第25話

 ──七月も残り少なくなって、大規模侵攻の期間が目に見えるほど近づいてきた。そんな中で『上代かみしろ 兎歌とか』は、変わらず中等部と高等部を往き来する生活をしていた。


 しかしながら、自分が属するグループである『勉強会』の『ペガサス』たちに敬愛する先輩である『喜渡きわたり 愛奈えな』が生きていること、そして活性化率を下げられる人型プレデターの存在などを秘密にしている罪悪感から、中等部区画に居ることが耐えられなくて、最近では暇な時間を『生活区画エリア』にて消費していた。


 ──『勉強会』では、中等部二年先輩の『戌成いぬなり ハルナ』を筆頭に、大規模侵攻に備えての訓練や準備が着実に行なわれている。愛奈えな先輩が“卒業”してしまったからこそ気張るハルナに、他の一年ペガサスも影響を受けているようで、“みんな自分なりに”前向きになっているように見えた。


 だからこそ兎歌の気分は重くなる一方で、最近では中等部に長時間居るだけでも、あまりの気持ち悪さに便器に顔を埋めるようになってしまい、かと言って高等部に足繁く通ってしまえば、変に先輩たちに甘えてしまいそうだと、自分の所為で秘密がバレてしまうかもしれないと怖くて、悩んだあげく今日もまた誰もいない場所にて、ぐるぐると夕暮れまで散歩をし続ける。


「……あの、なにか私に用事が?」

「ないよ。兎歌の行くところに付いて行っているだけ」

「そ、そうなんですね」


 ──ただ、いつもと違うことがあり、それは中等部二年先輩の『夏相なつあい申姫しんき』が、黙々と何も言わず三歩後ろ隣を歩いている事で、兎歌は一時間ぐらいした所で我慢できず自分のほうから話しかけた。


「……どうして付いてくるんですか?」

「兎歌の様子がおかしいから、気になって様子を見ていたの」

「そ、それは……」

「最初は愛奈先輩が“卒業”したからだと思っていたけど……理由はそれじゃないの?」


 ──聞かれたから気になっている事を口にした。それぐらいド直球で放たれた図星に対して、兎歌は嘘も誤魔化しもできず、ただ口を閉ざして固まる。


「言えないのは誰かに脅されているから? それとも私たち『勉強会』に何かしらの原因があるから?」

「違いますッ!」


 ──勝手に否定の言葉を叫んだ己の口を慌てて閉じる。兎歌は恐る恐る申姫を見るが変わらず無感情な眼でこちらを見ているだけで、何を考えているのか分からなかった。


「……どっちも……違います」


 元から嘘も隠し事も苦手な兎歌、上手い言い訳も思い浮かばず、否定を繰り返すことしかできなかった。


「……兎歌、貴女はあの日から何を抱え込んだの?」


 もうここまでバレているなら、なんて甘ったれた感情を飲むのに必死で、兎歌は黙秘する事しかできなかった。顔を逸らす兎歌を申姫はじっと見つめる。


「……分かった。兎歌が話してくれるまで、もうなにも聞かない。だから、そんな泣きそうな顔をしないで……ごめんなさい、私はやっぱり愛奈先輩のようにできないみたい」

「申姫先輩……」


 愛奈は、持ち前の他人に対しての勘の良さを兎歌たち後輩にも発揮しており、抱える悩みごとや不安を感知しては話しかけていた。きちんと解決できるかは各々によって差はあったものの、自分を見てくれる、理解してくれる、話を聞いてくれて親身になってくれている、真剣に考えてくれると、『勉強会』の『ペガサス』にとって、愛奈は確かな心の支えとなっていた。


 ──申姫先輩は、そんな愛奈先輩のように後輩の苦悩を察知して、解決してくれようとした事に気づき、兎歌は心を締め付けられる。


 無表情であるが、どこか申し訳無さそうにする申姫。彼女になら高等部の秘密を話しても大丈夫だと、心の中の自分が囁く──それを止めたのは、申姫本人だった。


「……ねえ、兎歌が良ければだけど、少し買い物に付き合ってくれない?」

「え? あ、はい……。だ、大丈夫です」


 突然の提案に兎歌は反射的に了承してから、申姫先輩なりの気遣いだと察するが、もう応えてしまった以上なにもできないと、なりゆきに身を任せることにした。


「貴女も隠れていないで出てきたら?」

「え? わっ!? ……と、酉子ちゃん!?」

「見つかるとは思わなかったの」

「ずっと強い視線を感じていたから」


 同じ寮部屋で暮らす友達であり、『勉強会』に属するペガサスの『玄純くろずみ酉子とりこ』が、物陰から何食わぬ顔で出てきた。


「い、いつから居たの?」

「ずっと前から」

「そ、そうなんだ……え? もしかして数日前から……? と、酉子ちゃん、どうして隠れてわたしの事を見ていたの?」


 ──自分が『生活区画エリア』を当てもなくぶらつき始めた頃から、隠れて付いてきたのかという疑問もあったが、そちらは、あまりにも怖くて聞けなかった。


「心配だったから、こっそり陰で見つめていたの」

「……そうなんだ……」


 日によっては数時間も気配を消して自分の傍に居たという恐怖が勝り、ひとり言など声に出した覚えがなく、秘密とかは知られていないと無理矢理に自分を納得させて、酉子のストーカー行為に関して、これ以上触れないことにした。


「…………」

「…………」

「…………えっと……行きましょう!」


 誘われた側の酉子はともかく、誘った側の申姫も棒立ちのまま動きそうに無かったので、何故か兎歌が仕切る形で、移動を開始する。


 +++


 『生活区画エリア』は全体的に中等部区画に合わせたデザインとなっており、ヨーロッパ風の建築物にAI機器をはじめとした近代技術が混じって稼働している。道のひび割れたレンガを新しいものへと交換する、恐らくそれだけのために作られた小型ロボットが、兎歌は可愛くて好きだった。


 そんな『生活区画エリア』にある、商店街区画と呼ばれる場所では、毎月支給される電子マネーにて物品を購入できる店が建ち並んでおり、アルテミス女学園ペガサスであれば誰しもが必ず通うことになるここは、もっとも人間である事を感じられる場所とも呼ばれている。


「──ここは主に西洋風の雑貨とかを扱っている店で、お皿のデザインが気に入って、それからは台所に関係するものは、いつもここで買っているんです」


 買い物に付き合ってと言ったのは申姫であったが、兎歌に気を遣っての思いつきによる発言だったため、どこへ行くのかと尋ねられても答えられなかった。なので逆に兎歌がフォローする形で、行きつけのブランドショップへと行く事となった。


 横並びで歩く兎歌と申姫、その後ろを酉子が着いていく形で店の中に入る。酉子は兎歌以外の『ペガサス』が居る時は基本的にだんまりを決め込み、また気配を消す。そのため、兎歌はちゃんと彼女が付いてきているのか分からなくなる時があり、定期的に後ろを振り向いて確認する。


「ここに来るのも久しぶりね」

「申姫先輩も、ここで買い物を?」

「ハルナの付き添いでね。私から商品を買った事は無いよ」

「気に入るものが無かったんですか? それでしたら違う店のほうがいいですよね……」


 他にどこか良いところは無かったかと悩む兎歌に、申姫先輩は首を横に振るって否定する。


「店を気に入るとか以前に、物自体にあまり興味が持てなくて……」

「そ、そうなんですね……」


 ──自分を想っての言葉だったことは百も承知だが、よりにもよって、どうして買い物に誘ったんだろうと、兎歌は疑問を抱かずには居られなかった。


「ハルナには、自分で考えなさいって何時も怒られるんだけどね」

「あはは……目に浮かびます」


 ──ハルナ先輩に怒鳴られる申姫先輩。そんな何時もの光景を想像した兎歌は、心の底から苦笑する。


 申姫の傍には常にハルナがおり、いつもならハルナが主体で話が進むため、兎歌にとって申姫と直接対話するのは、はじめての事だった。自分の知らなかった先輩の姿にふれつつ、ほんの少し軽くなった足取りで店内を移動する。


「……あ、この水筒、ハルナが遠出に必要になるって買ってくれたものだ」

「あ、かわいい。ハルナ先輩ってこういうの好きなんですねー」

「このマグカップも部屋でジュースを飲むために必要って買ってきてくれたものだ」

「へー……」

「この箸も、皿も、ハルナが買って来たのと一緒だ」

「…………」


 ──恐らく物に興味が無い申姫先輩の代わりに、ハルナ先輩が必要な物を買っているのだろう。それは分かったが、先ほどから生活必需品を見てはハルナが買ってきてくれたと言う申姫先輩に、兎歌は心配を通り越して恐怖を覚えはじめる。


 そんな兎歌の心境を置いてきぼりにしながら、申姫は、あれもこれも“ハルナが”と言いながら商品を見ていき、そして、違うコーナーのある物に気付いて人差し指を向けた。


「あの下着もハルナが買ってくれたものだ」

「下着は自分で買いませんか!? ……ちょっと待ってください、ハルナさんが買ってくる前はどうしてたんですか?」

「必要無いと思って」

「ありますよ!? わたしたちスカートなんですよ!?」


 アルテミス女学園制服のスカートは、一般人が着用するものと比べて頑丈ゆえに重く、多少の風でもビクともしないのだが、戦闘など激しく動けば、それなりに広がる事もある。


「ハルナと同じこと言うんだね」

「誰だって同じこと言うと思います……。ハルナ先輩も驚いたんじゃないですか?」

「驚きはしなかったけど、本気で理解できないって感じの顔はされた」

「……それは……そうですね。わたしも理解できていません」


 ──無頓着というレベルを通り越している気がする。もしかしたら、いま申姫先輩がまともに見えているのはハルナ先輩のおかげではと兎歌の中で疑問が生まれた。


「……その、日頃のお礼にハルナ先輩に何か買っていきませんか?」

「……そうだね」


 申姫も思うところがあったのか兎歌の提案に肯定し、上着などのポケットをまさぐる。しかし、なにも出ることは無かった。


「……ごめんなさい、私のマネーカード、ハルナに預けていたの忘れてた」

「わたしがお金出しますんで! ……あ、わたしももう残高が……酉子ちゃん! お金貸して!」

「幾らでも使ってくれなの、なんなら兎歌が望むならカードをプレゼントフォーユーなの」

「後でちゃんと返すよ」


 ──ちなみにハルナが、申姫のマネーカードを預かっているのは代わりに彼女の買い物をするからというのもあるが、無頓着すぎて、適当に保管しては、どこにいったか分からなくなることが多かったからである。


「私だとなに買っていいかわからないから兎歌が選んでよ」

「……駄目です。今回は申姫先輩からハルナ先輩への日頃のお礼なので、申姫先輩が選ぶべきです」


 ──口にしたことは決して嘘ではない。しかし、兎歌は今の自分が感謝の気持ちを表わす贈り物を選べる資格があるとは到底思えなかった。


「でも、なにを選んでいいか分からない」

「ハルナ先輩なら、なにを贈っても喜ぶと思います」

「喜んでくれるとは思うけど顔には出るよ」

「……わたしも考えますから!」


 そうやって始まったハルナへの贈り物選びは、自分でまともに買い物をした事がないためか、店の中でもっとも高いものを買おうとしたり、逆に手当たり次第に買い物カゴに入れようとしたりと奇行に走る申姫を、兎歌が必死で止めることから始まった。


 このままでは駄目だと早々に悟った兎歌は高等部先輩が人型プレデターにしたように、とにかく質問を重ねて候補を絞っていく事にした。


「──ハルナ先輩はお風呂が好きなんですね」

「好きかは分からないけど、毎日意地でも入っているよ」

「そ、それなら、石けんとか良いかもしれないですね……あ」


 ──そろそろ、買う物が決まりそうというタイミングで、ばったり出くわしたのは自分たちと同じく中等部制服を着た三名の『ペガサス』。


「おー、兎歌じゃん。お前も買い物か?」

「あぅ……えっと、久しぶり……」


 ──その内の二名は顔見知りで、『勉強会』に“属していた”同級生だった。申姫も酉子も気付いたのだが、リアクションが薄い二人は表面上どう思っているのか分からず、兎歌は気まずさのあまり、返事ができなかった。


「久しぶりって丑錬うしね。このあいだ一緒に飯食いに行ったばかりだろ?」

「だってぇ、どう声を掛けていいか分からなかったんだもん……亜寅あとらは凄いね」

「これぐらい普通だっての」


 ──身長134cmと中等部一年の中では最低身長でありながらも、見るからに強気な性格である『亜寅アトラ』。そして、身長175cmで最高身長ながら見るからに気弱な性格をしている『丑錬うしね』。


「ふたりとも相変わらずだね。そっちはもう慣れた?」

「まあ、慣れたと言えば慣れたけど仲良くは出来てねぇな。やっぱりみんな大規模侵攻を前にして苛ついてて新参者に構ってる余裕はないって感じだわ」

「ぅん……みんな怖くて、話しかけても無視されて辛い……」

「お前の場合は声がちいせぇだけってのは確実にあるけどなー」

「もぅ、そんなこと言わないでよぅ」


 そんなあべこべコンビと呼ぶに相応しい二名は、少し前に『勉強会』を離れて別のグループで活動していた。


 ──『勉強会』は、喜渡愛奈の元へと集まった『ペガサス』が成り行きのままグループ化しただけの集団だけあって、組織と呼ぶには問題を多く抱えている。その最たる物が十人にも満たない人数で、上級生が中等部二年のハルナと申姫の二名のみ。当時、愛奈も人数の少なさに関しては問題視しており、頭を悩ませていた。


 当然ではあるが、命が掛かった戦闘が発生する大規模侵攻において、問題の数が多ければ多いほど“卒業”率は高くなる。亜寅は、『勉強会』が抱え込んでいる問題点の多さから、別のグループへの移動を考えている事をみんなに打ち明けて、幼馴染みである丑錬と共に有言実行を果たした。


 ──黙って去ってもよかっただろうに、事前に自分の考えをみんなに打ち明けた亜寅。そんな彼女に言える権利はないと秘密を抱えた兎歌は反対することができず彼女たちの事を見送った。止められなかった、もっとも安全なのは『勉強会自分たち』ではないかという事を言えず。


 そうする事しかできなかったゆえの肯定的な態度が、功を奏したと言えばいいのか、亜寅と丑錬はグループ移動した後のほうが兎歌を気に掛けており、数日前には誘われて一緒にご飯を食べたりもした。


「同学年の連中も上に当てられてか、どうにも大規模侵攻で緊張しまくってる感じだ。こっちまで吐きそうになる」

「だ、だいじょうぶなの?」

「あー。正直いってあんまり大丈夫じゃねぇかも……つっても、戦力も揃ってるし、やっぱり三年先輩たちが別格っぽいんだわ……兎歌、今からでもこっちのグループに来ないか?」

「……わたしは……行けないよ」


 何度目かの亜寅の勧誘に、兎歌はいつものように断わりを入れる。いつもなら、もう少し粘られるだけで終わるやりとりであったが、流石に無視できなかったのだろう、申姫が亜寅の前に出た。


「やめて。兎歌を三年ペガサスのグループに誘わないで」

「申姫先輩……別に兎歌だけじゃなくて、後で『勉強会』のみんなにも……」

「そういうことじゃないの。兎歌が三年先輩にどう言われているか知らないわけじゃないでしょ?」

「それを承知で誘ってるんですよ! ただ形だけでもグループに入っていれば色々と便利だと思って……」

「そんな簡単な話じゃないよ。亜寅たちのほうこそ、今からでもこっちに戻ってきたほうがいい」

「し、申姫先輩! わたしは『勉強会』を離れるつもりはありませんから落ち着いてください!」


 剣呑な雰囲気になる亜寅と申姫に、このままでは行けないと兎歌が自分の意志を伝えて場を収めようとする。


「……いちど」

「丑錬ちゃん?」

「グループのリーダー……猫都ねこみや先輩と会わない? ……あぅ、えっと……よければだけど」

「そ、そうだな! ワタシたちも今から会いに行くつもりだったんだよ。そのついでっつーか、一緒に来ないか?」

「亜寅、やめてって言ってるでしょ?」

「ワタシは兎歌に聞いてるんです!」


 丑錬うしねの提案に亜寅あとらが乗っかる形で勧めてくる。申姫しんきが制止させようとするが、強引に兎歌とかに判断を委ねさせる。酉子とりこは、その様子を何時もの調子で黙って見ていた。


「……なにか大事な用事があって会いにいくんじゃないの?」

「そこまでのものじゃねぇよ。こいつが会いたいって言うから案内するんだ」


 拒絶的な問い掛けに、亜寅はようやく、後ろでじっとこちらを見ていた三人目の中等部制服を着ている『ペガサス』を紹介する。放置してしまった申し訳なさを感じつつ兎歌は彼女を見た──。


「──え゙っ!?」

「うお!? どうした!?」

「な、なんでもないです!」


 意識が逸れていたからか、それともあちらが気配を消していたからか、兎歌は中等部制服を着ている『ペガサス』が、自分の知人である事に気付いた。


 ──自身と1cmしか身長が変わらない。小柄でプラチナヘアーの彼女に近づき恐る恐る声を掛ける。


「な、何やってるんですか? ……きょうちゃん」

「単なる買い物だった!」

「……過去形なんですね」


 絶対嘘だと思いながらも、みんながいるため指摘するわけにも行かず。兎歌は微妙な返事しかできなかった。


「とかりんとこうして会ったのも何かの縁! 中等部三年に会いに行こうよ」


 ──そう言って笑う“高等部二年ペガサス”『白銀しろがね 響生ひびき』に、兎歌は断わることができなかった。


 +++


 ──亜寅の案内によって、兎歌たちは中等部区画の予備校舎へと来ていた。本校舎と比べればシンプルで控えめなこの建物は、名前の通り本校舎が使用できなくなった時、代わりとして使う事を想定して建築された物である。


 あくまで予備であった建物であるが、現在ではグループや同じ趣味を持つ中等部ペガサスたちの憩いの場となっており、現在ではグループ棟あるいは部室棟などの呼び名が定着している。


「にしても、お前たち知り合いだったんだなー」

「そうだよ! 最近ともだちになったんだ! ねぇ~」

「そうですね……」

「ぅん? 兎歌ちゃんどうしたの?」

「なんでもないよ……ほんとなんでもないから……」


 中等部制服を着用し、正体を隠す響生。身長の低さや童顔も相まって知っている兎歌ですら、顔を直視するまで気がつかなかったほど違和感が無く、いまの所、亜寅たちは気付いていない。


「でも、お前みたいなやつ居たっけな? 居たら気付きそうだけど……」

「ぅん? 先輩じゃないの?」

「二年じゃないよ……三年もありえない……貴女は──」

「まあ、別にいいじゃん! ちっちゃいことは気にすんな! ……ほらほら、はやく中等部三年ペガサスに会いに行こうよ!」


 ただ、響生自身が雑なためバレるのは時間の問題だろう、彼女が変装をしている本当の目的が分からないこともあって、兎歌は気が気じゃなかった。


「いやー! でも懐かしいね!」

「懐かしい?」

「そういえば!? 三年の先輩ってどこにいるんですか!?」

「あ、ああ。あそこの部屋に居ると思うけど」

「──いい加減にしろ!!」


 亜寅が指し示した扉から怒声が鳴り響く、いったい何事だと開きっぱなしの扉から兎歌たちは中を覗く。


「え? あれって……」


 室内には中等部ペガサスが数名。ヨーロッパのお嬢様のような風貌のペガサスを中心に、高等部の制服を着た『ペガサス』を囲っていた。



「あんたの命令なんて“卒業”したってお断わりよ!」

「──命令ではありません! ただ幾つか質問をしたいだけでして、プライバシーに関わることですし個人面談を行ないたいんです!」

「野花先輩!?」


 高等部ペガサスが『蝶番ちょうつがい 野花のはな』だと分かった兎歌は、驚きのあまり大声で名前を呼んでしまう。


「っ!? 誰!?」

「やべっ! 気付かれた」

「ご、ごめんなさい! えっと……」

「ここは任せて」

「し、申姫先輩?」


 事情は分からないが、剣呑な雰囲気が充満する教室に入るのを躊躇っていると、兎歌たち一年生を守るように、申姫は躊躇いなく部屋の中へと入っていった。


「すいません。お話を邪魔するつもりはありませんでした」

「あんたは……?」

「あ、先輩こいつ、高等部の飼い猿ですよ!」


 ──なんか嫌だなと、申姫に向かってキツい言葉を放ったこともそうだが、それを注意しない先輩ペガサスたちに対して、兎歌は確かな嫌悪感を抱く。


「申姫先輩!」

「わ、わたしたちも」

「だめなの」


 そんな様子に、亜寅が慌てて部屋の中へと入った。それに続き兎歌も入ろうとしたのだが、酉子に止められる。丑錬は怯えてオロオロするばかり。


「あんたは確か最近入った……なるほど、こいつらを呼んだのは、あなたってわけね」

「は、はい。やっぱり今後のことを考えて先輩たちのグループに入らないかって誘ったんです。それで猫都先輩に会おうってことで……」

「私は入るつもりはないよ。ただの付き添いで来ただけ」

「ちょ!?」


 申姫は何時もの調子で、はっきりと断言する。ただでさえ刺々しい中等部ペガサスたちが殺気立ち、申姫先輩を睨み付ける。


「だから猫都先輩。私たちはもう帰りますので、気にしないでください」


 ──やっぱり、あの中央の『ペガサス』が猫都ねこみや先輩なんだと、兎歌は改めて人物を見やる。


 ウェーブ掛かった金髪の髪に鋭い瞳。お嬢様という言葉が似合う彼女は申姫に顔を向けることは無く、ずっと野花の事を睨み付けている。


「蝶番先輩も失礼しました」

「こちらこそタイミングが悪かったようで申し訳ありません! しかしグループ合併の話ですかね? 断わってよろしかったんですか?」

「はい。こんな人たちと一緒に戦っても、生き残れる確率が増えるとは思えませんので」

「なんですって!?」


 申姫はどこまでもドストレートに断言する。それを聞いた猫都グループの『ペガサス』たちは、カチンと頭にきたようで、怒声を浴びせる。


「十人も満たないグループの『ペガサス』が、偉そうな事を言うわね!? 私たちの何が駄目だって!? 言ってみなさいよっ!」

「新入生たちに悪い噂を流して、不和を生み出している人たちに、きちんとした組織管理ができるとは思えない」

「……申姫先輩」


 ──申姫先輩が、ああいう態度を取るのは自分が理由だと分かった兎歌は、嬉しさと同時に抱えているものがより重くなったのを感じた。


「さっきから言わせておけば!」

「これだから“大陸難民生まれ”の『ペガサス』は嫌いなのよ!」


 “大陸難民生まれ”という言葉に申姫はピクリと体を揺らした。それに気づいたのか猫都グループの『ペガサス』は、いやらしい笑みを浮かべ始めた。


「知らないとでも思ったの!? あなたが大陸難民生まれで、大陸名持ちだってこと! 申姫シェンジィ! 本来の読み方は申姫シェンジィなんでしょ!?」

「──止めて。その名前で二度と呼ばないで」

「何よ! 別に名前を呼ぶぐらい、いいじゃない! どうしてそんなに怒るの! 申姫シェンジィ! なんとか言いなさいよ申姫シェンジィ!」


 まだ日本が平和だった時代から、『プレデター』によって国を出て日本へと出てきた大陸国家の人たちが居る。そんな彼らの子孫たちは、大人の勝手な考えによって大陸名を付けられることがあり、それは現代日本において、不遇を与える行為となっている。


 だからこそ子供たちは和読みを与えられることを喜び。本来の呼び名を嫌う者は少なくない。


 猫都ねこみやグループの『ペガサス』の一名はそれを知っていて、彼女の名前を何度も発する。効いていると分かれば、全員が乗っかり始めて、猫都を除いた全員が申姫の名前をひたすら連呼する。まるで悪魔払いの呪文のように、あまりにも陰湿だ。


「──いい加減にしなさい」


 兎歌が流石に見過ごせないと中に入ろうとしたその時、猫都が小さくも鋭い言葉を放つ。するとあれだけヒートアップしていた『ペガサス』たちが、ぴたりと口を閉じた。


「これもあなたの計画なんでしょ? ──蝶番野花」


 ──ただ、言葉を投げた相手は傘下の『ペガサス』にではなく野花だった。


「違いますよ! 彼女たちがここに来ることはまったくもって知りませんでした!」

「喜渡先輩の後輩たちを利用する、その非道な行い。私が気付かないとでも思いましたの?」

「誤解です! 彼女たちがここに来たのは本当に偶然です!」

「嘘を吐き続けるのはいい加減に止めなさい! 『最低』の貴女が全て仕組んだ事なのはお見通しよ!」


 この状況は野花が画策したものだと妄信的に断言する猫都。猫都グループ『ペガサス』もそうだったのかと、野花に敵意をぶつけはじめる。


「いつだってそうでしたわ! 自分のためにどれだけの『ペガサス』を犠牲にすれば気がすむのよ!」

「──いったい何の話をしてるんですか?」

「貴女たちが先輩にした仕打ち! 数々の悪行の話よ!」


 なにが起きているのだと呆ける兎歌だったが、猫都が気になることを言ったため再起する。


「貴女だけではないわ! 貴女たち高等部一年が仕出かした『最低』な数々をっ! 私たちにしてきた非道をっ! 忘れたとは言わせないわよ!」


 ──現高等部一年ペガサスの『蝶番ちょうつがい野花のはな』、『すずり夜稀よき』、『縷々川るるかわ茉日瑠まひる』たちは中等部から『最低』と呼ばれている。


 そもそも中等部からすれば、高等部は活性化率の数値が高く、いつゴルゴン化してもおかしくない爆弾のような存在だ。そのため怖がって近づかないことが当たり前であり、兎歌たち『勉強会』のように好んで傍に居るほうが普通ではない。


 その中でも野花たち高等部一年は中等部から特別に忌み嫌われている。ハルナたちに教えられて知識として知ってはいたが、猫都から発せられる憎悪を目の当たりにして、兎歌はこの場で野花たちに向けられているものがどういったものであるかを初めて実感した。


「申姫先輩、いまのうちにっ……!」


 ──猫都たちが野花に意識を向けている隙に、亜寅が申姫を連れて室内を出て行く。重々しい空気が兎歌たちに充満する。


「ぅあ、し、申姫先輩……」

「……丑錬、それに亜寅も、こんな自分が絶対正しいみたいな奴らの下に居たって碌な事にはならないよ。それでも猫都先輩たちと戦いたいって言うの? ハルナに負担を掛けさせてまで?」

「あぅ……」

「……嫌な思いをさせてしまった事は謝ります。でも……ワタシにだって考えがあってグループを移動したんです!」

「……そう」


 なら好きにすればと言わんばかりに、申姫は素っ気なく亜寅から顔を背けた。亜寅はカチンと来たのか怒りで顔を染めて何かを言いかけたが、寸前で激情を飲み込んだ。丑錬はただオロオロするばかりで、声をかけられない。


 ──そんな中で兎歌は、部屋の中を見続ける。


「……なに黙ってるのよ! いつものようにヘラヘラとした気持ちの悪い顔で言い訳のひとつでも言ってみなさいよ!」


 沈黙の睨み合いに先に耐えられなくなったのは、猫都と同じ中等部三年ペガサス。こんな状況でも笑みを絶やさない野花に、罵声を浴びせる。


「──みなさんのお気持ちはよく分かっているつもりです!」


 それに対して野花は、いつも通りニコニコとした笑顔で対応をする。


「なので、ひとつだけ質問させてください。それさえお答えして頂ければ早々に立ち去ります!」


 強引に話を進めようとする野花に、猫都は黙って距離を詰める。


「あなたのかっせっ────」

「な……っ!」


 ──野花に間近まで近づいた猫都は、そのまま左頬を引っ叩いた。


 平手で殴ったといったほうが正しいのかもしれない。強烈な空気音が教室に響き渡り、野花の体は宙を飛び、壁に叩き付けられた。


「……もう二度と、私の仲間を貴女の犠牲になんてさせないわ!」

「なんてことするんですか!」

「我慢するの……兎歌っ!?」


 感情的になった兎歌は、酉子の制止を聞かず教室の中に入る。


「過去になにがあったか知りませんが、暴力を振るうなんてっ!」

「これが暴力? なら蝶番野花たちがしたことはなに? こいつらがした事なんてこれ以上のことよ!」


 野花に向けていたのと等しい憎悪を、猫都は兎歌に向ける。


「……野花先輩たちがなにしたって言うんですかっ!?」


 兎歌は腰が引けてのけ反りそうになるが、こんな人に負けたくないと踏ん張って睨み返す。


「こいつ生意気! なんなの!?」

「白髪……お前、さては上代兎歌だな!? 喜渡先輩に飽き足らず野花にも媚び売ってるって噂は本当だったのね!」


 猫都グループの『ペガサス』たちが兎歌の正体を知りざわつき始める。背後で亜寅が戻ってこいと叫ぶ、丑錬も続き名前を呼ぶ。酉子がもう面倒なのと殺気立ち、申姫もこうなってはと覚悟を決めるが、感情的になった兎歌は後ろの様子に一切気がつかない。


「……なにをしたですって? 酷い事をしたのよ! 硯夜稀は自作の爆弾で何人もの『ペガサス』を吹き飛ばしたわ! 縷々川茉日瑠は無慈悲な作戦で何人もの『ペガサス』を犠牲にしたわ! そしてこの蝶番野花に至っては生徒会長として圧政を敷いて、何人も……何人も……! 私の先輩が死んだのも全部こいつが笑いながら出した命令のせいよ!」


 ──自分の身内すら圧倒するほどの怨嗟の怒号を放つ猫都に兎歌たちの動きが止まる。


「許さない……絶対に許さない……っ!」


 叩かれた頬を手で押さえながら、ゆっくりと立ち上がる野花を、睨み続ける猫都は、今にも殺しに掛かりそうで、完全に飲まれてしまった兎歌は足が竦んで動く事も、声を出すこともできなかった。


「もういいわ。ここで貴女をっ!」

「──勘弁して欲しいですね──」


 もう争いは避けられない──。


「──ひゅ──いご──ー!!」


 ──そんな危険な空気の中で、しゃがんで接近したのであろう響生が猫都たちの眼の前で飛び上がった。


「うわっ!? ……な、なんなんだコイツ!?」


 猫都を除いた『ペガサス』たちは後ろへ下がるほど驚き。兎歌側もあまりの出来事に思わず硬直する。


「駄目だよ。そんな事をやっちゃったら……本気で笑えないよ?」

「ひっ!? ほ、本当になんなの貴女!?」

「……高等部二年ペガサス、白銀響生先輩ですわね」


 響生の顔を見てあからさまに脅える『ペガサス』たち。そんな中で猫都は響生の事を知っていたらしく、正体を口にする。


「あれ? きょうちゃんのこと知ってるんだ?」

「ふん、笑いながらゴルゴンと戦い殺した狂人。一度見たら忘れるわけがありませんわ」

「こ、高等部の『ペガサス』がどうして中等部の制服着てるのよ!」

「なんか面白いと思ってー!」

「バカにしてるの!?」


 もはや誰だって関係ないと言わんばかりに噛みつく『ペガサス』たち。猫都以外は完全に意識を響生に向けているようだった。


「とかりん」

「え? あ、はい!」

「のっはーを生徒会室まで連れて行ってよ」

「……わかりました……野花先輩。行きましょう」


 正直いえばここから直ぐに立ち去りたかった兎歌は、戸惑いながらも響生に従う。


「まちな──」

「ダメダメ! 後輩たちを虐めさせないぞ!」


 そんなやりとりが後ろから聞こえてきたが、振り返る余裕はなく、兎歌は野花を支えながら部屋の外へと出る。


「兎歌」

「酉子ちゃん。ごめん。先に部屋に戻ってて」

「……わかったの」

「申姫先輩……すいません」

「気にしないで。野花先輩を安全な所に連れて行ってあげて」

「ありがとうございます」

「兎歌……ワタシは……」

「……また今度ね……丑錬ちゃんも……」

「ぅん……また」


 野花を連れて一刻も早く、この場を離れたいと、兎歌は返事もそこそこに切り上げて再度歩き出した。


 +++


 ──生徒会室に辿り着くまで、兎歌と野花はひと言も喋らなかった。室内に入ると野花は真っ先に会長席に座り、深い溜息を吐いた。


「……な、なんなんですかあの人たちは! 申姫先輩に酷い事したのもそうですし! まったく話を聞かないし! ……もうなんなんですか!?」


 野花と自分だけとなった空間で我慢できなくなった兎歌は、猫都とそのグループの『ペガサス』に対して文句を叫ぶ。


 兎歌は他人を想える優しい性格ではあるが、理不尽や暴力に対して怒りも抱けば、不満も湧き出る普通の子である。友達や親しい先輩に酷い態度をとった相手を嫌いにだってなる。


「野花先輩が、夜稀先輩がそんな……」


 ──ただ、兎歌の怒りは、野花たちの過去をなにも知らない事に気づきすぐに萎む。それに猫都が野花に向ける怨嗟は本物で、語った野花たちの所業が真実であるという説得力があった。


「……なにか事情があったんですよね?」

「──何もありませんでした」

「え?」


 ダメ元という気持ちが現れて短く無遠慮になってしまった問い掛けに、野花は両手で顔を隠しながら語り始めた。


「生徒会長の本来の仕事なんて、管理者とか大人たちの言うことを、そのまま学園の『ペガサス』に伝えるだけなんです──本当に楽で、詰まらなくて、転げ落ちるには十分で──自分のやっている事への責任感なんて1グラムもありませんでした」


 兎歌からすれば本人から語られた内容は信じられない話ではあった。敬愛する先輩である愛奈からは、失敗やミスに関して引きずってしまいがちで責任感が強すぎることを心配されていたり、誰よりも考えて、誰よりも働いている。それは誰もが認めるところだ。


 ──そんな野花を見て来たからこそ、兎歌は彼女の言葉を信じることができた。そして尊敬する先輩愛奈に、友達のような先輩夜稀に、頑張っている先輩野花に迷惑をかけたくないからとどんなに苦しくても秘密を守ることができていた。


「──余計なことをして失敗するのが怖くて──だから与えられることだけをこなして──でもどこかで自尊心だけは無駄にあって──ならせめて相手を不安にさせないように笑顔でって──」


 気がつけば、兎歌に話しているというよりも、己の過去に対して言い訳するように途切れ途切れに言葉を吐き出していく。あまりにも見ていられないと声をかけようとした瞬間、野花がガバっと顔を上げた。


「──先ほどは怖い目に遭わせて申し訳ありませんでした!」

「……あの人たちは……結局なんなんですか?」


 ニコニコと笑った、いつもの調子へと戻ってしまった野花。過去話はもうしないと拒絶した態度にも見えて、兎歌は口の中で言葉を噛んでは混ぜて、ようやくひと言絞りだす。


猫都ねこみや以下、現存している三名の中等部三年による通称猫都グループですね! ペガサスは新入生が加入したことで40名を超えているようで、現アルテミス女学園最大の派閥といってもいいでしょう──そして、最大の反高等部ペガサスグループでもあります」


 笑みを維持しながら僅かに開かれた瞼の先、そして付け足したように放たれた言葉に、氷のような冷たさを感じて怖気が走る。


「……あの人たちを……どうするつもりですか?」

「──彼女たちは独裁的です。『勉強会』だけではなく、他のグループたちにも非協力的な態度が目立っているので、猫都グループの『ペガサス』たちは大規模侵攻の時には多少離れた場所に配置する予定です──逆に言えば、それぐらいしかするつもりはありません!」


 東京地区から送られてきた命令文。その内容は大規模侵攻の兆候が確認された場合、『ペガサス』たちは『街林』によって定められた地点に移動するようにというものだ。


 野花は“配置決め”と呼称しているこれは、東京地区によって事細かく配置場所は指定されているものであるが、個人ごとの指定はなにも無い。あっても中等部か高等部ぐらいである。


 なので野花はできるだけグループ同士が一緒になるように何時も“調整”はしていた。これは本来、学園長の仕事であるが丸投げされたものとなっている。しかしながら野花だけではなくこの業務を押しつけられるのは歴代生徒会長も同じであり、望もうが望むまいが生徒会長にとって初めての大任となる。


 ──つまり、野花は大規模侵攻時、中等部『ペガサス』を自由に“配置決め”することができる権限を持つ。


「……あの……あのグループには亜寅と丑錬が……『勉強会』に居た友達がいるんです」


 ──意を決したように兎歌は、もしも野花が何かしらの計略を猫都たちにするとしても、二人は巻き込まないで欲しいと遠巻きにお願いする。


「安心してください。孤立させるつもりはありませんし、位置的に考えれば『プレデター』は少ないほうになるでしょう──大規模侵攻では、ボクたちが暗躍する期間でもあります──ボクが望むことは、その間大人しくしてほしいぐらいです!」


 過激な事をしないとは言うが、兎歌は不安を消すことができなかった。でも、自分がいま何を言ったところで迷惑になると、そう思い込んで追求はしなかった。


 ──ただ、これだけはどうしても聞いておきたいことがあった。


「──最後にひとつ、教えてください……中等部ペガサスに、愛奈先輩やアスクさんの事を秘密にするのは、猫都先輩たちが理由なんですか?」

「──それだけでは無いですよ」


 野花はたったひと言だけ言って、口を閉ざした。彼女の笑みからは何も読み取れない。


「……ありがとうございます。……今日はすいませんでした」


 沈黙の場でしばらく見つめ合ったあと、兎歌は頭を下げて部屋から出ていく。


「こちらこそ──ごめんなさい──」


 気のせいだと思ってしまうほどの小さな謝罪。扉を閉めきる直前であった事もあって、兎歌は反応できなかった。どうするか悩むが、もう何を話していいのか分からないと、兎歌はそのまま帰ることにする。


「……これから、どうなるんだろう……わたしは……どうすればいいんだろう」


 ──今日、兎歌は久しぶりにトイレに駆け込まなかった。


 +++


「──そんなわけで~。予想通り、話が完全に通じなかったよ!」

「分かりました。調査のほうありがとうございます」

「うわっ、すっごいいわか~ん」

「こう見えても、お礼はしっかりと心を込めて言うタイプですよ」


 ──高等部校舎の空虚な廊下にて、高等部三年の『久佐薙くさなぎ 月世つくよ』と響生が会話をしていた。彼女たちを知る他者が見れば驚くだろう。なにせ、この二名には接点らしいものが無く、こうやって話しているのを誰も見たことがないのだから。


「響生、わたくしの頼み事を叶えてくれて、心から感謝します」

「ほんといい性格してるよね? あんまりそういう事するなら、もう頼みごと聞いてあげないよ?」

「ふふっ、その時は仕方ありません、幽霊の真似して歩き回りましょうか」


 事実、彼女たちが関係を築いたのは、ごく最近の事で、月世のほうから声を掛けたのがはじまりだった。公式では“卒業”している月世は、自由に学園内を歩き回れないでいた。そんな彼女の頼みを聞いて代わりに調べに行くのが響生だった。


「ていうか野花のっはーにバレちゃったけどいいの?」

「はい。特に隠していたわけではありませんので。あの子の事です、わたくしの差し金というのは、どこかで気付いているでしょう」

「……“あの事”を知られたら苦しませちゃうかな?」

「仕方の無いことです、所詮は遅いか早いかなので……ふふっ、いけませんね。彼女には恩義も愛情もあるので、あまりこういった楽しみ方はしたくはないのですが」

「人の心ないの?」


 響生はあの日、アスクヒドラと出会った日から、常に一緒に行動していた真嘉とは距離を置いて生活していた。それゆえに彼女は日常時では浮いた人材となっている。月世が、響生を選んだ主な理由は他にあるが。


「でしたらやっぱり、わたくしたちは似たもの同士ですね──コッペリア」

「……全然似てないよ」


 いずれ皆に気付かれるものであるが、その直前まで隠す。月世は考えがあって、響生はこんなこと大切な人に知られたくないからという理由で、だからこの関係も二年のみんなには教えていなかった。


「わたくしはアイアンホース教育校からの転校生の事もあります。なので中等部のほうは任せましたよ」

「分かってるよ。でも、まかまかたちが最優先だからね~」

「ええ、承知しています」


 月世は響生の頭を撫でる。響生は黙って撫でられ続ける。その様子は酷く滑稽で冷たいものに見えるだろう。月世は先輩として後輩を使う。後輩は恩恵目的で先輩に従う。彼女たちはどこまで行ってもそれだけの関係なのだ。彼女たちの見る先が交わる事は無い。


「お互い、大規模侵攻を生き残りましょう──愛奈がそう望んでいます」

「えなりんがって聞くと、すごく安心するよ」

「さすが愛奈ですね!」

「つきっちに信用がないだけだから」


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