バルツベルング叙事詩【王妃マリー】

ギガンティック夢子

序章 前

 私が高校一年生、十六歳の時。その日は小雨が降っていた。

 特に人生を謳歌していたわけでも、絶望していたわけでもない。夢を持ちたくともこんな世の中じゃ、いつか就職し、結婚し子供を産み、孫を愛で、家族に囲まれて死んでいくのだと漠然とした想像をするくらいしか無かった。

 

 朝の鬱屈とした駅のホームに、まるで最初から存在していたかのように、その「黒い何か」は現れた。犬のような頭に熊のような胴体、ただそのどちらとも言えない、それらよりも遥かに大きな、己の身の丈の三倍はあろう、化け物がそこにいた。

「なんだなんだ、なにかの撮影か?」

 隣のサラリーマンからそんな呟きが聞こえた。馬鹿を言うな。こんな朝のラッシュに撮影なんかするはずない。

 だがあまりにも自然に存在する化け物に対して、危機感を感じている者は少ないように感じた。ほんの数人だけ怯えたように後退しようとしたが混雑するホームでは碌に身動きも取れない。 

 音もなく、ゆっくりと化け物がこちらを向いた。

 逃 げ ろ

 生物としての生存本能が、叫ぶ。

 隣のサラリーマンも、後ろの子供も押しのけて駆け出した。

 アレは見てはいけないものだ!アレは、アレは!

 背後から金切り声が聞こえる。振り向きそうになったが、寸前で働いた理性それを拒絶した。振り向いたら終わりだ。確実に死んでしまう!生まれてこの方こんなにも恐怖したことは無いのではないか、初めて「生存本能」を自覚した。だが、もう手を伸ばせば、エレベーターの昇降ボタンが、

 ゴトン、

 目の前に赤いものが転がってきた。

 先程と同じ顔をした、隣にいたサラリーマンだ。ただし、その首から下は、

 耐えきれずに振り向いた。皆一様に胴体を失い、真っ赤な血の海に頭部だけ取り残され、その場に転がっていたのである。

 それがあまりに現実味が薄く、叫び声すら、叫ぶどころか息すら出来ず、自分は死ぬのだと理解した。

 いやだ、まだ死にたくない

 生きる目標も、意味も見い出せないこの世の中で、死ぬのはきっと怖くないと思っていた。いきがっていただけなのだ。自分は強い生き物だと思って、こうして死に直面して初めて生を望む。

 都合のいい生き物だ。物心付いた時から存在を信じたことなんて無かった神様とやらに、今こうして心の底から祈るのだから。

 

 どうか、助けてください


 突然、虚空に小さな穴が空いた。その部分だけが歪に切り取られたように、そこだけが黒く丸く「無い」のだ。

「死にたくないなら、退け女。」

 やや高い、ボーイソプラノが、静寂を割いた。

「生き残りがいたとは驚いた。とうに皆殺しだと思っていたが、余程お前は運がいいらしい。」

 黒い穴から覗かせた銀髪が太陽光を反射して光る。歳の頃は精々十になったばかりだろう幼げな風貌にはとても似つかわしくない鋭い黄金の虹彩がこちらを睨み付けていた。

「人間の、ましてや女に戦えとは言わん。抜けた腰に力が入り次第全力で逃げろ。」

 人間離れしたその風貌だからだろうか。妙に安心できた。

 神様にしてはあまりにも鋭い眼光。眉間に寄った皺はむしろ悪魔と言われた方が納得できるような。

 ただこの子供に任せれば生き残れる、そんな気がした。気のせいかもしれない。ただ気のせいでも、自身よりずっと年下であろう少年に生を見出す自分が、只管恥ずかしく、情けなかった。

 少年が化け物に斬り掛かると同時に、私は身体に鞭を打ち、力の入らない下半身を引き摺り、震える腕で這いずるように後退した。眼前ではちょうど、少年が化け物の腕を一本落とした所だった。

 少年はその小さな身体に見合わない長剣を自在に振り回し、化け物に斬り掛かる。

 いつかに見たファンタジー映画のような光景が広がっている。見慣れた駅のホームに、化け物と、その化け物と互角以上に戦う少年。ここで私が出来ることは無い。あるとするなら、少年の邪魔にならないよう早急にこの場から遠ざかることだ。

 手を伸ばし、エレベーターの昇降ボタンを押した。光るボタンがエレベーターが壊れていないことを告げる。エレベーターは金属だ。中に入れば助かるかもしれない。籠が下の階から上に登ってくる。中には誰も乗っていない。ピンッ、と、ホームに着いたことを知らせる音が鳴った。

 正面の化け物が、こちらを向いた。

「不味い、逃げろ!」

 化け物の残された片腕がこちらに伸びてくる。みんなアレに殺された。私も死ぬのか。助かったと思ったのに、なんで、どうして。エレベーター到着音がいけなかったのか、エレベーターを呼ばなければよかったのか、大人しく階段へ向かっていれば。

 目の前が暗くなる。ただそれは意識を失ったなんてことではなく、物理的に、目の前の陽の光が遮られた。同時に左肩がじわりと痛む。

「すまない、止めきれ無かった…。」

 陽の光を遮っていたのは、小さな背中だった。背中から生えた指の先が、私の左肩に達し、刺さっていたのだ。

「ッくそ、」

 指は切断され、少年は乱暴に己の左腹部からそれを引き抜いた。指一本といえど、赤ん坊の手首位はありそうな太さだ。少年が腹部からは絶えず血液が流れ出している。

「ごめん、なさい…。」

 ここで初めて私は声を出した。同時に、今まで何かにせき止められていたように出なかった涙が溢れ、身体が熱くなった。

 少年はこちらを向かず、右手で剣を前に構えたまま、傷を押さえていた左手で腰に下げていたもう一本の剣を抜く。

「僕が死んでも、その剣で己を守り逃げろ。間も無く増援が到着する。」

 差し出された剣を受け取ると、ずしりと重たかった。かなり古そうではあるが、鋭い刃先は素人目にも手入れが成されているのがよく分かる。鈍い銀の刃が、少年の髪と重なった。

「ま、待ってください。貴方が逃げてください。私より、貴方のが若い。こういう時はきっと若い人が生き残るべきです。」

 少年の細い手首を強く握る。もう充分だ。死の覚悟は出来た。その時間はこの少年が与えてくれた。平凡で臆病な私とは違う。きっとこの少年はこれからもたくさんの人を救える人だ。

 しかし少年はこちらを向かず、私の手を振りほどくと化け物の方へと駆け出した。

「やめてください!逃げて!」

 何故この少年は、出会ったばかりの女一人を助けるために命を捨てられるのか、分からなかった。

 本当は死にたくない。死にたくなんてない。今日の夜だって、父の帰りを待って、母の手料理を食べたかった。明日も明後日も、そうやって続くと思ってた。

 それでもきっと、私は私の為に命をかけるこの少年を、何度でも助けたいと思うのだ。

 私は少年の顔を見た。疲労が滲み、失血のためか青白い肌をしていたが、瞳の光は未だ失われてはいない。

 私を一瞥し、少年は叫んだ。

「お前の目は助けを求めていた!ならば、異国民であろうとも、助けるのが王族の責務だ!」

 私は駆け出していた。何かが恐怖に打ち勝って、私の足を動かしたのだ。

 あの時、エレベーターに乗っていたのなら、私のこの後の人生はまた違ったものになっていただろう。生涯あの光景を忘れることなく、トラウマのように夢に見て、表面上はごく普通の生活を続けていたのだろう。

 私は、化け物の方へと駆け出していた。

 自殺行為などでは無い。錯乱していたわけでもない。ただ、私は握ったことすら無い剣を構えて、化け物の脇腹に、その剣を突き刺していた。

「っは、刺さっ、た…?」

 数センチ程度しか刺さってはいないだろう。しかし、ほんの一瞬、化け物の意識がこちらへ向いた。

「よくやった!下がれ!」

 少年の大きな振りから、強い一閃が与えられる。

 化け物の胴から首は切り離され、その切断部から大量の砕けた人骨が出てきた光景を、私は生涯忘れることは無いだろう。あの化け物は、頭部だけを残して、人間を食っていたのだ。

 

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