第309話 side:アザレア
暴風が私の身体を切り刻みながら通過して行く。
背後から、ハンズとジェイドの悲鳴が上がった。
少し遅れて、二人が地面に叩きつけられる音がやや遠くから聞こえてくる。
生死はわからないが、もうまともに戦える身体ではないだろう。
ただ、今の風魔法のおかげで霧は大分晴れたはずだ。
元々霧は、アンデッドが死を偽装するためと攻撃魔法に専念するためにかなり薄められていた。
私の周辺の視界は充分クリアになっているだろう。
他の魔物から魔力を供給していたとはいえ、奴の魔力もすでに底を尽き掛けている頃合いだ。
広範囲に及ぶ霧の維持、身代わりの用意、そして先ほどの風魔法攻撃。
もう大技は使えるような余裕はないと考えていいだろう。
顔を上げて目を開いたとき、目の前には一体の大きな蜘蛛がいた。
アレイニー……ただの、Dランクの魔物だ。
とはいえ、あの糸は計画的に使われればなかなか侮れないところがある。
後に控えているウロボロスに意識が向いていたためとはいえ、小娘の策略に翻弄されてここまでしてやられたとはとんでもない失態である。
トールマン閣下が見ておられれば、さぞ私に失望したことだろう。
前方のアレイニーが糸を吐くと同時に、他の方向からも同様の音が聞こえてくる。
囲まれていたようだ。
「なるほど……風魔法で跳ね飛ばした後に、一気に追撃して倒し切るつもりだったか。見事だ。接近戦を徹底して行わず、最後には接近を餌に誘き寄せて罠に掛け……隙を見せたところで一気に叩く」
考えつくことよりも、実行しきることの方が難しいだろう。
壁役もなしに中距離を保っての戦闘を続けるなど、そうそうできるものではない。
プレッシャーも掛かっていたはずだ。
一つ崩れれば纏めて剣の餌食になるというのに、よくやってのけたものだ。
私の情報もほとんどない状態でやり通すには、かなりの度胸がいる……もっとも、相手方にとってはそれが幸いした形ではあるが。
私が魔術師タイプだと知っていれば、こんな策はまず取れなかっただろう。
「アンデッドに身を堕とし、命を懸けて住処を守ろうとする……その姿勢は、素直に賞賛に値する」
目を見開き、深く刻まれて感覚の薄れた腕を気力で動かして地面に突き立てた剣を引き抜く。
「だが、相手が悪かったな!」
風魔法をまともに受けたせいで、かなりの深手を負った。
だが、ハンズとジェイドが高く跳ね上げられてから地面に叩きつけられたことを思えば、私の傷はまだ浅い。
元より、身体能力は彼らよりも数段上の自信がある。
まだ、動ける。
万全ではないとはいえ、まともに戦えないほどではない。
もう充分弱らせたと判断して接近してきたのだろうが……とんだ計算違いだったな。
四方から吐き出された糸の位置を音から感知し、剣ですべて叩き斬る。
後方からはアンデッドが、糸の後を追うようにこちらへと突っ込んできていた。
強化した大きな腕を振りかざしている。
糸で絡めて無防備になったところを、あの腕で仕留めるつもりだったのだろう。
私はアンデッドの肥大化した腕を、剣の腹で叩いて身体ごと地に落とした。
アンデッドは態勢を崩したまま地面に着地する。
私が追撃のために剣を振るうと、アンデッドがこちらへ手を伸ばしてくる。
「〖クレイウォール〗!」
アンデッドが叫ぶ。
私とアンデッドとの間に、土の壁がせり上がってくる。
「はぁっ!」
腕を真っ直ぐ伸ばし、土の壁を剣の先で一気に貫いた。
壁越しに手応えを感じた。
土の壁が崩れ、私の剣に腹部を貫かれたアンデッドの姿が露わになった。
少女を模っていたアンデッドの皮膚に罅が入り始めた。
肌質も、柔らかそうな少女の肌から、土のようなものへと変色していく。
今度は偽物ではない。
入れ替わるような隙は与えなかった。
生命力と魔力が大幅に減り、身体を維持できなくなっているのだ。
「貴様のことは、覚えておいてやろう。私が負けていても、おかしくはなかった。保険は掛けていたが、本当にここまで追い込まれるとは思ってもみなかった」
これで剣を引き抜き、胴を両断すれば終わりだ。
そう思い手に力を加えたが……剣が、抜けなかった。
剣に目を向ければ、貫いた腹部から漏れているアンデッドの土が、剣に絡まってくっ付いている。
剣に引っ付けた上で、魔力を込めて土を固めているようだ。
「なっ!」
まさか、貫かれた直後にこんな手を取ってくるとは思わなかった。
間に土の壁さえなければ、すぐさま引き抜いて二振り目を放てていたはずだ。
アンデッドも狙ってやったわけではないだろうが、執念が手繰り寄せた結果であることに間違いない。
アンデッドが、通常サイズの腕を剣の刃に添えて押さえつける。
手は剣に触れるとぐにゃりと歪み形を失い、剣にこびりつくようにまた固まっていく。
そして逆の大きな手を、一気に私に向けて振り下ろしてきた。
剣の柄を放して下がろうとしたが、いかんせん距離が近すぎた。
このままでは避けられない。
ただでさえダメージを負っている今、下級とはいえ魔物に囲まれている状態で一撃を受けることは死に直結する。
アンデッドを倒すことは容易だが、その場合は奴の攻撃を一度は真正面から受けることを許容しなくてはならない。
そうなれば、体勢を立て直すよりも先に蜘蛛に集られるのが目に見えている。
私がここで倒れれば、閣下は『飢えた狩人』の大半をただで失い、少ない部下と共に森を脱することになる。
そうなれば王への道は完全に閉ざされる。
私はまだ、ここでやられるわけにはいかない。
ここで魔力を使うのは不本意であるが……他に、選択肢がない。
「……結局、使わさせられたか」
左手をまっすぐ伸ばし、アンデッドへと向ける。
この距離ならば適当な魔法を撃てば、フレアでなくとも容易にアンデッドの頭を吹き飛ばすことができるはずだ。
その後にゆっくりと蜘蛛を処理していけばいい。
撃つ魔法は……〖ファイアスフィア〗にしておくか。
問題なのは、ここで魔法を撃てば、後のウロボロスとの戦いで撃てる〖ドラゴフレア〗の数、威力、撃てるタイミングに、支障が出かねないということ。
だが、これも仕方がない。
ここで死ぬことだけは絶対に避けねばならない。
「ファイアスフィ……」
途中で、私は言葉を途切れさせた。
視界の端に、『飢えた狩人』の隊員に配られる服を着た兵の姿が駆けてくるのが見えたからだ。
頼んでいた援軍が間に合ったのだ。
思いの外、近くにいたようだ。
そしてどれだけ近くにいたとしても……今の短時間で単独で間に合うのは、一人しかいない。
今回第一部隊は閣下と共に行動する予定だった。
そのため、閣下の不興を買ったばかりであるネルは理由を付けて他の部隊に預けて待機させておいた。
元より、今回のリトヴェアル族の殲滅はネルには向いていない仕事ではあった。
だからこそネルに見せつけて慣れさせておきたいという考えもあったのだが、閣下がこれ以上悪い癖を出さないことを優先することにしたのだ。
結果としては、ネルを控えさせておいたのが吉となった。
ただ……さすがに、この一撃には間に合わない。
ここだけは私が自力で凌ぐ必要がある。
避け切ることはできない。下手に相討ちを取れば命を落としかねない。
私は左手を突き出した姿勢のまま、肩を前に出した。
必然的に、アンデッドの大腕による一撃は私の肩を狙うことになった。
私は伸ばした腕をアンデッドの大腕とかち合わせる。
尖った大爪が、私の服と皮膚を抉り取る。
「ぐうっ!」
私はその勢いに押され、その場で膝を突いた。
アンデッドはよろめきながら後ろへと下がり、がくりと肩を下げた。
彼女も限界が近いらしい。
辺りの蜘蛛が、私へと一斉に飛び掛かって来る。
一手稼ぐことに成功した。
強引に身体を狙われていれば、もっと深刻なダメージを負っていた。
そういう意味では賭けだった。
だが、これで私の勝ちだ。
飛び込んできたネルが、剣の鞘で蜘蛛を払いながらその場で回り、その勢いを活かしてアンデッドへと回し蹴りを加える。
アンデッドは腕の重みに引き摺られるように不安定に宙を舞い、地面へと落下する。
「あう……」
アンデッドの独特の真紅の目が、口惜しそうに私を睨む。
「ア、アザレア様……大丈夫、でしょうか?」
「ああ、お前のお蔭で助かった。よくやった、ネル」
ネルのアドバンテージ。
それは圧倒的なスピードだ。
ルールを取り決めた剣の試合ならば、私とてネルには絶対に敵わない。
フェリス・ヒューマの部族の中でも、ネルは『神の足』と呼ばれていたという。
「う、腕の傷……ここまで深いと、回復魔法でも、完治しないのでは……」
「問題ない。私は、魔術師だ」
あのドラゴンに私の剣が刺さることはまずないだろう。
攻撃力も、速度も、まったく足りていない。
この一大事に役に立たないのであれば、私の腕など不要だ。
「それよりも、あのアンデッドを……」
ちらりと目をやれば、蜘蛛がアンデッドを持ち上げてそそくさと逃げていくところだった。
こちらが回収し損ねていた子供も、蜘蛛の一部が早々に背負って戦場から離脱させていたようだ。
「ちっ! ネル、奴らを追って始末しろ! 今ならば簡単に仕留められるはずだ!」
「し、しかし、その怪我……一刻を争います。早く、第四大部隊と合流して治癒してもらわないと。それにアンデッドの一撃を受けたのならば、何らかの呪いをもらっているかもしれませんし……。他の人もすぐに来るとは思いますが……僕なら、少しは他の人より早くにアザレア様を連れて移動することができますから」
「…………」
確かに……呪いの線もある以上、慎重に動かなくてはならない。
第四大部隊には白魔法に秀でている者も多い。
念のために早めに調べてもらった方がいいだろう。
もっともネルは先ほどの蜘蛛を見ているだろうから、子供を連れて逃げた相手を追いたくない、という気持ちもあるのだろうが。
アンデッドは回復能力が高いため、再びあの小娘のアンデッドが仕掛けてくることもあるかもしれないが……相手の使える技は、もう八割方把握できているはずだ。
情報がある以上、同じ奇計に掛けられることはない。
警戒を促してさえいれば、さほど酷いことにはなるまい。
ましてや、ウロボロスと比べれば些事である。
ここは退きさがるべきか。
それより……問題は、ネルのモチベーションをどうやって上げるか、か。
ネルは風魔法で跳ね飛ばされて身体があらぬ方向に曲がっているハンズとジェイド、握り殺されたウェインの方へと目をやり、目を細める。
「今回は……その、撤退、でしょうか……」
「ああ。リトヴェアル族と戦うのは、止めだ。向こうに残っていた大部隊はほとんど壊滅している。予想外の事態が起こった」
「そう……ですか」
ネルは複雑そうな表情を浮かべていた。
元々ネルは、リトヴェアル族の虐殺には反対していた。
そういう意味ではほっとしている気持ちもあるのかもしれない。
だが、それは同時に、中止せざるをえないほど『飢えた狩人』内での死人が多かった、ということを意味する。
私の手前ということもあり、安堵を顔に出すような真似はしないだろう。
「……ただし、このまま下がるわけではない。トールマン閣下の面子と、王への道も懸かっているのでな。だが、安心しろ……ネル。お前に、原住民を殺せとは言わない」
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