第14話 強くなっていく家族の絆

「あなた、心配事でもあるの?」


 ミヅキの声にハッとする。


「お父さん、お仕事のこと考えているの?」


 カレンが食事の手を休める。


「ああ、すまん。ぼうっとしていた。休み明けに会議があるから。報告する内容は決まっているのだが、ちょっと調べておきたいことがあってだな」


 もちろん安心させるための方便である。

 サダオの頭の中はロングコートの人物でいっぱいだった。


 サダオは母と別れた後、温泉施設まで戻ってきた。

 ミヅキとカレンには何も話していないから、サダオが長風呂したくらいに思っている。


 二人は楽しそうにしているが、カレンが通り魔に刺されかけた一件を忘れたわけじゃない。

 ミヅキなんて毎日のように心配を口にしている。


 せめて娘の前でくらい気丈な母を演じたい。

 笑顔の裏に健気な願いがあることを、サダオは知っていた。


 カレンのメンタル面も心配だ。

 特に変わった様子はないのだが、逆にサダオの不安を煽ってくる。


 あっ! といってカレンがイチゴミルクをこぼした。

 ミヅキが慌てておしぼりで拭いてあげる。


「借りた浴衣、汚しちゃった」

「大丈夫よ。お店の人に言ったら新しいのを貸してくれるから。お願いしてみましょう」


 ドロッとしたイチゴが血液に思えて、まるでカレンの死を予言しているみたいで、サダオの胸を痛くさせた。

 一回カレンが死んだというトラウマは消えていない。


 ここは夢の世界じゃないかと思うことが時々ある。

 本当のサダオは長い眠りについていて、幻想の世界に閉じこもっているのではないかと。


 俗に言う胡蝶の夢というやつだ。

 似たような設定の映画を何回か観たことがある。


 起きたらカレンも母も死んでいるかもしれない。

 ニュースで見かける遺族の気持ちというやつが、少しは分かった気がした。


 ミヅキとカレンが退席している間に親子丼の残りを食べ切った。


 弱気になってどうする。

 一家の大黒柱じゃないか。

 自分を鼓舞するように頬っぺたを二回叩く。


 犯人を二回も取り逃したが、二回とも勝ちはしている。

 向こうが対策してくる可能性はあるが、それならサダオは対策の対策をすればいい。


 気持ちを一新させたサダオは、心ゆくまで温泉を楽しんでから、ミヅキとカレンを家まで連れて帰った。


 ……。

 …………。


 サダオには致命的に欠けているものがある。


 筋肉と体力だ。

 犯人と殴り合いになり、最後は追跡するのだが、あと一歩で逃してしまう。


 フィジカル面での差を認めないわけにはいかない。

 今からトレーニングして間に合うのか不明だし、三十七歳という年齢も気になったが、何もしないのは我慢できなかった。


「あなた、物置なんて漁ってどうしたの?」

「あった」


 サダオが引っ張り出したのは、十年くらい前に購入したダンベルである。

 当時の健康診断で引っかかって、肉体を改造しなければと思ったのだが、いきなりジムに通うのは腰が引けたので、トレーニング器具を買うところから着手したのだ。


 ダンベルは留め具の部分が錆びているが、自分がトレーニングする分には問題ないだろう。

 これで上半身を鍛えて、ジョギングで下半身も鍛える。

 桜庭サダオ、肉体改造計画の始まりである。


 トレーニング一日目でさっそく筋肉痛になった。

 三日休むと筋肉痛が消えたので、トレーニングを再開させてみたのだが、また筋肉痛になってしまう。


 でも最初より痛みが軽い。

 スタミナが若干増えたという自覚もある。


 食事面の見直しも忘れなかった。

 昼食はなるべく脂っこい料理を控えて、卵やブロッコリーを積極的に食べることで、栄養面でのケアも抜かりない。


 トレーニング中は犯人のことを考えるようにしている。


 あいつをぶっ飛ばす。

 顔面にパンチを叩き込む。

 戦いのシーンを想像すると、自分でもびっくりするくらいのパワーが出た。


 サダオは自分で立てた計画を着々とこなしていくのが得意だ。

 明日は六十分トレーニングすると決めたら六十分やる。

 雨が降ろうが、風が強かろうが、サボりはしない。


 トレーニングには思わぬ副作用もあった。


「桜庭さん、最近やる気に満ちていますね」


 後輩から変化を指摘されたのである。

 はたから見ても分かるくらいサダオの目つきと顔つきが変わって、姿勢も良くなったらしい。


「ああ、そうだな。最近トレーニングしているんだ。肉体を動かすようになってから、毎晩の寝つきが良くなった気がする」

「へぇ〜。でも、健康診断が悪かったとかじゃないですよね。何か心境の変化でもあったのですか?」


 まさか家族の命が狙われているとは言えないから、


「久しぶりに古い友達に会ってだな。昔に一緒の部活だったやつだ。そいつが筋骨隆々の体つきになっていて、お陰で転職活動も上手くいったらしいから、恩恵にあやかろうと思った」


 ともっともらしい嘘をついておいた。


「まさか桜庭さん、転職する気じゃないでしょうね」

「バカ、俺なんかが転職しても、同じ給料出してくれる会社なんて無いだろう」

「ですよね。うちの会社って恵まれていますよね。中堅かそれ以下の社員にも優しいっていうか。誰でも一定の活躍ができる場を用意してくれるっていうか」


 チャイムが鳴ったので仕事に戻る。

 後輩から褒められたのが嬉しくて、仕事のモチベーションアップにも繋がった。


 筋トレに励む父というのは、娘から見ても悪くないらしい。

 お父さん、がんばれ〜、と応援してくれる。


 ミヅキの口からも『家族を守るためにお父さんは自分の体を鍛えているのよ』と説明しているらしく、桜庭家の絆はピークを迎えていた。


 帰ったら今日もジョギングで汗を流そう。

 プロテインを購入してもいい頃合いかもしれない。

 自分が成長しているという実感は、お金に替え難い喜びをもたらしてくれた。


 前向きな気持ちで会社を出た時、スマホが揺れた。

 発信元が実家だったので、小首をかしげてしまう。


「俺だけれども……」

「サダオ、忙しいところ悪いねぇ。今日の午後、修理屋さんがきてくれてね……」


 玄関の建て付けが悪くなっていた件について、リフォーム業者に修理をお願いしたのである。


 一回目は下調べのために来てくれて、費用の見積もりと修理の予定日を教えてくれた。

 二回目の今日に修理が終わったのである。


「楽に開け閉めできるようになったよ。ありがとう。サダオには真っ先に連絡しておきたくてね。この後、ミヅキさんにも連絡したいのだけれども、もう帰っているかしら?」

「そうだな。今日はミヅキ、早いと思う。家に電話したら出てくれるよ」

「は〜い」


 母の声は底抜けに明るくて、玄関が直ったのを本当に喜んでいるのが伝わってきた。


 自分の人生が良化していく。

 確かな感触があった。


 ……。

 …………。


 ロングコートの人物がサダオの前に姿を見せなくなって一ヶ月が過ぎた。

 通り魔事件については今なお捜査が行われており、注意を喚起するポスターが街のあちこちに貼られている。


 その日、ジョギングから帰ってくるとリビングの机に封筒が置かれてあった。


「あなた宛の郵便物よ」

「おう、ありがとう」


 一通は保険会社から。

 満期になったら少額返ってくるやつで、一年に一回こうして契約状況の通知が届く。


 もう一通の茶封筒には差出人の名前がなかった。

 黒のボールペンで『桜庭サダオ様へ』と書かれている。


 露骨に怪しい。

 切手が貼られていないから直接郵便受けに投げ込んだのだろう。


 サダオはいったんシャワーを浴びて、それから作業部屋に篭ると、ゆっくりした手つきで封筒を開けた。


 折り畳まれた紙が一枚出てくる。

 パソコンで作ったであろう文字で、


『桜庭家は殺人鬼フィクサーに狙われている。あいつは何回でもやって来る。家族を守れるのは桜庭サダオ、お前だけだ。お前だけが何回だって時をやり直せる』


 と書かれていた。

 わざわざ注意喚起されなくてもサダオ一家が狙われていることは自覚している。

 だから日々のトレーニングを続けている。


 殺人鬼フィクサーというのか?

 あちこちで殺しを働いているというのか?


 差出人の正体も気になる。

 サダオのような被害者がいて、殺人鬼フィクサーを追いかけているのか。


 あるいは犯人の悪戯だろうか。

 サダオを動揺させて楽しんでいる可能性も否定できない。


 無視できないのは『時をやり直せる』の部分だ。


 この人物はサダオに特殊な力があることを知っている。

 おそらく能力を駆使してカレンと母を守ったことも知っている。


 もしかして『タイム・リープ』は人為的に生み出されたというのか。

 何のために? 殺人鬼フィクサーと戦うために?


 分からない。

 いくら推理しても可能性の糸は無限に広がっていく。


 サダオが断言できるのは、

『殺人鬼フィクサーがいる』

『サダオには時をやり直す力がある』

『その二点を把握している何者かがいる』

 という事実だけ。


 もっとも気になる部分、

『なぜ殺人鬼フィクサーはサダオの家族を殺しに来るのか?』

 という点には触れられていない。


 殺人鬼フィクサーはサダオの能力を恐れているのか?


 いや、あり得ない。

 そうならカレンや母じゃなくサダオが一番に狙われたはず。


「何がしたいんだ、こいつは」


 サダオは宙に視線を彷徨さまよわせて、指でデスクをトントンした。

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