第538話 side:アルヒス

「……なんだ、聖女様、こういう場面も想定してたんだね、ね」


 アルアネがむくりと起き上がる。


「アルアネ殿? 何を……」


 そのまま素早く、アルアネは騎竜の上を這うように移動して、隻腕でオウルへと背後から抱き着いた。


「なっ、何をする! 止めろ、止めろ! 止めろ化け物! 止めてっ、止めてくれ……! 止めてください、お願いします……オイラ、村にもきっといつか帰るって……両親とも約束して……!」


「かわいそう……ああ、かわいそう、オウルさん。こんなに脅えて、本当にかわいそう。ごめんね、ごめんね、オウルさん。すぐに、アルアネが殺してあげるからね? ね?」


 アルヒスはアルアネの異常な行動を見て、咄嗟に剣を抜いた。

 しかし、アルアネの牙がオウルの首に突き立てられるのには間に合わなかった。


「止めてください! 嫌だ、嫌っ……あ、ああ、あああああ!」


 皮膚が破け、肉が大きく抉れる。血が勢いよく噴出した。

 オウルの目から生気が失せ、騎竜の上へと転がる。

 アルアネは恍惚とした顔で口の周りに付着した血を舐めとった後、屈んで再びオウルの首から血を吸い上げ始める。

 あっという間に騎竜の上がオウルの血で汚れた。


「何をしている!」


 アルヒスが剣を構えたまま叫ぶ。

 その声に応じる様に、死んだオウルが起き上がった。

 白目を剥いており、皮膚は浅黒くなり、病魔のような斑点が身体中に浮かんでいた。

 アルアネの、血を吸った相手の身体へ自身の血を流し込んで死者を操るスキル、〖ブラッドドール〗である。


「……リ、〖リグネ〗」


 オウルがアルアネへと白魔法の〖リグネ〗を使った。

 白い光がアルアネを包み込む。

 彼女の抉れた身体や、欠損していた片腕が、見る見るうちに回復していく。

 アルアネの〖ブラッドドール〗は、死者のスキルでさえも再現して使わせることができるのだ。

 そのことはアルヒスも既に知っていた。


「ま、まさか……」


 アルヒスが青褪めた顔で剣を降ろす。

 リリクシーラは、オウルが言うことを聞かない場面が出て来るのではないかとアルヒスが提言した際に、手がないことはないのだと、そう口にしていた。

 それは、アルアネの〖ブラッドドール〗を用いて、オウルを従順な死体へと変えてしまうことだったのだ。


 アルアネが手首や身体を回し、身体の調子を確かめる。

 そして遠くから追って来る、アンデッドの少女達へと目を向ける。

 距離は充分に開いているが、この地の霧の中でも、どうにか食らいついて後を追ってきている。


「これでアルアネがね、アルアネがね、あの子達を処分できる。まともに身体が動くのなら、あの子達を殺すことくらい簡単だもの」


 アルアネは舌舐めずりをした後に、今なお剣を構えたままのアルヒスへと目を向けた。


「そのアルアネに向けた剣、仕舞わないの? 聖女様のお友達の、アルヒスさん?」


「わ、私は……」


「いいよ? アルアネと遊びたいならね、遊んであげるよ。アルアネもね、アルアネも、格好よくて聖女様と仲のいいアルヒスさんのこと、食べてみたいと思っていたの。アルアネも色々考えたけれど、アルヒスさんはやっぱり食べておいた方がいいかなって」


 アルアネが口を開き、牙を覗かせる。


「な、何を言っている!」


 アルアネの爪が、身体から滲み出た赤い結晶に象られて禍々しい凶器へと変貌する。

 少女はそれを振り上げ、騎竜の背を引き裂いた。

 騎竜が叫び声を上げて落下を始める。


「きゃあっ!」


 アルヒスも悲鳴を上げ、騎竜へとしがみついた。

 辛うじて聖騎士として剣は手放さなかったが、落下しながらも淡々と爪を構えるアルアネからしてみれば、その姿はあまりに無防備だった。


「アルヒスさん、いただきます」


 アルヒスが騎竜を背に落下したのと同時に、アルアネは再び腕を振り上げていた。

 アルアネの顔にいつも浮かべている軽薄な笑みはない。

 悪童鬼の相貌が、アルヒスの心を覗き込むように、じっと彼女の瞳を窺っていた。


 身体が騎竜越しに地へ叩きつけられた衝撃を感じた瞬間、アルヒスは死を覚悟した。

 だが、アルアネの振り下ろした凶爪は、彼女の頬を掠め、騎竜の肉を抉っていた。


 アルアネは腕を掲げ、爪に纏っていた血の結晶のコーティングを解除してただの血液へと戻し、指についたそれを舌でしゃぶった。


 それから五本の指をピンと伸ばし、何かを数える様に一本ずつ折っていく。


「……オウルさんで、五人目だったかな? 五人目だったね? ああ、アルアネ、すっかり忘れてた」


「な、何を言っている! この、バケモノめ……!」


 アルヒスは声を荒げ、アルアネへと剣を向ける。


「その様子……本当に聖女様、ズルせず、何もアルヒスさんに言わなかったんだ。うん……アルアネね、聖女様なら、きっとそうあってくれると思ってたの」


 アルアネは感心した様に言う。

 アルヒスには彼女の言葉の意味がまるで理解できなかった。

 剣を構えたまま、凍り付いていた。

 アルアネは来た道の方を睨み、アルヒスへと背を向けた。


「どこかへ行ってよ。アルヒスさん、弱いから邪魔なの。あんな魔物二体、アルアネだけでも充分だもの。わかるでしょ? 自分じゃ、アルアネの見張りにもならないの。これ以上残るなら、今度こそアルアネが殺してあげるけど」


 アルヒスはそれを聞き、ゆっくりと剣を降ろした。

 アルアネの言動はその全てが意味不明で、行動の指針もまるで理解ができなかった。

 だが、今の言葉が本気らしいということは伝わっていた。


 自分では本気を出してもアルアネに敵わないことはアルヒスも承知の上である。

 ならば無意味に戦いを挑むよりもこの場から離れることに徹し、オウルのアンデッド化と、アルアネの乱心とも取れるこれらの言動をリリクシーラに伝えた方が先の展開に繋がる。


「……でも、聖女様のところはダメだよ、ダメなの。アルヒスさんはね、きっと邪魔になるもの。すっごく足を引っ張ることになる。アルヒスさんは、この地の隅っこで、全部が終わるまで震えていればいい。あなたにできるのは、それくらいのことだもの」


「あまり見縊ってくれるなよ、悪鬼め。聖女様の足を引っ張るくらいならば、死を選ぶ。我ら聖騎士団とは、そういうものなのだ。そして何より、聖女様が一番そのことをわかっている」


「そうね、聖女様も、アルアネと同じ罪人だから。でもきっと、アルヒスさんは戻らない方がいい」


「……お前のやりたいことも言いたいことも、何一つ理解ができない。異常者……いや、化け物め」


 アルヒスはそう吐き捨て、その場から駆け去った。

 方角からして、やはりリリクシーラのいる方へと戻ろうとしていることは明白だった。

 アルアネは無表情にその背を見つめていたが、すぐに別の方面へと向き直した。


「逃げればよかったのに。きっとあのドラゴンさんも、責めなかったよ?」


 視線の先には、アルアネへと向かって来るアロ達の姿があった。

 アルアネの背後で、死者となったオウルがゆっくりと立ち上がる。

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