第757話

 俺の自我は闇の中にあった。

 戦いの興奮と快楽だけが脳を支配し、他の何も考えられない。

 俺はそれを必死に気力で押し留めようとしていたが、何のために自分が気張っているのか、それさえももう思い出せなくなっていた。


 ずっと、誰かが俺を呼び掛けているような気がする。

 必死にそれを手繰っていたつもりだったが、それももう限界が近づいていた。

 どす黒い衝動が、俺の思考の全てを塗り潰していく。


【ああ、今全てが繋がったよ】

【ラプラスの予言はいつだって正しい】

【聖神教の教えも、黙示録の竜アポカリプスも、全てはこのためのものだったんだ】


 誰かが俺を笑っている。

 意識を向けようとして見たが、結局は全て破壊衝動の濁流に押し流されていく。


【ちょっと強情だったけど、結局キミの自我も全てボクのものになった】

【アポカリプスの〖終末の音色〗はこの世界の終りの始まりになる】

【キミはフォーレン復活のための礎になる】


 さっきから俺の頭の内側のコイツは、何の話をしていやがるんだ。


【この結末は決まっていたんだ】

【この世界の法であるラプラスが演算したんだからね】


【キミがアポカリプスに進化したときじゃない】

【キミが勇者ミーアの成れの果てを悼んだときじゃない】

【キミが今代の戦争を制したときじゃない】

【キミが偶然卵のまま自我を有したときから? いや、それも違う】


【きっとこれはこの世界をラプラスが演算したときから決まっていたんだ】

【だから、キミは何も嘆く必要はない】

【ただ闇の泡沫へ眠るといい】

【その間に全ては終わりを告げる】


 耳障りな声だ。

 次はオマエを殺してやる。

 

 だが、その前に、この都市を地獄の業火で染め上げてやる。

 何のために?

 浮かんできた言葉がおかしくて、自身の口許が綻んだ。

 そんな理由が、必要か。

 俺がやりたいから、今ここで、そうしてやるんだ。

 それ以上の理由などない。


 本当に、そうなのか?

 誰かが俺を呼びかけ続けていた。

 ただ骸の転がる焼け焦げた焦土の幻影に、なぜあれほど俺は心を搔き乱された?

 俺は本当は、他に何か為すべきことがあったんじゃねぇのか?


 頭の片隅に、金髪の女の姿が浮かび上がった。

 普段は人形のような無表情で淡々としている彼女が、悲しげな、それでいてどこか晴れ晴れとした嬉しそうな笑みを湛え、俺を見つめている。


『君は、君の知っている誰かを守ることを一番の目的にして、それを忘れないで戦っておくれ』


 彼女の姿が、青白い化け物の骸へと切り替わる。

 

 名前が思い出せないけれど、きっと彼女も俺と同じだった。

 強大な存在に散々利用され尽くし、故郷も使命も人としての尊厳も奪われ、最期は魔物化と崩神化に蝕まれて精神を病みながらも、それでもずっと高潔であり続け、最後の望みを託して俺の背中を押してくれた。


 この程度で、俺が折れるわけにはいかない。


「やっと捕まえました……イルシアさん」


 誰かの声が、聞こえた。

 鼻先に温かな感触が伝わる。


 俺はこの声を、この感触を、そしてその名前を、知っていた。


「キシィッ」

「ぺふっ!」「ドラゴンさんにゃっ!」

「イルシアッ!」「右ノ主!」「イルシアヨッ!」


 畳み掛けるように、声が入り込んでくる。

 頭が、割れるように痛い。

 それが引くのと同時に、頭を支配していた黒い靄が薄れていく。

 同時に空を覆い尽くしていた闇が晴れ、光が世界へと降り注ぐ。


【そんなはずはない……ラプラスの予言は、確かにこのことを示していた】

【アポカリプスが、世界を崩壊へ導くと】

【予言は全てではないとしても、しかし、実際にその間際まで来て……】

【だとすれば何のために?】

【数万年準備をしたその集大成なのに】

【どうして予言が、法則が、こうも当てにならない……?】


 頭に響いていた声が薄れていく。

 それと同時に、俺の中のバラバラになっていた思考が戻ってくる。


 俺は目を瞑って地面に伏せたまま静止していたが、ゆっくりと目を開いた。

 玉兎にニーナ、ヴォルクにアトラナート、マギアタイト爺、ウムカヒメ。

 そして黒蜥蜴と、俺の顔に抱き着いているミリア。

 見知った彼女らが、俺の顔を覗き込んでいた。


『すまねぇ……迷惑、掛けちまってたみてぇだ。もう、大丈夫だからよ』


 俺は〖念話〗で語り掛けた。


 ヴォルク達と王都アルバンへ来たのは覚えているし、ウムカヒメがこの地へ先に向かっていたのも知っている。

 ただ、聖都リムドで別れたミリアどころか、黒蜥蜴にニーナ、玉兎まで揃っているとは、何の偶然か、或いは運命の悪戯か。

 皆がいなければ、きっと俺は自我を引き戻すことができなかっただろう。


 ミリアが俺から少し離れる。

 俺は咄嗟に、ちらりと彼女へ目を向け、二人で顔が合った。


 ミリアには聖都で顔を合わせて、結局何も言わずに立ち去っちまった。

 話せば巻き込む気がしたのだ。

 今になって顔を合わせて、何を言えばいいのか。


 恐らく状況からして、俺が顔を合せなかっただけで、聖都に黒蜥蜴もいたのだろう。

 黒蜥蜴がミリアを背に乗せ、俺を追い掛けてきてくれたのだ。

 俺と黒蜥蜴とでは相当な速度の差があるが、彼女も綺麗な翼を有しており、かつ速度特化型だ。

 俺がハレナエ砂漠で勇者アーレスを倒し、アーデジア王国で魔王バアルを討伐している間に、最後の最後で俺達に追い付けたらしい。


 状況に似合わない奇妙な沈黙が開いた後、それがなんだかおかしくて、俺達は同時に笑い合った。


「グゥ……」

「ふふっ」


 その後、ミリアは目許を自身の袖で擦った。

 目許に涙の跡が付いていた。


「イルシアさん、変わっちゃったように見えて、凄く怖かった。初めて出会ったときからずっと大きくなっていて、ヘンな噂ばっかり入ってきて……やっと追いついたと思ったら、まるで別のドラゴンみたいになっていて……。でも、私を背負って村まで運んでくれたときと、ロックドラゴンから村を救ってくれたときと何も変わってなくて……本当によかった」


 ミリアが再び俺の鼻先へと抱き着いてくる。

 喋っていたミリアの笑顔が崩れて、ぽろぽろと涙が溢れてくる。


『ミリア……悪い。本当は話さないといけないこと……いや、話したいこと、山ほどあったんだ。だが、俺は……』


「大丈夫です、イルシアさん。今、世界がおかしなことになっていて……イルシアさんがその大事な役割を担っていて、それが私なんかじゃどうこうできることじゃないなんてこと……わかってますから。でも、ちゃんとお話できて、本当によかったです」


 ミリアがくしゃくしゃな笑顔を浮かべて、俺の瞳を見上げる。


 ミリアは私なんかじゃと言ったが、そんなことはねぇ。

 ミリアはこの世界の命運を担っている俺の身を、二度も救ってくれたのだ。


 一度目は負傷した俺を庇って、〖レスト〗で介抱してくれたとき。

 そして二度目は今だ。

 〖終末の音色〗に喰われそうだった俺を呼び戻してくれた。


「わかっておるとは思うが、悠長に惚気ておる場合ではないぞ」


 着物姿の長身の女……ウムカヒメが俺の前へと出てきた。


「わっ! ち、違います! そういうのじゃなくて……!」


 ミリアはバッと俺から離れる。


「キシィ……」


 その背を黒蜥蜴じろりと睨んでいた。


『……勿論、わかってるさ、ウムカヒメ』


 リーアルム聖国の聖女ヨルネスを倒した。

 ハレナエの勇者アーレスを倒した。

 アーデジア王国の魔王バアルを倒した。

 史上最強は魔王バアルだったというが、まだ一体残っている。

 恐らくはノアの森に嗾けられたであろう魔獣王だ。


 ウムカヒメが俺へと手を添える。

 白い光がパァッと輝き、俺の身体が少しだけ軽くなっていく。

 ウムカヒメの〖ハイレスト〗だ。


「ひとまずはよくやったと褒めてやる。だが、結局は神の声の掌の上だということを忘れるな。そしてまだ、最後の神の僕が残っておる、ということもな」


『ああ……』


 アロとトレントが、必死に魔獣王相手に時間を稼いでくれているはずだ。

 皆との再会は名残惜しいが、すぐに二人を助けに行かなければならない。

 俺を信じて、伝説級の魔獣王相手に必死に時間を稼いでくれているはずなのだ。


【その必要はなくなったよ】


 頭に声が響く。


「む、どうしたイルシアよ?」


 ウムカヒメが声を掛けてくる。


『神の声のヤロウだ』


 俺が返すと、ウムカヒメは唇を噛んで沈黙した。


【とんだダークホースというか、大番狂わせだよね】

【魔獣王ベヒモス……〖世界喰らい〗と呼ばれた巨獣は、既にキミの配下によって討たれたよ】


 俺は神の声の言葉を聞いて、頭が一気に冴えるのを感じた。

 アロとトレントは、伝説級ならば、時間稼ぎくらいはできるかもしれないと言っていた。


 だが、まさかの大金星を上げてくれた。

 アロとトレントは、俺が不在のまま、魔獣王を打ち倒してノアの森を救ってくれたのだ。

 神の声もさぞ驚いた様子だった。

 ザマア見やがれだ。


【まさか、あんな木偶の玩具と相打ちになるなんてね】


 その言葉を聞いて、俺は自分の頭が真っ白になるのを感じた。

 こいつは……何を言っているんだ……?

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