第3話 歩いてきた道

博士が中学3年までを過ごしたこの町は、その大部分が田んぼとミカン畑で占められている。博士の歩く道の周囲にも田んぼが広がっており、その中に点々と民家が立っているのが見える。道には人通りはほとんどなく、時々、自転車に乗った住人がそばを通り過ぎるくらいだ。もっとも、特殊シートに覆われている博士の姿は、誰にも見えていない。


「人目を気にしなくていいのは楽ね」


こうしてまっすぐ前を向いて歩くのもずいぶん久しぶりだ。見える景色が全然違うなと博士は思った。博士はいつも自分の足元を見て歩いている。他人の顔も見たくないし、他人の顔に映る自分の顔も見たくないからだ。


博士は外出することが好きではなかったが、そんな博士にも一つの楽しみがある。それは、素敵な靴を履くことだった。博士は外出するとき、上質で高価な靴を好んで履いた。人目は気になったけれど、足元の靴を見ていると、気持ちが落ち着いて安心して歩くことができた。価値の高い靴を履くことで、自分も価値も高くなった気がした。ヒールが地面を鳴らす音や、靴がピタっと足に合う感触も好きだ。外出していない時でも、足に履いた靴をぼんやりと眺めていることもある。


しかし博士は、自分が本当に履きたいと思うような靴は買う事ができなかった。道行く人から「あなたには似合わない」と思われるのも、自分に似合わないことを確認することもこわかったからだ。


――『現実って理不尽ね。皆の顔が、こんな風に透明だったらいいのに』


博士はふと自分の足元を見て思う。未来では仮想現実で、世界中の人々と交流するのが当たり前になっている。そこで商売をして生計を立てている人も大勢いる。


――『仮想現実の世界は現実よりはフェアね。そこでは私達は名前も外見も好きに選ぶことができるし、いつでも変えられる。けれど現実の世界では、名前、外見、性別、自由に使えるお金、多くのことが、産まれたときには決められている。私のように、大切なものを突然取り上げられてしまうことだってある。私たちが生きている世界は、なぜこんなにも理不尽なのかしら?』


博士はそんな事を考えながら、自分が小さいころによく歩いた田舎道を、今も歩いている。そのとき、背後から来たトラックがものすごい勢いで博士のすぐ脇を通り過ぎた。もう少しで当たる所だった。


「危ない危ない、気を付けないと。本当に透明だと、不便もあるみたいね」


博士は深刻に考えこんでいる自分がなんだかおかしくなって笑った。


「私は自分を事故から救いに来たんだから、こんな所でまた事故にあってはいけないわ。理不尽な現実は、きっと元から変えてしまえばいいのよ」

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