第7話 スーパー父さん、サダオ

 これでお前の人生はお終いだ!


 長かったサダオの追跡は予期せぬ結末を迎えた。

 もう一歩で手の届きそうだった犯人が、蒸発するように消えたのである。


 袋小路に入っていき、突き当たりまで歩いてみた。

 サダオの身長より高いブロック塀が待っていた。


「そんなバカな……」


 気配がない。

 人はおろか、犬猫一匹すらいない。


 道の幅は一メートルしかなくて、人と人がすれ違うのに苦労するレベルだ。


 左右のマンションもチェックしてみた。

 片方は完全にコンクリートの壁となっている。

 もう片方には小さな窓が付いているが、地上から四メートルくらいの高さだ。


 ザラザラした壁に触れてみた。

 ロッククライマーのような肉体がない限り、コンクリートの絶壁は登れないだろう。


 呆然とするサダオのうなじを冷たい風がなでる。


 犯人のナイフを見て、カレンは大きく叫んだ。

 主婦の自転車も突き飛ばしていった。

 つまり幻や幽霊じゃない。


 マジシャンみたいに瞬間移動したというのか。

 この袋小路に何らかのトリックを仕掛けていた可能性は否定できないが、一回だけ振り返った犯人の目つきは、サダオの追尾に焦っているように思えた。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 気が抜けた反動なのか、急に呼吸が苦しくなる。

 四百メートルくらい全力疾走したせいだ。

 喉の奥が火傷したみたいに熱い。


 それよりもカレンだ。

 犯人が逃走中である以上、安全を確かめておきたい。


「お父さ〜ん!」


 サダオが橋のところまで戻ってくると、カレンが手を振りながら近づいてきた。

 もう片方の手に握られているスマホは通話中になっており、ずっと警察の人と会話していたらしい。


「お父さんが戻ってきました!」


 カレンが通話口に話しかけてから、スマホごとサダオに押し付けてきた。


「すみません、電話を代わりました。父です。さっき犯人を追いかけたのですが……。住宅街で見失ってしまって……。いえ、怪我とかはありません。久しぶりに全力疾走したので、酸欠みたいな状態になってしまって……。すみません、不審者を逃してしまって」


 もう少しで警察官が現場に到着するらしい。

 一分もしない内に自転車に乗った二人組がやってきて、今回の捜査がスタートした。


「刃物を持った人物を目撃したというのは、この道路で間違いないでしょうか?」


 サダオは確かな声で、そうです、と返しておいた。


 ……。

 …………。


 不謹慎な話かもしれないが、警察の捜査に協力する時間は楽しかった。


「ここで犯人と睨み合いになったのです。向こうが手にナイフを持っていたので、とっさに杖で弾きました」


 サダオはそのシーンを再現する。

 警察官が懐中電灯で川を照らすと、水底に沈んでいたナイフを発見できた。


「犯人の手から武器を奪うなんてお見事ですね」

「娘を守るために必死でしたから」


 警察官は何かメモを取ってから眼鏡の位置を直した。


「ちなみに杖はいつも携帯されているのですか? それとも足腰に不安を抱えておられるのですか?」

「これは……」


 言い訳を考えていなかった。

 三十代のサラリーマンが杖を持ち歩くなんて、自然といえば自然じゃない。


「最近、不審者が多いですから。護身用です。まさか役に立つなんて、嬉しい誤算というやつです」

「なるほど」


 警察官がメモに何か追記する。


 それから犯人の特徴を聞かれた。

 ロングコート、革手袋、白いマスク、黒っぽいマフラー、帽子など。

 性別は分からないと答えておいた。


「髪の毛がちょっと長かったです」

「髪の毛が?」

「前髪が目にかかっている感じです。そのせいで年齢はよく分かりませんでした。眉毛は太かった気がしますが、はっきりとは覚えていません」


 警察官がペンのお尻であごをツンツンしている。


「詳細な情報、ありがとうございます。我々の方でも重点的に捜査してみます」


 いったんカレンを家に帰して、犯人の逃走ルートも伝えておいた。

 道を曲がって、曲がって、曲がって、曲がって……。


 やがて袋小路にたどり着く。

 サダオは苦々しい思いで小道を指差した。


「信じてくれなくてもいいですが、確かに犯人はここに逃げ込んだのです。でも、私が追いかけたら姿が消えていました。二人の距離は二メートルとか三メートルしか離れていなかったのです。それなのに犯人を見失ったのです」

「消えた……ですか。それは不思議ですね」

「ええ、手品みたいに、パッと」

「その瞬間を他に見ていた人は?」

「もちろん、いません」

「ですよね」


 警察官は突き当たりまで行き、サダオと同じように頭上を確かめてから戻ってくる。


「いや〜、不思議ですね〜。急に消えたわけですね〜」


 メモに何かを足している。

 この点について、サダオは頭がおかしい奴と思われても仕方ない。


「そういえば、自転車に乗った主婦の方を、その犯人は突き飛ばしていったと?」

「そうです。自転車の前カゴにスーパーの袋が入っていました。おそらく近所の住人です」

「なるほど。貴重な目撃者ですから、我々の方でも探してみます」


 犯人の逃走経路にコンビニが一件あった。

 サダオから逃げる犯人の様子がカメラに映っているはずだから、後でお店に提供してもらうそうだ。


「個人情報に誤りがないか、念のため確認いただけないでしょうか?」


 サダオの氏名、年齢、住所、電話番号に間違いがないことを確かめてからクリップボードを返した。

 もし捜査に進展があったら一報くれるらしい。


「これは奥様にも確認してほしいのですが、何者かに恨まれるような覚えや、過去にトラブルを起こした相手はいませんか?」

「ないですね。まったく心当たりがないです。うちの親が近くに住んでいて、念のため聞いてみますが、この近所でトラブルを起こしたことは一度もありません。私はサラリーマンですし、仕事で恨まれることもないと思います」

「そうですか」


 警察官は弱ったように眉毛をこする。


「隣の自治体で刃物による切りつけ事件があったじゃないですか。やっぱり犯人は同一人物でしょうか?」

「その可能性は高いと思います。ですが、断定はできませんね。通り魔事件が起こると、模倣してみようという輩が出る場合もあります。報道されている犯人像を知って、わざと真似してみた可能性もあります」

「ありそうな話ですね」


 いずれにしても犯人は逃走中である。

 再度カレンを狙いにくる可能性がある以上、ミヅキとカレンの身の安全には十分すぎるほど気をつけた方が良さそうだ。


 ……。

 …………。


 その夜、ニュース番組にサダオが登場した。


『小学生の女の子が家に帰る途中、刃物を持った不審な人物に切りつけられそうになる事件がありました……』


 画面が切り替わり、橋と小川が映し出される。


『この地区に住む小学五年生の女の子が、背後から近づいてきた不審な人物に切り付けられそうになりました。幸いなことに、現場には女の子の父親がいて、ナイフを持った不審者に応戦しました。不審者は所持していたナイフを落としたのち、逃走していったとのことです。女の子と父親の証言によりますと、不審者の身長は百七十センチ前半、茶色のロングコートを着ていて……』


 続いてサダオの首から下が映される。


『犯人は無言でしたね。私の目の前でナイフを構えて、娘を切りつけようとしました。殺される! と思った瞬間には反撃していました。犯人の雰囲気が尋常じゃないというか、行動に迷いがない感じでした。そんな人間が近くに住んでいるのかと思うと、ぞっとしますね』


 声を加工するか聞かれたが、そのままでいいです、と答えておいた。

 どうせ社内でもバレることだ。

 隠しても仕方ない。


 同じニュースはネット上にも転がっており、日本中から注目を集めていた。


『娘を愛する父親、刃物を持った不審者に立ち向かう』


 悪くないタイトルだと思う。

 サダオが杖を持っていたとは一言も書かれていないから、何も知らない人間が読んだら、素手で戦ったと勘違いするだろう。


 コメント欄もチェックしてみた。


『この父さん、強すぎだろ』

『野生の動物も人間も、子供を守る時が強い』

『この犯人、狙う相手を完全に間違えちゃったな』


 ニヤニヤが止まらなくなる。

 一生に一回くらい日本中から注目されるのも悪くない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る