第454話

 俺の頭上で、再びベルゼバブが、下腹部の異様に膨れ上がった巨大な蠅の化け物へと姿を戻した。


『そんな翼じゃ、もうまともに飛べやしないだろォ、一瞬で殺してやる!』


 頭上からベルゼバブの六つの腕が、俺目掛けて連続で振り下ろされる。

 俺は翼で水を押し進む。

 ベルゼバブの連撃によって昇る水飛沫が、どうにか奴の視界から隠してくれた。

 俺は死角に入り続け、どうにか距離を取ることができた。


 俺は海面を脱し、麻痺した左の翼を必死に動かし、再び空中へと飛んだ。

 だが、やはり速度が出ない。

 ここが、もう、今の状況で逃げ続けるには限界だ。

 今や、人化しなくとも俺の飛行速度に追いついてきている。


『次はヘマしねぇぞォ! 〖インハーラ〗!』


 奴の下腹部にバカにデカい口が開き、その前に巨大な魔法陣が浮かび上がる。

 来る! 奴の吸い込みから続く、強化されたブレス攻撃のコンボが!


 海水が宙を昇り、奴の大口の中に引き上げれていく。

 俺は羽搏きながらも、翼を大きく広げている状態を極力キープし、吸い寄せられる際に翼に掛かる抵抗が少しでも大きくなる様に試みる。

 だが、今の状態だと、完全には〖インハーラ〗に抗えねぇ。

 少しずつ、少しずつ身体が後退を強いられていく。


『ハハハハハハハハァ! このままブッ喰い殺してやらァ!』


 堪えろ、堪えろ、堪えろ!

 今はとにかく堪え凌げ! ここを凌ぎ切りさえすれば――そうすれば、逃げ切れる道が見える。

 もっとも、蜘蛛の糸の様にか細い突破口ではあるが……!


 不意に、背後からの吸引が途切れる。

 奴のスキル、〖インハーラ〗が途絶えたのだ。

 やった、俺は堪え切った!


 後は、全力で上方へと飛ぶ。

 次の瞬間には、奴の〖蠅王の暴風〗が来てもおかしくはない。

 とにかく今は急がねばならない。


『恐怖に血迷ったなァ!』


 ベルゼバブがせせら笑う。


 言葉の意味は分かる。

 奴の〖蠅王の暴風〗から逃れるには、俺が初見のときに偶然やった様に、奴の周囲を飛び交って別方面に立つのが一番だ。

 こういうふうに、至近距離から中途半端に距離を取るのが一番危険な行為だ。

 逃げるのに精いっぱいで危険な道へと進む、愚かなドラゴンに見えただろう。

 だが、それでいい。

 俺は、奴の攻撃を、一発受ける覚悟でいる。


 だが、それでも今は、とにかく上方へ向かう。

 まだ奴の攻撃は来ていない。

 俺は息を整え、〖自己再生〗でHPを回復していく。


 背後から圧倒的な魔力の高まりを感じる。

 来る、もう、来る!

 俺の判断が正しいのかなんてわからねぇ、だが、選択肢が他にない。


 俺は〖人化の術〗を使った。

 俺の身体が、どんどんと縮小していく。

 俺は翼をなるべく残し、大きく宙に張った。


 〖人化の術〗は、最大HP、攻撃力、そして防御力を半減させる。

 MPがジリ貧なので最大HPの半分もHPをキープできないので、この点はさしてデメリットではない。

 だが、防御力半減状態で本当に奴の一撃を生き残れるのかは、賭けでしかない。

 あの毒に染まった海面を見て、奴の攻撃のメインが猛毒の付与にあると考え、その分純粋なスキル自体の威力がやや見かけよりも控えめになっているのではないかという、希望に基づいて策を立てた。


『小さくなったからって、俺様の一撃から逃れられると思ってんのかァ! 消し飛ばしてやるよォ!』


 奴の下腹部の固く閉ざされていた口が、やや上方に浮かぶ俺へと照準を合わせ、開かれる。

 俺は完全に奴を振り返り、ピンと翼を張った。

 直後、俺の全身を暴風が襲い掛かってくる。


 何がどうなっているのか、わからない。一瞬で、世界が三度反転した。

 身体中に鋭い痛みが走り、意識が削がれる。伸ばした右腕が、突如として暴風に攫われて飛んでいった。


 それは長い時間に思えたが、もしかしたら一瞬だったのかもしれない。俺にはわからない。

 とにかく、気が付くと俺は身体全身の感覚が薄くなっており、目が開かなかった。

 辛うじて、冷たい土の上に転がっていると、そのことだけはわかった。


 作戦は、想定通りに進んだ。

 いや、作戦とはいえねぇ、ほとんどただの賭けだ。

 俺は奴の〖蠅王の暴風〗を利用し、〖人化の術〗で自身の質量を押さえ、奴より上方に立つことで、敢えて吹き飛ばされて距離を取ったのである。


 だが、やはりギリギリだった。

 HPがもうほとんどないのだろう。それに、身体全身を毒で蝕まれている。

 この状態では、せっかく距離が取れた上に、運よく陸地にまで戻れたのに……奴が追ってきたら、逃げ切れねぇ。


 勝ったのに……根性で、どうにか逃げ切れる糸口を掴んだのに、結局、連戦とステータス差が祟って、俺はこんなところで、死ぬのか。

 せめて、相方がいて、ステータスも全快状態だったのならば、ベルゼバブ相手とはいえ、食い下がれたかもしれねぇのに……。


「――――? ――――!」


 ……なん、だ? 何かが、俺の身体を小突いている?

 何かひんやりとしたものが身体に触れる。毒の痺れが、少しずつ抜けていく、そんな気がする。


 何が起きている?

 俺は耳と眼球を、〖自己再生〗で治癒してみた。


「キシッ?」


 聞き覚えのある鳴き声が聞こえて来た。

 俺は目を見開く。今の人化状態の俺よりも一回り大きい、巨大な黒い蜥蜴が、至近距離から俺を見つめていた。


「く、くろ、とかげ……?」


「キシィッ!」


 黒蜥蜴が嬉しそうに鳴き、俺へと伸し掛かり、顔をペロペロと舐めて来る。

 痛みが引いていく。

 これは〖解毒〗……? このスキルはスライムに取られたはずだ。

 だが、別個体だとは思えない。間違いねぇ、昔より随分と大きくなってはいるが、こいつは、あの時、森で別れたあの黒蜥蜴だ。


 毒だけじゃなく、痛みも引いている気がする。

 何か上位互換のスキルを進化の合間に覚えたのかもしれねぇ。


 九死に一生を得た。

 ルインを引き付けている間に、偶然黒蜥蜴の目に留まり、興味を引いたとでもいうのだろうか。

 まさに、奇跡としか言いようがない。

 ほとんど諦めていた状態で、最低限のHPの確保と、猛毒の治癒ができた。


『ありがとよ、黒蜥蜴……でも、今は、危険だ。ヤベェ奴に追われてるんだ。お前は、ここを離れ……』


 俺は〖念話〗でそう返しながら立ち上がろうとして、すぐその場に倒れた。

 身体に目を向ければ、残していたはずの両翼と、右腕がなく、残った手足もグラグラになっており、俺の血だまりが辺りに出来ていた。

 ク、クソ……身体、身体が、やっぱり、もう持たねぇのか……?


 一瞬の、沈黙があった。

 俺は地面の上に倒れ込みながら、黒蜥蜴へと目を向ける。


『とにかく、お前は、逃げろ』


 黒蜥蜴は、俺が飛ばされてきた遠くの海へと目を向けた後、何かを思案している様に俺へと視線を戻す。

 俺は試しに、黒蜥蜴へと意識を戻す。


『少シ、ドウニカ、小サク……』


 小さく……?


『形や動きを気にせず、とにかく小さい肉塊の様になら、できるかもしれねぇ』


 MP減少も、今の高精度な人の姿よりもマシだろう。だが、それに、何の意味が……。


「キシッ、キシィッ!」


 黒蜥蜴が声を荒げて鳴き、俺を急かす。 

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