カリカリ油揚げのシーザーサラダ あやかしと1Kで二人暮らし

相沢泉見

カリカリ油揚げのシーザーサラダ 1




 ほんのりと甘い香りを含んだ春の風が肩までの髪をふわりと持ち上げ、瑤子ようこはふと空を見た。

 墨を幾重にも塗り重ねたような夜空に、桜の花びらが漂っている。

 午後十時。普段ならとっくに風呂に浸かって、のんびりしている時間だ。なのに、今日は退勤間際に上司から資料の作成を頼まれ、すっかり帰りが遅くなってしまった。本当は引き受けたくなかったのに、勤続二十年の課長が入社三年目の瑤子にぺこぺこ頭を下げる姿を見たら、断るに断れなかったのだ。

 というわけで、こんな時間だというのに夕飯もまだ済ませていない。右手に提げたコンビニ袋の中身が、今夜のご馳走である。

 何の変哲もないハンバーグ弁当だが、これがお値段三百八十円と破格の割になかなか美味しい。しがないOLである瑤子にとっては、文句の付け所のない一品だ。

 だが本音を言えば、疲れて帰った夜こそ、身体に優しいものが食べたい……。

(まぁ、こればっかりは仕方ないか。私、お料理苦手だしね)

 ふぅー、と一つ溜息を吐き、瑤子は空いている左手でスプリングコートの襟をかき合わせた。

 桜の花びらが、相変わらず頭上を舞っている。すっかり春だというのに、夜はまだまだ寒い。

 最寄駅から自宅のアパートまでは徒歩で二十分。すでに十五分は歩いた。

 このあたりはいわゆる下町で、お年寄りが多いせいか、日が暮れると途端に人通りが少なくなってしまう。

 今日は帰りが遅くなったのもあり、道を歩いているのは瑤子だけ――かと思いきや。

(あれ……?)

 前方に妙なものを見つけて、思わず立ち止まった。

 二十メートルほど先。ポツンと灯った街灯の下に、やたらと大きな物体がある。それは時折もそもそと動き、そのたびに何かが光を反射してきらきらと輝いていた。

 何度か目を凝らしてみて、曜子はそれが『人の形』をしていることに気が付いた。

 見た目からすると男性。年は若そうだ。二十歳前後だろうか。まだ寒いのに、身に付けているのは半袖のTシャツ一枚に擦り切れたデニム。そして、ボロボロになったスニーカーだけ。

 やや身を屈めているものの、それでも平均的な日本人の体格を保っている瑤子と比べて、頭一つ背が高い。一見細身だが、半袖のTシャツからにゅっと突き出した上腕には、しなやかな筋肉がしっかりついている。

 何よりも目を引くのは、彼の綺麗な髪だった。

 とても明るい色をしていて、肩下まで伸びている。やや癖があり、後頭部で無造作に一つにくくられていた。

 さっきから街灯の光を反射していたのは、このふわんふわんの髪だ。一本一本が輝く糸のようだった。色は金より少し濃く、茶色よりはだいぶ薄い。見ていて何だかほっこりする、どこか懐かしい色合い……。

(あ、きつね色!)

 瑤子が色の名前を思い出したのと同時に、目の前にあるその髪が大きく揺れた。

「ううぅ……」

 きつね色の髪をした青年が、弱々しく呻く。

 おまけに、大きな身体をすくめるようにしてぷるぷる震えていた。街灯に照らされたその顔は、心なしか青白い。

(もしかして、どこか身体の具合が悪いのかも!)

 そう閃いた瞬間、瑤子は駆け出していた。

 夜道で見ず知らずの男性に自ら近づくなんて、普段なら絶対にしない。だが、目の前の彼は明らかに弱っている。きつね色の髪を揺らして震えている姿を見たら、迷いが一気に吹き飛んだ。

「あの、大丈夫ですか?! どうかしましたか?」

 声を掛けると、俯きがちだった青年が視線を上げた。

 瞳の色は薄い茶。髪と同じきつね色の眉毛は、今は両端が下がってハの字になっている。鼻筋はすっと通っていて、間違いなく端正な顔立ちだ。

「……うぅぅ」

 形のいい唇から苦しそうな吐息が漏れ、ひょろ長い身体がよろめく。

「大丈夫ですか?! 病院行きますか? 救急車……」

 瑤子は慌てて鞄に入れてあるスマートフォンを取り出した。しかし青年はそれを遮り、弱々しく首を横に振る。

「病院、行かない。俺……大丈夫。ちょっと寒いだけ」

「は? 寒い?」

「うん。俺、今ちょっと上着を手放しちゃってて……。あと、お金もなくて……帰る場所もない。こういうの、こっちでは『ロトーに迷う』っていうんだっけ?」

「路頭に……迷う?」

 彼の台詞は、僅かだがイントネーションが独特だった。まだ言葉を使い慣れていない感じだ。

「とにかく、この辺をうろうろしてたんだ。お金、ちょっと持ってたけど使い果たしちゃって……。親切なおじさんに会って、着てた上着、買い取ってもらったんだけど、そのお金も二日前になくなった……。それから、何も食べてなくて……」

 首を傾げる瑤子の目の前で、金髪の青年は鼻を獣のようにひくひくさせた。やがて薄茶色の瞳が、瑤子の提げているビニール袋に釘付けになる。

 そこに入っているのは、お値段三百八十円のコンビニ弁当、一人前。

「お腹、空いた……」

 漏れ出た言葉に追い打ちを掛けるように、きゅうぅぅ~とお腹の音が鳴り響いた。夜風に吹かれ、端正な顔を覆う髪がふわんと揺れる。

 それを見ていたら、瑤子の中でイメージが固まった。

(ああ、この人――仔ぎつねみたい……)

 一つに束ねられた明るい色の髪。

 それはまるで、きつねの赤ちゃんのしっぽだ。思わず撫でそうになって、瑤子は慌てて手を引っ込める。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る