第756話 side:ニーナ

 ヴォルク、ウムカヒメ、アトラナート、そしてニーナ、玉兎。

 一同は王城を抜けて、王都中央で咆哮を上げる黒い巨竜へと接近する。


 先陣はヴォルクが切っていた。

 その斜め後方をウムカヒメが飛行する。

 アトラナートはその背後で、ニーナと玉兎を背に乗せていた。


 竜は大きく息を吸い込むと、周囲目掛けて出鱈目に黒い炎を吐き出した。

 建物の瓦礫の山が瞬時に蒸発し、一面は黒い焦土と化す。


「……イルシアめ、ついに自制が効かなくなったか。妾らが近づいても瞬殺されるだけかもしれぬな」


 ウムカヒメが息を吐き出す。


「違いと思いますにゃ」


「なに?」


 ニーナが口を挟み、ウムカヒメが眉を顰める。


「ドラゴンさん……近づいてほしくないから、ああやって牽制してる。私には、そんな気がします」


「フン、そうあってほしいものだな」


 ウムカヒメはニーナの甘い考えを鼻で笑い、速度を上げてヴォルクに並ぶ。


「攻撃して少しでも弱らせつつ……呼びかけ続ける。よいな、竜狩りよ。加減するなどと甘いことを口にするなよ。奴は本物の化け物だ。先代の神聖スキル戦争の生き残りの妾が言うのだ。我らなど、奴の前には塵に過ぎぬ。手を抜こうなどと、思い上がりにもほどがある」


「…………」


 ヴォルクは沈黙したまま疾走を続ける。


「ぺふぅっ!」


 玉兎がピンと両耳を立てる。


『ニーナ……来テル! 正気、戻ッテ!』


 玉兎の〖念話〗に、竜の身体がぴくりと動いた。

 僅かに震えた後、その双眸がニーナを捉えた。


「ドラゴンさん……もしかして、意識が……!」


 ニーナが表情を輝かせたその瞬間、ヴォルクが彼女達の乗るアトラナートの側部を蹴飛ばした。


「グッ……!」


 アトラナートの身体が大きく宙を舞う。

 投げ出されて落ちそうになるニーナを、玉兎の長い耳が懸命に掴んだ。


「ヴォルクさん……どうして……!」


 ニーナがヴォルクに真意を問う前に、それは起こった。

 突然大地が激しく震え、左右に裂けたのだ。


 ニーナ達は跳ね上げられることになったが、アトラナートが糸を近くの瓦礫に結び付け、辛うじて体勢を取り戻した。

 アトラナートはヴォルクとウムカヒメが歩みを止めずに先へ走っているのを視界に収めると、移動を再開する。


 ニーナは改めて、背後の地面へと目をやる。

 大きく捻じれるように抉れている。

 回避が刹那遅れていれば、バラバラになっていたことだろう。


「……イルシアの〖次元爪〗だ」 


 ヴォルクの言葉に、ウムカヒメが半ば呆れたように息を吐く。


「よく察知できたものだな」


「今まで感じたことのない程にドス黒い殺気を感じた。ただ、イルシアにまだ自我が残っているのは確かなようだな。刹那、動きが鈍った。それがなけば、今頃我らは仲良くあの世行きだ」


 ヴォルクはニーナと玉兎へと目をやる。


「とにかくイルシアへ呼びかけ続けろ。心に訴えるのは〖念話〗が一番であろう」


「は、はいですにゃ……」


 ニーナは目に涙を浮かべながら、辛うじてそう返す。


 ついに一同は、竜が前脚を伸ばせば届く間合いへと入り込むことができた。

 竜は真っ赤に染まった双眸を見開き、一同を睨みつける。

 前脚で自身の頭部を押さえつけていた。


「案外抑えられておるな。ウムカヒメよ、放っておいても自力で解除できるのではないのか?」


「そんな生温いわけがおるまい。まともに腕を振るえば妾らを殺めるとわかっておるからこそ、寸前のところで自制が働いておるのだろう。獣人の娘、もっと引き付けよ」


 ウムカヒメがちらりとニーナを睨む。


「ド、ドラゴンさん! ニーナですにゃ!」


「ぺふっ!」


 ニーナと玉兎の呼び掛けに、竜の目線が下がり、彼女を見た。


『ニー……ナ?』


 竜からの〖念話〗があった。

 ニーナは息を呑む。

 やはり目前の竜は、あのとき砂漠の地で自身を助けてくれた相手なのだと、彼女は改めて実感することとなった。


 そして、自身の呼びかけが明らかに響いている。

 無意味ではない。


 ニーナが呼び掛けている間に、ウムカヒメが高く跳び上がっていた。

 彼女が目を瞑ると、周囲を囲むように六枚の鏡が展開される。


「〖天水分神アメノミクマリ〗!」


 ウムカヒメが目を見開き、腕を降ろす。


 各鏡が光を帯びたかと思えば、それぞれの鏡面より水が発射される。

 魔力で極限まで加圧された、超高圧の水鉄砲である。

 放射された水に触れた地面が、ナイフを宛がわれた紙切れのように綺麗に切断されていく。


 六つの放射水が竜の身体を捉えた。

 轟音と共に、周囲に水蒸気が舞う。


「呼び掛けるのがメインではなかったのかウムカヒメェ!」


「たわけ、こんなもので奴がくたばるか!」


 ヴォルクが怒りを見せたものの、ウムカヒメの言葉通り、竜の体表には傷一つ付いていなかった。


 〖天水分神アメノミクマリ〗はウムカヒメの最大火力のスキルであったが、通用しないのは百も承知である。

 狙いはウムカヒメの魔力が込められた水蒸気の方にあった。


 ウムカヒメの本領は霧を用いた幻覚にある。

 特に〖天水分神アメノミクマリ〗の水は幻覚の効果を強化し、かつ触れた対象の〖幻影耐性〗を引き下げる効果を持つ。

 加えて興奮状態で我を失っている状態であれば、通常よりも幻覚が通りやすい。

 そして現状、竜は戦闘の疲弊とスキルの反動で、瀕死の状態である。


「〖天津甕星アマツミカボシ〗!」


 ウムカヒメの展開した霧が妖しく輝く。


 〖天津甕星アマツミカボシ〗は霧を利用し、偽りの五感を与えるスキルである。

 対象は完全に虚構の世界へ囚われることになり、現実を知覚できなくなる。

 そして変幻自在の幻影により、動きの一切をスキルの発動者であるウムカヒメにコントロールされることになるのだ。


 幻覚の中では最上位に位置するスキルであり、ウムカヒメの切り札である。

 発動まで手間が掛かるものの、命中すれば格上の相手であっても無力化し得るポテンシャルを誇る。

 竜がニーナと玉兎に気を惹かれていたからこそ発動を通すことができた。


 万全の状況が整っていた。

 伝説級上位のアポカリプスとはいえ、完封はできないものの、その知覚能力を大きく下げることくらいはできるはずであった。


 ウムカヒメの計算違いは、目前の竜が、進化経路より幻覚に対する絶対の耐性を得ていることにあった。

 オネイロスの保有していた耐性スキルが〖幻影耐性〗でなく〖幻影無効〗だと知っていれば、彼女はこの策を決行しなかったはずである。


「オオオオオオオオオオオオオッ!」


 悍ましい咆哮が響く。

 一同の動きが完全に麻痺したその刹那、竜の前脚が地面へ叩き付けられた。

 出鱈目な威力の一撃が容易く地面を割り、空へ瓦礫が飛び交った。


 ニーナと玉兎の乗るアトラナートへも、巨大な岩塊が飛来していた。

 ニーナ達は疎か、アトラナートも自身へ飛来する岩塊に対し、まともに反応できないでいた。


 アトラナートが押し潰されると死を覚悟したそのとき、目前へとヴォルクが滑り込んだ。


 ヴォルクの振るう黄金の剣が、形を変えて広がり、岩塊を体表で滑らせてその軌道を変える。

 岩塊はアトラナートのすぐ隣を抜けていった。


 黄金剣の正体……自我を持つ金属、マギアタイト・ハートの能力である。

 マギアタイト・ハートには、〖衝撃殺し〗と〖受け流し〗のスキルがある。

 自我を持った剣と、剣を自身の一部のように扱えるヴォルクだからこそできる、息の合った神業であった。


「ありがとうございますにゃ……! さすがヴォルクさん!」


 だが、竜の暴走はそれに留まらなかった。

 続けて一度、二度、竜の前脚がその馬鹿げた威力を以てして地面を叩く。


 アトラナートは大地の揺れた衝撃に跳ね飛ばされる。

 全身を激痛が蝕み、視界が、思考が安定しない。

 素早く糸を放出して体勢を整えようと試みるが、アトラナートは出鱈目に反転する視界の中で、血塗れで倒れるウムカヒメの姿と、岩に押し潰されるヴォルクの姿が見えた。


 そして続けて、自身に迫る無数の瓦礫を知覚した。


「避ケキレナイ……」


 空中でそう判断したアトラナートは、ニーナと玉兎を糸で結び、地面目掛けて投げ出した。


 玉兎は咄嗟に、ニーナを守るために彼女を丸呑みにした。

 玉兎は地面に叩き付けられて跳ねた後、口の中からニーナを出した。


「ひ、ひにゃあ……」


 地面を這うニーナ。

 状況を確認するため周囲を見れば、頼みであったウムカヒメ、ヴォルク、アトラナートが、血塗れで倒れている姿が見えた。


「う、嘘……」


 ウムカヒメの当初の危惧通り、正気を失った瀕死の竜相手に、散々手心を掛けられた上で、まるで戦いになっていなかった。


 ニーナは視線を感じ、顔を上げる。

 頭上では、竜が彼女達を見下ろし、大きく左の前脚を振り上げているところであった。


 竜は嗜虐的な笑みを浮かべている。

 ニーナは頭が真っ白になった。


「ぺふぅっ!」


 玉兎が竜へと飛び掛かり、上げているのとは逆の地面についている前脚へと、長い耳で鞭のようにぺちぺちと叩く。


『オ腹……空イタ……食糧、持ッテキテ!』


「タマちゃん、何を……」


『ニーナモ、オ腹減ッタッテ! ネェ!』


 玉兎の〖念話〗に、ニーナも遅れて意図を理解した。

 玉兎は昔自身が度々呼び掛けていた言葉を竜へとぶつけ、昔の記憶を呼び起こそうとしているのだ。

 耳でペチペチと叩いて催促している様子も、ニーナにとって懐かしいものであった。


「ドラゴンさん……負けないでにゃっ!」


 ニーナが目を瞑って叫ぶ。


「グ……グゥ、ウウウ……!」


 竜の動きが鈍る。

 掲げた前脚が震え、行き場をなくしたように、ゆっくりと下ろされる。


「ドラゴンさん……!」


 寸前のところで、竜の自我を引き戻すことができたのだ。

 ニーナはそう考えて竜の顔を見上げた。

 だが、竜は噛み締めた牙を震わせ、苦悶の表情を浮かべていた。

 依然、竜はまだ、正気と狂気の狭間に囚われている。


「オオオオオオオオオオ……!」


 周囲に巨大な黒い魔法陣が展開される。

 ニーナと玉兎は、不安げに魔法陣へと目をやった。


 彼女達には知る由もないが、これは範囲内に地獄の業火を召喚する魔法、〖ヘルゲート〗の予備動作であった。

 発動を許せば、一同諸共地獄の炎で蒸発させられることになる。


「ぺふ……ぺふぅっ!」


 終わりを感じ取った玉兎が、必死に竜の前脚を耳で叩く。

 だが、竜はもう反応を示さない。


 ニーナは竜の頭部を見上げる。

 苦しげに牙を噛み締めながらも、勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。

 彼女の知る『ドラゴンさん』の顔ではない。

 ニーナは直感的に、作戦が失敗に終わったのだということを理解した。


 黒い魔法陣が強い光を帯びていく。

 ニーナが諦めかけた、そのときであった。


「キシィイイイイッ!」


 特徴的な鳴き声が響く。

 ニーナが後方を振り返れば、美しい竜のような魔物が飛来しているのが見えた。


 長い二又の尾を揺らし、背からは蝙蝠に似た翼が伸びている。

 そしてその背には、黒髪の、ローブを纏った少女の姿があった。


 ベネム・ゴデスレチェルタこと黒蜥蜴と、旅の白魔術師ミリアであった。

 彼女達はリーアルム聖国より飛んだ竜を追って、このアルバン王国へと現れたのだ。


「グ……オ……」


 竜の目が、空に飛ぶ黒蜥蜴とミリアへ釘付けになる。


 そのとき、竜の周囲に漂う霧が、再び妖しい光を帯びた。

 ウムカヒメのスキル〖天津甕星アマツミカボシ〗である。


「ここが最後の好機……!」


 辛うじて意識を取り戻したウムカヒメが、地面に伏したまま竜へと手を伸ばしていた。


 絶対の耐性を持つ竜に対して、幻覚で動きを縛ることはできない。

 それが幻覚であると瞬時に暴かれてしまうためである。


 仮に光を束ねて精巧な分身を作り上げれば、幻影スキルの区分であったとしても、オネイロスの目にもその分身を見ることができる。

 だが、オネイロスの耐性は直感的にそれを、ただの光の交差が作ったまやかしに過ぎないことを瞬時に理解させる。


 しかし、耐性があり幻覚だと暴かれようが、幻覚を知覚させることそれ自体は可能なのだ。


 ウムカヒメが〖天津甕星アマツミカボシ〗によって、竜の五感へと知覚させた幻。

 それは竜の召喚した黒き炎が、ここに集まっている者達を焼き殺す幻影であった。


「グゥ、オオオオ……!」


 目前に転がる凄惨な焼死体。

 肉の焼ける音と、それらが焼け落ちて炭になる臭い。

 煙が肌を擽り、口内を抜ける感触。

 〖天津甕星アマツミカボシ〗の作り上げた幻は、本物以上の誇張された生々しさを伴って、竜の五感へと作用した。


 竜はその耐性によって瞬時にただの虚構であると理解こそしたものの、強烈な精神攻撃として作用していた。

 顔を顰めて強く目を瞑り、堅く口を閉ざす。


 だが、それでもなお、〖ヘルゲート〗の魔法陣は消えずに残っていた。


 黒蜥蜴が、竜の顔のすぐ目前で滞空する。


「やっと捕まえました……イルシアさん」


 ミリアは竜の鼻先へと、両腕を伸ばして抱擁した。

 王都の中心で爛々と輝いていた黒い魔法陣が、その光を失っていく。

 同時に竜より迸っていた黒い瘴気が、大気に霞むように消えていった。


 〖終末の音色〗の奇怪な音が鳴り止む。

 赤黒く染まっていた空が、元の青空を取り戻していった。

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