということです。」


しかし、小山内は話を続けた。


「無論、ツツガのほうが弱者でありましょう。日の光に弱いこともハンデですし、私の仮説によると人工的な光にも弱いと思われます。だからといって彼らを滅ぼすのもいけない。「歴史の終わり」が見え始めた我々にとって、このような機会は貴重です。つまり、ここで初めて人間は、人間以外の知的生命体と交流する機会を持つ必要があるのであります。」


もはや誰も聞いていないようであった。


「時代は変わりつつあります。もはや賽は投げられたのです。しかし、賽の目が吉となるか、それとも凶となるか、その分水嶺は我々の活動次第であるのです。」


しかし、小山内は信じていた。


「できれば、またいつかお会いしましょう……。くれぐれもお体だけはお大事に……」


小山内はそういうと資料をまとめ、講義室を立ち去った。

残された人々も次第に散開した。


   ◆


さて、小山内の願いは聞き遂げられたようであった。

話を聞いていた学者らは連日泊まり込みで、フラクモの言っていた「森」とやらを面白半分に探し始めた。そして数日後、市内のとある鎮守の森を散策していた一団が、木陰の中で蠢くツツガの姿を見たのである。ただ、そこのツツガはカタピラ族ではないようで、フラクモのことは知らないようだった。


そこで学者らは小山内を招集し、共同研究を始めた。

ツツガは日本各地に存在しているという仮定が立てられ、全国の研究者が日本の森という森を歩き回った。すると思っていた通り、ツツガの全国的な分布が確認されたのである。

特に多かったのは北海道の山間部であった。どうやら人の手が入っていない場所をよく好むらしい。人のよく来る鎮守の森にいたツツガの一団のような例は、追い詰められた挙句の最終手段のようなものだとされた。研究者らは各地のツツガと交流を取ろうとし、それは比較的円滑に行われた。ちなみに、小山内の進言通り、相互の反省のもとに交流は行われたそうである。


このような経緯で日本ではツツガと人間の交流は盛んになり、それに際して互いに互いの尊厳を守るため、いくつかの約束が交わされた。この約束を「相互尊厳不可侵誓約」という。日本の人間とツツガは省略して「尊厳誓約」と言ったが、約束されたのは「ツツガの人類へのミメーシス禁止」や「森林の保護」に関することが主であった。


一方で世界各地でも続々とツツガが発見された。各国は日本の尊厳誓約をモデルに、人間とツツガの間に誓約を作り即座に協調を図ろうとした。しかし、上手くいかない国も多かったのである。

その一つであったアメリカでは、さまざまな運動が起こった。約定を重んじる国であるだけに、人間側に有利な約定を結ぶべきだとする「人間第一運動」がまず盛んに起こった。それに対抗するかのように動物愛護団体を筆頭とした集団が「協調運動」を起こすと、その二派による抗争が発生したのである。

この抗争は俗に「ツツガ抗争」と呼ばれ、数百人が死傷した。さらに酷いことに、その抗争にはツツガも巻き込まれたのである。


世界中でそれは巻き起こった。理由は様々だがツツガを排除するために、各地で過激派による森林伐採や高ルーメン光照射が行われ、局地的ではあるが、ツツガの持つ人間への印象は最悪のものになった。それが原因であろうか、政府の高官などが次々とツツガ優遇主義へと舵取りを始めたのである。


おそらく政府はツツガの影の中を移動できる特性や、特定の人物にとって代われる点を危惧しツツガを優遇しようとしたのであろう。しかし、その「ツツガ優遇計画」の採択こそが、優遇反対派にとってすれば「政権がツツガに取って代わられたことの証明」になり得たわけである。


無論、これはツツガ優遇反対派の勘違いである。しかし、一度生じた激流は止まることを知らなかった。

反対派はまず、政府の会議の場に武力で攻め入った。人間の尊厳を掲げ、政府官僚を殺害、あるいは高ルーメン光を数日にかけて照射して周り、もはや社会は秩序を維持できなかった。やがて軍隊や警察が自治を行い始めるが、そんな人々すら信用できぬようになる始末。その風潮はやがて世界的な大抗争を導き、一部国家のみがツツガとの共存を果たしたのである。


しかし、共存できた国は今度は荒れた地から流れてくる移民の問題に頭を悩ませた。中にはツツガの存在が今回の事態を引き起こしたとするものも多くおり、森林に火を放つものも現れ、死者すら出るほどであった。その様はまるで地獄そのものであったと言う―――。


   ◆


小山内は一人、山奥の研究所で思い悩んでいた。

国内でも反ツツガ勢力が盛行しつつある中、事態の発起人とされる小山内自身にも危険は及んでいたのだ。

ある時はメディアに殺害予告が届けられ、それが未遂に終わったかと思えば今度は自宅でボヤ騒ぎが起こった。我が身を案じ、しばらく大学に滞在させてもらうことにした。しかし今度は学生の身に危険が及んだため、小山内は所在を隠すようにして、学長の用意してくれた研究所に籠ることにしたのだ。


「異種の生物同士では共存は果たされないのか?」


そう小山内が考えていた頃、窓の隙間からツツガがするりと入ってきた。

やって来たのは外部の監視をしてくれていたツツガ一団の長である。彼らはツツガを守ろうと助力した小山内のために自警団を結成し、外部の不審な動きを逐一報告してくれているのだ。


「また、何か……ありましたか……」


そう聞く小山内の頬はコケ、黒く窪んでいた。目も暗く光はない。

髪もボサボサで、整える余裕もないのがよくわかる。

それを見た長は哀れに思い、遠慮がちに言う。


「博士さんや、ここもバレてますわ。山の麓でわしらの仲間があいつらを説得してる真っ最中ですから、逃げるなら今のうちでっせ。」


しかし、小山内は返事をしなかった。

小山内はこの落とし前をどうつけようか考えていた。おそらくは、我が身を顧みない方法も視野に入っている。

長は体を海坊主のような三次元体に変化させた。目をぱちくりさせながらカップを取り、台所にあったミルクを注ぐ。それを虚空を見つめる小山内の手に握らせた。

しかし小山内は呆然としたまま動かない。

煮え切らない小山内に痺れを切らした長は、口調を少し荒げて言った。


「……小山内さんよ。今更あんたに何ができると言うんや。」


「……何もできないとは薄々感じてます。ですが、私が発端になったことは間違いないですから……。」


「何か、手段はないものですかね……」


小山内が自嘲的に笑う。

それを見た長はううんと唸った。


「いいや、あんたが発端になったとは考えられんやろう。あんたが直接この騒動を煽動したわけやあるまいし。第一、事は勝手に一人歩きして起こったんでっしゃろ。」


確かに、小山内がこの騒動を煽動したわけではない。むしろ、騒動の発生をあらかじめ警告していた身である。

しかし、人間存続の危機を感じて発表を急いた面もあった。人間の尊厳をツツガに侵されているのなら、早々に二者間で平和的関係を講じるべきだと考えたのだ。


発表は時期尚早だったのか。いや、そもそも発表しない方が良かったのかもしれない。

我々は、今まで知らず知らずのうちに共存してきたではないか。

ツツガのネメーシスによる犠牲者も少なかったではないか。

私は、要らないことをしたのだろうか。


「小山内さん」


長が小山内に話しかける。柔らかな声だ。

それでいて、なにか覚悟を決めたような、芯の通ったような声音だった。


「わしらに、人間と戦わせてもらえませんでしょうか。」


小山内はゼリーのように揺れる長を見据える。

その目はどこか冷ややかな目だった。

しかし、長は滔々と述べ続ける。


「言ってませんでしたが、わしらツツガの意識下には、『情報共有庫』なるものがあるんです。そこに、各地に分布するツツガや、過去のツツガの記憶や経験が貯蔵されているんです。」


小山内は反応することもない。


「それを通じて、世界同時的に反旗を翻せば、我々はこの事態を収められる。そうは思いませんかね、小山内さん。」


「あなたは今、何を言っているのか、わかっているのですか。私に。」


小山内は怒り半分、呆れ半分で、長に問いかけた。

しかし長にはどこ行く風だった。


「だからあんたの指示を仰いでいるんじゃないですか。」


小山内は自身の遣る瀬無さに打ちひしがれた。白髪の多い髪を掻きむしると、毛がハラハラと落ちる。


長は小山内の顔色をうかがった。その目は血走り、幾筋もの涙が流れていた。唇は強く噛み締められ、血が滴るほどだった。鼻水も伸びているが、それを拭くこともない。ただ苦悶の念に駆られていた。肩が大きく上下に揺れる。

それでも小山内はやがて歩き出した。


  ◆


細身長身の男は力無くふらりふらりと揺れながら、避難路があるハッチに向かった。

ハッチの前に立つと男はしばらくそこで佇んだ。かと思うとこちらを振り返り、嗚咽を漏らしながら、最後の挨拶をした。


「……それでは、あなたに許可します。人間との戦いを。」


彼はこの場に似つかない満面の笑みを浮かべた。

その笑みはどこかおぼつかなかった。

精一杯のものだったのだろう。


「くれぐれも人類を、頼みます。」


それだけ言うと、彼はハッチを降りて行った。

ハッチは埃を立て、パタンと閉まる。


   ◆


どうやら説得は失敗したらしい。仲間のツツガは撤退した。彼らの情報によると、人間はここを目指し歩いているらしい。

得物はバットと懐中電灯。そんなものが本当に効くと思っているのだろうか。

 


彼は姿を溶かし、影に紛れる。

光は今、着々と近づいて来る。

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