ピエロ
ゴカンジョ
大切な関係
目を覚ますと、暗闇の中、ユイの寝顔が目の前にあった。ツンとした鼻から規則的に漏れる彼女の吐息が、畳の上で寝そべる僕の鼻先にかかりそうなくらい、近くに。
ユイの甘い匂いが鼻腔に広がる。途端、身体中の血液が爆発した。フローラルのほのかな香りは、しかし眠気も理性もたやすく吹き飛ばすくらい強烈で、僕の意思を嘲笑う本能は、乾いたスポンジが水を吸いこむように、沸き立った大量の血液を一気に集めて充血する。はち切れんばかりに膨張した僕の肉体は「ドクンドクン」と、早鐘打つ心臓よりも生々しく、痛みを感じるほど強く脈打った。
明かりの消えた室内で、ほの暗さに目が慣れると、ユイの姿が徐々にはっきりしてくる。
タックがついたワイドシルエットのハーフパンツを履くユイは、むき出しの膝を折り曲げ、指を丸めた両手を顔のそばに、左横向きの姿勢で眠っている。毛先の軽いショートボブの前髪がさらりと額に垂れ、キュッと目尻が上がった奥二重の猫目は、長いまつ毛でフックをかけるように、しっかりと閉じられている。滑らかな曲線を描く右の耳たぶには、夏休みに入ってすぐ開けたというピアスホールがある。ピアスのないむき出しの小さな窪みは、あまりにも無防備に見えた。
その柔らかな穴を、指で優しく押し広げてみたいと、思ってしまった。
呼吸に合わせ、ユイの肩が慎ましく上下する。ゆったりしたTシャツの半袖から伸びた右腕は腋下から胸元が覗けそうで、肘のところでくの字に曲がった左腕は、白く抜けた二の腕の、吸い付くような内肌を露にしている。ぐっすりと眠っているのだろう、弛緩してわずかに開いた口元は、どこか物欲しげに見えてしまう。薄く膨らむユイの唇は、暗がりの中でも艶やかだった。
初めて見るユイの寝顔から、目が離せなかった。
手を、伸ばす。
……、バカかオレは。
指先は彼女の身体に触れることなく、暗い中空で止まる。僕は寝そべったまま、行き場のない手を下ろした。畳に置いた右手の中指から、あと五センチもないくらいの位置に、ユイのほっそりした指がある。ツヤツヤの爪が、艶めかしかった。
僕は右手をギュッと閉じる。そして目の前の後ろ暗い欲望から逃れるように、目をつむって寝返りを打ち、ユイに背を向けた。
ユイの後ろから、エアコンの室外機の鈍い音に混じって、僕らと川の字になっているユウスケの寝息が聞こえた。
☆ ☆ ☆
中学時代一度も話したことのない僕とユイとユウスケが、高校で仲良くなったのは、単純に新入生の中に僕ら以外の顔見知りがいないことがきっかけだった。地元から少し離れた私立に、同じ中学から三人だけ進学することになった僕らは、偶然にもクラスも同じとなった。しかも出席番号は五十音順で「イシカワユイ」の隣に「アカサカソウタ」である僕が座り、「ウエダユウスケ」は僕の後ろの席だった。
真新しいブレザーに身を包む知らない者同士が集まった、入学式直後の教室。そのよそよそしさに耐えられなかった僕らは、同じ中学校であることを頼りに、探り探り会話を始めた。そしてまもなく、僕らは意外とウマが合うことに気が付いた。お互いスポーツやゲーム、映画、マンガが好きで、流行りものに乗っかるのは苦手。そのときは他の同級生が知らないであろうB級サメ映画の話題で盛り上がった。
三人とも別の部活に入った。僕はバスケ部、ユウスケは野球部、ユイはバトミントン部で、それぞれ部活の友だちも作った。それでも地元が同じ僕らは、部活終わりに一緒に電車で帰り、駅に着いたら家に帰らず一緒に遊んだ。休日になれば、映画館や遊園地、街の祭りなどに出かけた。学校の中でも外でも、僕らは長い時間を共有した。
言うまでもないけれど、僕もユウスケもユイに恋愛感情を抱いていた。
☆ ☆ ☆
「やばい、あいつマジでカワイイ」
ユウスケが僕にそう打ち明けたのは、一年の夏休み前だった。僕と二人廊下にいたユウスケは、ユイがクラスの女子と一緒に教室に戻る直前、僕らに手を振ってくると、その仕草に我慢できないとばかりに、オシャレボウズにした自分の頭を搔きむしった。
「そうか? そんなでもなくね?」
臆面もなくユイへの恋愛感情を吐露したユウスケに面食らった僕は、気恥ずかしさから、とっさに自分の気持ちを誤魔化してしまう。
「おま、マジで言ってんの? ユイレベルで可愛くないとか、ナニサマだ?」
濃い上り眉をへの字に、細い二重の目を座らせたユウスケは、ツッコミ役の芸人みたいに僕の頭をパチンとハタく。
「でも、そうか。お前はユイのこと、そんな感じか」
僕の言葉を鵜呑みにしたらしいユウスケは、嬉しそうに呟いた。
この日を境に、僕とユウスケの間で「ユイへの優先権はユウスケ」という暗黙の了解ができあがった。三人の関係は、ユイに積極的にアプローチするユウスケが主導権を握り、僕は一歩下がって二人についていくことが「自然」になった。
もしあのとき、僕も自分の気持ちを素直に打ち明けていれば。
そう思ったことは何度もあった。でもそのたびに、(これでいい)と未練を打ち消した。三人の仲を、居心地のいい「友だち」としての関係を、大切にしたかったから。
もし僕がユイにフラれれば関係が壊れるのは当然、付き合うことになっても、今度はバカ正直なくらい素直なユウスケが、僕らと距離を置くだろう。
でも、立場が逆なら。ユウスケとユイが付き合うなら。きっと僕は、素知らぬ顔して「友だち」を続けられる。そう思っていた。
実際に、ユイとユウスケが付き合い始めるまでは。
☆ ☆ ☆
二年生で別々のクラスとなった僕らは、一緒に過ごす時間が少しだけ減った。それがトリガーになったか、ユウスケは四月早々にユイに告白。二人は恋人同士となった。
告白の前にユウスケから、告白の後にはユイから僕はそれぞれ相談を受けた。
「三人の関係は大切にしたい」
二人とも僕にそう言った。
「お前らが付き合うのを、オレが気にするとでも思うか?」
僕は二人に笑顔で応えた。
心がチクリと痛んだ。知らない間にひび割れ散り積もった心の欠片が、小さなガラスの破片みたいになって、僕の胸に刺さったのが分かった。だけど僕は、(大丈夫だ)と、自分に言い聞かせた。
数日後、二年から同じクラスとなったバトミントン部の女子と教室で話していると、自然二人の件が話題に上り、彼女はふと確認するように、「アカサカって、ホントにユイに恋愛感情ゼロだったんだね」と訊ねてきた。
「なんだよそれ」
ユイを通じて一年から顔見知りだったこともあり、クラスメートとなってより気安くなった彼女に、僕はわざとらしいくらいおどけてみせる。
「だって、ユイって一年のときずっと、アカサカのこと好きだったから。アカサカの方が完全脈なしって感じで、諦めたみたいだけど」
心の中で、ガラス化した欠片が砂塵となって吹き荒れた。
ユイとユウスケと過ごす時間が、僕をザラつかせるようになった。無数のガラス片が刺さった胸は、どす黒い血で滲んだ。僕は作り笑いがうまくなった。
☆ ☆ ☆
「今兄貴がリゾートバイトでいないからさ、兄貴の部屋に泊まろうぜ」
夏休みに入った七月、ユウスケが一人暮らし中の大学生のお兄さんの部屋で遊ぼうと提案してきた。僕はともかく、ユイは親が宿泊なんて許さないのではと思ったけれど、「前も泊りをオーケーしてもらったことあるから大丈夫」と、ユイはなんでもないように答えた。
地元から電車で小一時間ほど離れた街にある、木造二階建てアパートの一室に夕方からこもった僕らは、エアコン利かせた七畳の和室でテレビゲームをした。ゲームに飽きたらテレビやスマホの動画を見て、本棚の漫画を読んだり、嫌いな先輩の悪口を言ったりとダラダラ過ごした。ときおり、ユウスケとユイがお互いの頬をつねったり、髪の毛を撫でたりしているのを、僕は見て見ぬふりで毛羽立つ気持ちを抑えた。
深夜二時過ぎになりユイが眠くなったとゴネだしたので、着替えずに歯磨きだけした僕らは、枕もマットも敷かない畳間で、ユイを挟むように三人雑魚寝した。
眠るユイに手を伸ばしかけたのは、そのときだっだ。
☆ ☆ ☆
ユイに背を向け目をつむった僕は、しかし火照った身体がジンジン疼く中で、眠れるわけもない。あきらめて近くに置いていたスマホを取り、明かりが漏れないように掌で覆いながら時間を確認した。三時四十二分。室外機の鈍い音とエアコンの駆動音、二人の寝息が混じる室内は、静かだった。僕はカーゴパンツのポケットにスマホを突っ込んだ。
もし、あのとき。
一年近く反芻した思いが再び頭をよぎる。そして今まで通り、「これでいい」と自分に言い聞かせる。でも。
オレはいつまで、二人の前で笑顔を作れるのだろう。
不意に、背後で人の動く気配がした。僕はユイに背を向けたまま、じっと息を潜める。
衣擦れの音と共に、ユウスケの息が近づいた。「フー」と鼻息を吐いたユウスケは、ユイのそばにゴロンと寝転んだようだった。
まもなく、僕の背後でモゾモゾと身体を動かす気配がした。まるで誰かの身体を、撫でまわすみたいな。
その意味を悟った瞬間、僕の中でガラス化し沈澱していた心の欠片が、ゾワゾワと、不穏に舞い始めた。
(……ちょっと!)
突然、いや予想通りというべきか。ユイがユウスケに押し殺した声を発する。
(バカっ、ちょっ、こんなとこでやめてよ!)
(いいじゃん。イカせたい)
(バカじゃないの !? ソウタが起きちゃう……!)
(大丈夫。ほら、完ぺき熟睡してっから)
ユウスケの顰めた声の後に、二人は僕の様子を伺っているのか、僅かな沈黙が訪れる。僕は金縛りにあったみたいに身体を強ばらせる。自分の動悸が地響きとなって、二人に伝わってしまうのではないかと不安になった。
(な? 大丈夫だって)
ユウスケの言葉の後に、「ジジジ」とファスナーを下ろす音がする。
(ホントサイテー……)
ユイは心底うんざりといった声を漏らした。
部屋には変わらず室外機とエアコンの鈍い音が響いている。夜明けまでまだ小一時間はある。僕は息を殺したまま、二人を背中で意識せざるを得なかった。ユウスケのユイを撫でる様子が、嫌でも伝わってくる。
ユイの呼吸が、次第に荒くなっていった。
(はっ……はっ……ハァ……っ)
吐息が身体の奥からこぼれ始めると、彼女の気配が熱を帯びたバターのように甘くとろけていくのが僕にも分かった。胸奥で立ち昇るガラスの砂塵は嵐のように荒れ狂い、僕の心をズタズタにしていく。
(んっ、んぅっ)
手を口に当てているのだろうか、ユイの乱れた呼吸がくぐもる。
(……声、聞こえちゃう……)
懇願するように息を漏らすユイに、しかしユウスケは何も言わない。
粘着度の高い、湿った音が響き始めた。
(アッ、それヤバい……っ)
かき回すようなネバついた音が、規則的に鳴り続ける。
(上、ダメ……っ)
身体をのけぞらせたらしいユイが、堪えきれないといった感じに甲高い声をあげる。蜜をかき回す速度が上がる。
(アッ、アッ、アッ)
(声でかいって)
(あダメイクっ……、イクイクイクっ……)
(声抑えろ。俺のシャツの袖噛め)
ユウスケの言葉に、ユイは(ふぅん)と口に何かを含んだような声を出し、(ふぅっ……ふぅっ……)と言葉にならない息を漏らす。
「うっ」
抑えの利かないユイの声が、室内にはっきりと響いた。
(ふぅっ……、はっ……はっ……はぁ……っ)
体を震わすユイの甘い呼気は鋭利な刃物となって、僕の深い所を傷つける。溢れる血で僕の心は赤黒く染まる。そしてそんな心情とは無関係に、僕の下腹部はカーゴパンツが窮屈になるほど隆起している。傷心している自分を嘲笑うみたいに。
「ボンっ」と、叩くような鈍い衝撃音がした。
(バカ! マジでサイアク! 替えのパンツ持ってないし!)
ユイが険のある小声でユウスケに文句を言う。
(ゴメンゴメン。寝顔が可愛かったら、つい)
叩かれたユウスケは悪びれる様子もなく笑うと、(トイレ行こうぜ? そろそろソウタにバレるかもしんないし)と一言、立ち上がった。
(もう……、ホントサイテー)
そう愚痴ったユイは、しかし立ち上がってユウスケと二人、和室を出て行った。
遠くで二人がトイレのドアを開く音がする。しばらくは出てこないだろう。
ようやく身体を動かせるようになった僕は、仰向けになると、暗い天井を見上げたまま、声も出さずに呟いてみる。
三人の関係を、大切にしたい。
泣きたくなるくらい滑稽だと、自分でも思った。
ピエロ ゴカンジョ @katai_unko
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