どの異世界がお好みですか?~異世界人材派遣会社ソラリス~
@tomitasu
第1話 退職と再就職
A①親。そう右上に書かれた紙にさらに紙を重ね、パンチ穴にタップをはめて二枚の紙がずれないように固定する。消しカスを羽箒で払い、uniの2Bを鉛筆削りに差し込んで尖らせる。ペンだこのできた手で鉛筆を握りしめ、重ねた動画用紙に原画を写す。ニュアンスを拾いつつ、原画マンの線の強弱やガタつきなど固有の癖をつぶすように。筆圧は常に一定で、スピーディかつ正確に。
左手の人差し指と中指で動画用紙を挟み、何度も紙をめくる。線抜けや原画のニュアンスを拾い切れていない箇所はないか。確認してなんども描き直す。描いてはめくり、めくっては描く。
徐々にバストアップの女性キャラクターがトレスされていく。顔の輪郭や髪を写し終えると男は鉛筆を持ち替えた。ハイライトは赤の硬筆。陰影は青の硬筆で。紙をデスクの上で回転させながら、一定のストロークで瞳の楕円を丸いハイライトを描いていく。色鉛筆は芯の先端がすぐなめるようで、線を引くごとにガリガリと削る。10分もしないうちにA4の動画用紙に原画マンの描いた創作物が機械的に再現された。
男は動画マンとしてアニメを描いていた。
「・・・帰ろう。」
動画と原画、レイアウト絵コンテ諸々をカット袋にぞんざいに押し込み男は立ち上がった。ライトボックスの電源を落とし、耳にイヤホンを詰め込んで座椅子の背もたれに掛けていたしわくちゃのアウターを羽織ると、同僚に声をかけることなく静かに会社を出た。スマホは深夜の二時であることを示していた。
駐輪場からママチャリを引っ張り出し、深夜の国道を男の住処である六畳一間のアパートへ向けて漕ぐ。真冬に男は汗を流していた。タイヤの気が抜けていた。錆びたチェーンがきしむ。時折横を走る長距離トラックと男の荒い息、きしむ自転車だけが響く静かな夜だった。
突如男は絶叫した。イヤホンからはラジオパーソナリティの笑い声が洩れる。
「こんなはずじゃなかった。」
男は27歳だった。
「こんなはずじゃなかった。」
男は何者かになりたくてアニメーターになった。
「こんなはずじゃなかった。」
男の月給は10万円だった。男には保健証がなかった。年金は未納で家賃は滞納していた。
「こんなはずじゃなかった。」
アニメーターを志したころの情熱は既に失っていた。かつて心酔した監督のレイアウト集、原画集は生きるため小銭に変えてしまった。目標もモチベーションもなかった。
イヤホンから笑い声が洩れる。それは学生時代から聴き続けているラジオだった。男の顔に笑みは一切なかった。
「本当にこんなはずじゃなかったのか。」
男は自問した。
「本当は分っていた。」
「自分の才能不足も、それを補うための努力が十分でないことも・・・」
虚ろな目で国道を漕ぎ続ける。さらに男は自問する。
「・・・そうだ。おれは書くことが好きだからアニメ―ターになりたかったんじゃない。何者にも慣れないことが怖くて、表現者という肩書が欲しくてアニメーターになったんだ。」
それは男がずっと目をそらしてきた本音だった。男はさらに自問した。
「何者かである必要はない。実家に帰ってちゃんと就職して、手の届く範囲の仕事をしよう。適当にありのまま生きよう。」
自分に言い聞かせるよう、男はなんども何者でなくていいとつぶやいた。22歳でアニメーターになり、それ以来ずっと抑圧し続けた本音を声に出すことで、男は自分を縛る何かから解き放たれたようだった。イヤホンから笑い声が洩れる。男は少し笑っていた。明日にでも辞表を出すのだろう。疲れ切った表情は少し晴れやかだった。
次の瞬間、辞表を出すまでもなく男は二度と会社に行く機会を失った。
完全に男の不注意だった。路側帯のそとを走っていた自転車は交差点でスピードを落とさなかった。右折のため大きく膨らみ、そのまま長距離トラックに吸い込まれるよう衝突した。
トラックのブレーキが絞り出す金切り声の後、金属がひしゃげ肉がはじける音が街に響いた。
肉の塊がアスファルトをリズミカルに弾む。即死だった。
男の頭蓋骨と胸郭および肋骨は衝突の瞬間粉砕した。上下半身の接続を維持できなくなった腰椎は破断し、脊柱起立筋のみが男の体の上下をギリギリ繋げていた。複数の臓器が衝突時の急激な圧力変化で破裂し、その他の臓器も急速に機能を停止していった。おびただしい量の血がアスファルトを濡らし、道路に転がる右目の瞳孔は散大し、ていた。脳はその構造すら維持していなかった。
男は死んだ。
「いらっしゃいませ!こちら異世界人材派遣会社でございます。」
スーツを着た受付らしき女性の声が響く。
「・・・・・・あの、何が何だか。」
男は当然の疑問を口にする。
「弊社では異世界への人材派遣を担っております。わたくしはお客様の担当として、新たな世界への転生を精いっぱいサポートさせていただきます。お客様はどういった異世界への転生を希望されますか?」
男のセカンドライフが幕を開けようとしていた。
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