りんごとレモン

@kamikamisan321

りんごとレモン

「庸平兄ちゃん、先にお風呂上がりました」


39度のぬるい入浴を楽しんでから、ぼくは身体をタオルで軽く拭いて、リビングに戻りました。


兄ちゃんはまだテレビを見ていた様子で、刑事さんと悪い人がバタバタ暴れています。ちょうど、今がいいところだったみたいです。


少し邪魔をしてしまったと、後悔しました。


「あぁ。ゆっくり入れたか? 蘭太」


「はい。ごめんなさい、先にお風呂をいただいて。気持ちよかったです」


「そうか。ならもうさっさと寝るんだ。明日はテストだろ」


「はい。そうしようと思います」


ぼくはにこりと笑い、そのまま2階の部屋に上がろうとしましたが、「あ、ちょっと待て」と兄ちゃんがぼくを制止したので、そのまま止まりました。


兄ちゃんは腰掛けていた椅子から降りて、ゆっくり僕の方に歩いてきます。兄ちゃんは僕よりも20センチも身長が高いので、近づくと少し怖くなってきます。噂によると、学校では顔が怖いと言って、逃げていく人たちが多いそうです。大きくて顔も怖ければ、確かに怖くて逃げたくなる気持ちも理解します。


でも。


「──髪、乾かさずに寝ようとしてるだろ。蘭太」


「はい。それがどうかしましたか?」


「どうかしましたか、じゃねぇよ。風邪ひくだろうが。洗面所まで一緒に戻れ。俺が乾かしてやるから」


──兄ちゃんは優しいので、全然怖くなんてないんですけどね。


ぼくは肩を掴まれてから洗面所まで連行されて、強い熱風と頑強な両手で髪をがしがしともみくちゃにされていきます。じめっとしていた髪の毛が、だんだん艶のあるすっきりとした髪の毛に変わっていって、僕は自然と笑顔を漏らしました。


「蘭太。お前最近、中学校に行ってから悩んでないか?」


「はい。特にありませんよ」


「本当にそうか? 担任から俺のことで何か嫌なこと言われてねえか?」


「いえ。確かに久保先生は、庸平兄ちゃんが怖いから、ぼくに何とかするようにお願いしてきましたが、ぼくが『庸平兄ちゃんは優しいから、絶対に危なくないですよ』って教えてあげると、納得したみたいでしたから」


「あぁ……あの野郎、余計なこと蘭太に言いやがって」


「あの、庸平兄ちゃん。手に力が入ってます。痛いです。力を抜いてください。痛いです」


世間話を楽しみながら、ドライヤーがようやく終わると、兄ちゃんはぼくの肩をとんとんと優しく叩いて言いました。


「いいか、俺はお前の兄ちゃんだ。兄ちゃんには弟を守る義務がある。その為に、お前より早く生まれてきたんだ」


「はい。兄ちゃんは立派な人です」


「俺はな、お前には真っ当な中学生活を送って欲しいと思ってる。俺と違ってお前は頭も良い。顔も俺に負けるがなかなか良い」


「運動神経はありませんけどね」


「とにかくだ。俺みたいに変にグレたりして欲しくねえ。不良なんてぜってぇダメだ。お前には、そこら辺の奴みたいに平和な中学生活を送って欲しい。部活をしたり、仲の良い友達を作ったり、恋愛をしたりな。これは、兄ちゃんとの約束だ。死んでも守るんだぞ」


「はい、もちろんです。庸平兄ちゃん」


ぼくは少し考え事をしてから、兄ちゃんの差し出した小指に、右手の小指を繋ぎました。それから数回上下に振って、儚く繋いだ指と指を離します。


「よし、カッコよくなったな。じゃ、明日のテスト頑張れよ。蘭太」


最後にぽん、と頭を叩いてから、兄ちゃんはリビングに戻って行きました。ドラマの名場面はもう終わってしまったみたいで、「あっ!」と若干怒りの混ざった声が聞こえて、ぼくは急いで2階に上がって自室に戻りました。


サラサラになった髪の毛と、名残惜しい庸平兄ちゃんの手の感覚を胸に、ベッドへ飛び込みます。


「……」


庸平兄ちゃんは、とっても優しい人です。


好きな食べ物はレモン。ちなみにぼくは、りんごです。


高校2年生なのに、学校に行かずにぶらぶらしています。バイクが趣味だと言っていましたが、見せてくれません。


そして、庸平兄ちゃんはぼくの為ならいつでも、何だってしてくれます。魚を捌いてと言えば、半日かけて捌いてくれますし、ぼくが変な人に絡まれた時には、一瞬で薙ぎ倒してくれました。


だから、庸平兄ちゃんの為に、ぼくも良い子であろうと頑張ろうと思いました。


庸平兄ちゃんの言うことなら、ぼくも何だってするし、約束だって守ります。


その全てが、この平和な日常に繋がるのなら、ぼくはずっと、この幸せな時間を感じていたいので、そうしようと思っています。


──でも。


『お前には、そこら辺の奴みたいに平和な中学生活を送って欲しい。部活をしたり、仲の良い友達を作ったり、恋愛をしたりな。これは、兄ちゃんとの約束だ。死んでも守るんだぞ」


兄ちゃんは、ぼくにそう約束しました。


ぼくの為を思って、きっと、いや絶対に、そう思って言いました。


「……庸平兄ちゃん、ごめんなさい。ぼくは一つ、約束を破ってしまうかもしれません」


ベッドに飾ってある写真立てを手に取り、そこに仲良く映る、ぼくと庸平兄ちゃんを見てぼくは思想しました。


──食べてはいけないと言われる食べ物があったとして、食べてしまうと世界に大いなる災いが起こるとする。


でも、その食べ物はこの世の何よりも甘く、優しく、そして食した者に幸せをもたらす。


禁断の食べ物。それを口にした時、ぼくは日常を失ってしまう代わりに、この世の何よりも大切な人を、得ることができる。


──ぼくは、どっちを選ぶべきなのでしょうか。


写真に映る庸平兄ちゃんは、何も答えませんでした。ただ、ぼくを見てニヤリと笑うだけです。


数秒写真を見つめていたぼくは、とうとう馬鹿らしくなってきて、写真の庸平兄ちゃんに唇を当てて、電気を消してしまいました。


「……おやすみなさい。そして、ごめんなさい。庸平兄ちゃん。ぼくは、少しだけ悪い人になってしまったかもしれません」


誰にともなくそう呟き、ぼくはやっと、眠りに就きました。

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