第3話 マグカップの飲み物に合う甘い恋のドーナツ
「助手君、そっちのパイプ椅子を運んでくれる?」
「あっ、はい」
「それから、あっちの折り畳みテーブルも運んで」
「了解です」
僕は
あれから僕と燐香さんは恋人として付き合い始め、デートも重ねるようになったけど、お互いに外へ遊びに行くということはなく、こうやって助手として院内の仕事を手伝っている。
(もしや、僕は
そう疑うのも無理もない。
ここGW中は買い物もネットショッピングのみで、ずっと引きこもった生活をおくっていた。
「まあ、忙しい今こそがかきいれ時ですけどね」
「でもGWだし、病院は休みじゃないですか?」
「まあそうだけど、診察がなくても裏方に課せられた仕事は大量にあるからね」
燐香さんが山のように積み上がったプリント用紙を僕の座っていたデスクに載せる。
「はい、これ間違いがないか、よく確認してね」
「あ、あの?」
「なに? 基本的なパソコン操作は教えたでしょ。後は実戦を積み重ねていけば何とかなるものよ」
「いや、そうじゃなくて。この百枚どころじゃ過ぎない書類の山をたった僕一人で全部見るんですか?」
「そうねえ。未成年だから勤務時間は夜の十時までと限られているわよね」
燐香さんがうーんと口ずさみ、難しい表情を浮かべながら細いあごに手を添える。
他の歯科医師さんはこういう事務仕事はノータッチなのか?
「じゃあ、一週間だけ
「はっ、はあ……?」
私も協力して一緒に手伝ってあげるという優しさの選択肢はないのだろうか。
燐香さんと付き合って理解した部分があった。
穏やかなふりして、彼女の
****
「うーん、この部分はこう改正して、ここは行を入れかえて……」
日も暮れた時間にも構わず、無心で
この箇所とかイージーミスで普通に編集していたら分かるはずなんだけど……。
「もしかしてわざとなのか?」
この書類の束は燐香さんが作成しているだろうし、何でもそつなくこなす彼女がそんな意地悪をするだろうか。
「いや、まさか。燐香さんに限ってそんなことはしないだろう」
「──そんなことって何かしら?」
「のわっー、何だー!?」
パソコンの冷却ファンしか聞こえないほぼ音のない仕切られた密室。
そこから予想外に飛び出てきた人の声に対処できず、大声で叫ぶ僕。
その驚きのあまり、デスクチェアから思わず滑りこける。
何だ、女の声だったが、もしや雪女の突撃か?
地球外生命体の来店だ。
即座にレーザー光線銃(おもちゃ)を用意して緊急時に備えよ。
「あっ、ごめんなさい。立てる?」
だが、落ち着きを取り戻した視線の先にはいたのは雪女ではなく、燐香さんだった。
マグカップと、お皿にのせたドーナツを持って不安げに僕を見つめている。
そんな燐香さんがマグカップとお皿をデスクに置き、僕の手を引いて起こしてくれた。
「どう、作業は順調かしら?」
「あっ、はい。バイト代を頂いている以上、生半可な気持ちでは挑めないですから」
「そう。疲れたら言ってね。私は自室にいるから」
燐香さんがもう一つのマグカップを持って立ち上がる。
お互いのパートナーとして、気になる
「あの、燐香さん。この間違えだらけの書類なんですが、ひょっとしてわざとですか?」
その言葉にピクリと肩を震わす彼女。
「どうしてそのようなことが言えるの?」
彼女は振り向きもせずに背中越しで静かに語りかける。
「いえ、燐香さんがこんな単純なミスをするなんてあり得なくて、らしくないというか……」
「……らしくないってどういう意味かしら?」
「えっ……」
燐香さんの低い声のトーンに僕の体に悪寒が走る。
冷めたようで内心では熱く怒っているのか。
こんな背筋が凍りつくような声、聞いたことがない。
「あっ、すみません。悪かったのなら謝ります」
「ええ。今日はもう帰って……」
燐香さんの声が胸に突き刺さる。
僕は何をやらかしたのか。
何気ない言葉で相手の心の隅を傷つけてしまったのだろうか。
「はい。分かりました」
今の彼女には何を言っても無駄だ。
一晩置いて冷静に物事を整理した方がいい。
僕はそれ以上は追求せずに、荷物を持って当たり障りのないように病院を出た。
****
一辺の曇りもない晴天の次の日。
「やだわ。せっかく来たのにどういうことかしら?」
「今いないのかしら。本当に困ったわね」
シオサイ歯科医院の出入り口の前で二人のおばちゃんが首をかしげている。
「どうかしたのですか? まだ診察時間じゃないですが?」
「あら、いつものバイトのお兄さんじゃない。どうしたもこうしたもじゃないわよ。これを見てよ」
おばちゃんの一人がシャッターが降りた部分に貼っているプリントを指さす。
『私情により、誠にご勝手ながらしばらくお休みいたします』
その文字は綺麗に整ったワープロ書きの文面で見る者の心の胸を締めつけた。
「ねえ、お兄さんなら、何か知ってるんじゃない?」
「いえ、僕も初耳でして」
「そうかい。お兄さんも何も知らないのね」
おばちゃんがやれやれと肩を沈め、非常に残念そうな態度をする。
「あー、困ったわね。ここの歯医者、サービス良いし、親切丁寧な治療だったのにねえ」
「そうよねえ」
「ここ最近、燐香ちゃん目当てで患者さん多かったし、業務に支障が出て、無理して体でも壊したのかしら?」
「そうそう。それが心配よねー」
おばちゃん二人が噂をするなか、僕は何も言えずに突っ立っていた。
あの日の喧嘩が原因かどうか知らないが、次の日からシオサイ歯科医院は無期限の臨時休業となったのだった。
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