第18話

 昼間の娼館というものは、ずいぶんとこざっぱりしたものだ。

 泊まりの客も帰り、娘達が眠っているこの時間。

 吹き抜けの大広間の、高い位置にある窓から差し込む陽光は全てを平等に照らし、夜の灯りが届かぬ薄暗い隅にうごめいていた淫靡いんびな闇を拭い去る。太陽が出ている時間帯の娼館の大広間は、まるで魔法が解けてしまったかのような、がらんどうの舞台を思わせた。


 クロエはこの時間帯が嫌いではない。

 彼女は今朝はいつもより早く身支度を済ませ、お付きの大男のヨアキムを従えて広間に来ていた。


「ここと、ここ。ああ、ここもだね」


 クロエが歩き回りながら手にした煙管であちこちを指し示す。

 ヨアキムはその度に無言のまま頷いた。


「まったくゥ、床にこんなにたくさん傷をつけてくれて。これ全部直してたらいくらになるかねぇ、ヨアキム」

「あの男に請求書を送りましょうか」


 ヨアキムの言った「あの男」とはセオドアのことである。あの三人が泊まっている宿は昨晩のうちに把握している。


「そうしたいのは山々だけどサ、金額見てトンズラこかれちゃ元も子もありゃしないよゥ。あの兄さんはね、ほんとにヤバいことになるとわかったら恥も外聞もなく一目散に逃げ出す男さ。そんくらい一目見りゃわかるよ」


 そう言うクロエの口調に軽蔑の気配は微塵もない。


「生き延びるのが上手いのさね。喰えない男だよ、アレは。……建物の方は直せば良しとして、今夜からの客入りがどうなるかね。傭兵団の連中は来るにしても、普通のお客はねえ」


 昨夜は勢い盛り上がったように見える。クロエ自身がすぐに客に詫びることで、その場での苦情もほぼ無し。だが刃傷沙汰が起きてしまった事実は変えられない。そういう危険のある店だとわかれば、普通の客の足は遠のくだろう。


「今日の料理は少なめに用意しとくのがいいよ。ああそうだ、昨日はんだっけ?」

「早朝、料理長が隣の村の農場まで野菜を仕入れに出かけました」

「そう。うまく調整して仕入れてくれるといいねえ」


 クロエはゆっくりと大広間の獅子の像の台座の周囲をまわる。床と台座が直角に交わる部分に赤黒い小さな染みを見つけた。


「汚れが残ってる。もう一度掃除しときな」

「はっ」


 クロエの指示にヨアキムが短く返事をした時、バタンと遠慮のない音を立てて、広間の正面の両開きの扉が開かれた。


「クロエ!」


 逆光となった入口に、上背はあるが華奢な若い男が仁王立ちに立っていた。

 クロエの横でヨアキムが渋面を作った。


「クロエ! ああ、ああ、私の人魚姫ラ・シレーナ! 無事で良かった!」


 青年は舞台役者のように両手を広げ、大股にクロエへと歩み寄る。日焼けをしていない白い顔は整っている部類に入るものの、どこか頼りない。ウェーブのかかった長い金髪を後ろでまとめてリボンで結び、仕立ての良い上物の丈の長い上着の袖からはブラウスのフリルが花びらのように飛び出していた。

 クロエからは、青年の入ってきた扉の向こうに、娼館の用心棒どもが手を出すこともできず、かといって知らん顔もできず、何とも中途半端な間の抜けた様子で立ち尽くしているのが見えた。しかし、それも無理のないことだ。


「ごきげんよう、ヨハン様。こんな朝早くからどうなすったんです」


 にっこりと微笑んでみせる。

 ヨハンと呼ばれた青年はホッとしたように笑い、煙管を持っていないクロエの右手を自身の両手で包むようにして胸の前に持ち上げた。彼の額には汗がにじんで光っている。


「朝、家の者から聞かされて駆けつけたんだ。報せを聞いた時は心臓がつぶれるかと思ったよ。賊が刃物を振り回して暴れるなど、どれほど恐ろしかったろうね。昨夜は眠ることもできなかったのでは? かわいそうに」


「アタシの身を案じてくだすってありがとうございます。幸い何事もなく、このとおり平気でございますとも」


「ああ、またそんなことを言って、貴女はなんて健気な女性ひとだ。ねえ何度も言っているだろう。どうか私のところに来てくれないか。周囲は反対するだろうが、私はきっと貴女を守ってみせる。貴女はこんな危険な場所に身を置いていてもよい女性ではないんだよ」


「もったいないことでございますよぅ。アタシには身に余るお言葉」


 口では微笑んで返しつつ、クロエの灰色の目はどこか冷たい。


「いつの日か、いろんなことが片付いて、それでもまだヨハン様のお心変わりがなければ、その時は。……あ、そうですね、片付けといえば一つ気掛かりが。ああ、でも、これは」


 クロエは柳眉を寄せ、煙管を持つ左手の指を思案げに頬に当ててヨハンから視線を外し、長い睫毛を伏せた。


「でも? どうしたんだい? 何か困っていることがあれば遠慮せず何でもお言いなさい」


「……それでは申し上げますけれど、つまらない心配だと笑ってくださいまし。昨夜のことですが、心当たりがないことが、かえってどうにも気掛かりでございます」


「心当たり? ああ、つまりこの店に賊が入って暴れる理由がないと?」


「ええ。かような下賤げせんの仕事でございます。商売敵もあれば、惚れた腫れたの末の恨みを買うことも。でも今回の賊は」


「身元が知れないということかな?」


「ええ」


「賊はその場で斬られたということで、うちにも報告が上がっていると思う。路地の死体は兵が回収してあらためているはずだから、何か情報があれば貴女にも知らせてあげよう。そういえば、この店の中でも何人か死んだのだったね。そちらは……」


 ヨハンが言葉を続ける前に、クロエはふらりとよろめいた。ヨハンが慌てて彼女を抱きとめる。


「あ、申し訳ありません、ヨハン様。お顔を見られて安心してしまったようです。昨夜は夢中で気を張っておりましたが、賊の死に様があまりに恐ろしくって、お恥ずかしいことに詳しく思い出そうとすると気が遠くなるんでございます」


「ああ、クロエ。何と痛ましい。無理もない。むごたらしい死体など貴女のような人に見せたいものではない。私の方こそ無神経なことを尋ねて悪かったね。大丈夫。賊の正体はこちらで調べておこう。貴女は安心してよいからね」


「ありがとうございます。ヨハン様は本当にお優しい御方」


「私が貴女のためにできることなら喜んで何でもやりますよ。まあ、その賊とやらもしばらく再襲撃はないでしょう」


 ヨハンの言葉を聞き、クロエは瞬きをした。


「まあ……、なぜわかるんでございますか?」


「うん、これはまだオストガルトの民には報じられていないことなのですが、実は近々この街に皇太子がいらっしゃるのです。そのために警備の兵も増やすよう、我が家にも中央からお達しがありました。怪しい者や余所者はより活動しにくくなるでしょう。その間に、今回の賊の調査も進めます」


「皇太子が……?」


「噂によるとバルトロメイ皇太子は狂皇子と呼ばれるほどはげしい御気性であらせられるとか。お迎えすることは正直不安もありますが、クロエ、貴女が心配するようなことは何も起こりませんよ。私が約束します」


 何も起こらないことをどうやって約束するのかは知らないが、ヨハンは勝手に一通り喋り終えると、張り切った様子で娼館を出て行った。




「やれやれ」


 ヨハンが建物を出たのをきっちり確認してから、クロエは広間に戻り、猫のように大きく伸びをしてあくびをした。


「毎度毎度、馬ッ鹿じゃないのかねぇ、あの坊っちゃんは。付き合うこっちも疲れるよゥ。まあイイサ。使えるもんは使わないとね」

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