人間は猫をなでてから、寝る。

@yamakazu4u

猫の肉球は猫のものである、ということ

 あの頃に何を喋っていたのか思い出せない。たしか「猫の肉球って脂肪らしいよ」とかそんなようなことだったと思う。でも、そういうことを話しながら歩くことを日課だと思っていて、それですごく長い時間を二人で歩いた。

 ある時、一緒に歩いていて、いきなり同時に立ち止まってしまって、動けなくなったことがあった。それで、よくわからないけど、なにも言わずに5分くらい立ち止まった。というよりも、動けなくなって、なにも聞こえなかったし、それでただ立っていただけだった。

 頭がぼやっとして、宇宙でぷかぷかしている気持ちだった。それで時間がたって、また歩き出して、肉まんを買って家で半分ずつ食べた。時間の見当識を失って、他者との境界が無くなって、液状化する感覚とそこから現実に戻るためにスニーカーだけが現実の側にあった、という記憶。3日後くらいに「あれなんだったんだろうね」というメッセージが来ていたけど、よくわからなかったから羊のスタンプを送った。かわいいやつ。

 出会い系で知り合って、最初に行った場所は大きめの商店街にある喫茶店だった。チェーンなのか分からないけど、市内に何店舗かあるやつ。人間味がちょっとだけあってでもだいたい無機質な感じで、普通の喫茶店。BGMは小さめで、喫煙できるスペースがあったから、そこに座っていつもの煙草を吸った。甘いバージニアの紙巻。

 それでどういう流れだったのか思い出せないけど、アダルトビデオの話をした。人は何をもってそれを選ぶのかという話。女優とか男優とかじゃなくて監督で選ぶべきだ、ということで意見が合致して、そんなこと言う人だとはお互い思わなかったので二人で笑った。それで面白い人だと思ったから付き合うことにした、って後で言われた。たぶん冗談だと思う。


■排水溝のエラーコード


 寂しいから一緒にいたつもりだったけど、一緒にいればいるほど寂しくなった。この人は別に自分のことは好きじゃなくて、この人自身が寂しいから一緒にいるだけで別に誰でもいいんだと思ったから。それはお互い様だったけど、その頃は気が付いていなかった。

 その人の家でシャワーを浴びて、髪を乾かすとき、いつも自分の身体を見ていた。我が家にはそんなにいい洗面台ないから、テレビの前で適当に鏡を見ずに髪を乾かしていて、自分の身体をきちんと見たことがなかった。自分の身体ってすごくエロいと思った。すごく普通の体型をしていて、ところどころシミがあって、うるさい毛が生えている。

 そのことを話してみたら、そりゃもうそうだとも、みたいな顔で頷かれた。あまり好きではないけど確かにいい匂いのするシャンプーの置いてある浴室だったのもあって、ちょっと腹がたった。

 自分の身体が適切に欲情の対象になることは良いことだと思う。しかしではその適切さとは何か。この人が自分に欲情することは何をもって適切と言い得るのか。みたいなことが頭の中を駆け巡ったけど、夜遅かったのでやめて、テレビをつけてニュースを見た。家猫がかまってほしかったみたいな顔をしていて、それが面白かったからインスタにあげた。それでいつのまにか寝てしまっていた。


■ざぶーん


 ある日、仕事のしすぎだと言われ、それで少しの喧嘩をした。パフォーマティブなというか、喧嘩しようとして喧嘩するという、そういう感じの。猫がじゃれるみたいなやつ。それでちょっと落ち着いた後から「バランスの良い人間なんて居ないよ」と慰めるみたいに言われてすごいうざかったけど、確かに仕事に依存していると思った。この人は自分に構ってほしかったというか、そういうことだったんだと思う。だから、仕事を半ば強引に休むことにして、海に二人で散歩に行くことにした。たぶん、水曜日だったと思う。

 「社会の方が狂っててこっちが正気な気がするんだけど」ととても抽象的な前置きをして、過去の話をした。過呼吸が出始めたのはいつだったか、という話。たぶん、3年くらい前だった。なにがきっかけだったか、たしか上司に注意されたとかそんな小さいことだった気もするけど、それはまったく忘れてしまった。とにかく貧血みたいにして倒れて、でもだれも助けてくれなかったみたいな話。ちょっと冗談めかして喋る。日比谷線に乗ろうとしていたのに、何本も電車が行ってしまったのが少しだけフラッシュバックしてちょっと嫌だ。サラリーマンが見て見ぬふりを決め込んでいたけど、通りすがりのおばあちゃんが助けてくれて、そのときは汗びっしょりでなにも思わなかったというか感じられなかったんだけど、後から考えて涙が出たというのが、なんというかオチ。それで滑るように会話が違う方向に行って、感染者がどうしたとかこうしたとかみたいな、そういう会話をして海についた。


■猫は海で泳ぐことができる


 海は良い。東京で暮らしていたとき、海が身近に無い環境で子供時代を過ごした人がたくさんいた。かわいそうだなと思ったし、自分もこんな海の無い環境で生きていけるのかと頭が変になるところだったけど、しばらくしたら慣れた。慣れたというか、東京という街に順応してしまった。東京にも海はあるけど、「海」はない。それで、実際に心身が変になっちゃって、この街に来ることになった。

 ここは大した感じでもないけど海があって、それはそれで良い。というより、海というのは大した海じゃないほど良い。自分だけがこの海を知っていて、他の人は知らないという感覚。

 「おかしくならないためにはたまにこうやって変なときに海にきて、自分をずらすということが大事なんじゃないかな」と言われた。本当にそうだと思った。社会になりすますうちに、いつのまにかどっちが本当かわからなくなってしまって、そのままなりすましている自分がどっちからもいない状態になった。過呼吸になったのはちょうど、自分から自分がいなくなってしまったというか、からっぽになった時期だった気がする。

 それでそういうナイーブな話をしながら、30分くらい砂浜を歩いた。波が打ち付けて、引く。それがずっと繰り返される。その際を歩いて、ちょっと靴が濡れた。なんでスニーカーで来ちゃったんだろうと思って後悔した。でも寒かったし、そこまで気が回らなかったんだった。

 犬を散歩しているおじさんと通りがかったり、韓国語の書かれたペットボトルを拾って空中に放り投げたら目に砂が入ったりして痛かったりした。そんなこんなで、なんというか自分をちゃんとずらすことに成功した気がして、家に戻ることになった。


■玉ねぎは炒めると虹色になって消える


 それで砂浜から出ようとしたとき。猫を見つけた。それが本物の猫だったのか、幻覚の猫だったのか分からないけど、ともかく見つけた。それでなでようと思って近づいたら逃げられた。

 バス停についた。そしたら、さっきの猫が居て、なでることに成功した。「猫というのは意外にも毛が固い生き物であって、なでると手が痛くなるんだよ」、というセリフが思い浮かんだので、そのまま言ってみたら普通に無視されて少し傷ついた。

 それで町中華というか、最寄りから下りてすぐのところの普通の中華料理屋に入った。食べ終わって、そのまま家に帰って、手を洗って、家にいる黒い猫をなでた。なでているうちに眠くなったので、その後の記憶はないけど、寝ちゃったんだと思う。

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