ぼくのへそがドンドン深くなっている

スミ・スミオ

ぼくのへそがドンドン深くなっている


 どうして恋愛に熱くなれないのだろう?


 結婚披露宴の招待状をキリトリ線に沿って慎重に手で切り取りながら考える。

 いや違うな。どうしてなにものにも熱くなれないのだろう? 当てつけのように、毎晩、バーで出くわした女と肌を重ねる。そこまではいい。ぼくは幸せな結婚生活とやらに向かって試行回数を重ねている。最良の相手を見つけるために。離婚という失敗を犯さないために。最愛の女を手に入れようと、不断の努力で相性を図っている。だけど、どれだけ女と身体を重ねようと、腹の中心あたりにぽっかりと空洞があいているような感覚はなくならなかった。まったく? ああ、ちっとも。角砂糖ひとかけら分も埋まりやしない。むしろ、身体を重ねれば重ねるほどに空洞は広がっていっているような感じがした。昔は違った。恋をすれば、へそのあたりが熱くなった。15歳のぼくは悩み、傷つき、怯え、涙を流していた。たまには喜びだって噛み締めることができた。それがいまじゃ涙も出ない。喜びもない。27歳のぼくは致命的な不感症におちいっている。ただ肌を重ねるだけの存在になりさがっている。ここには快感も、充足感もない。あるのは、ぬるく、なまあたたかな感触だけだ。血のたっぷり詰まったビニールを抱いているような感じ。ぼくはなめらかな女の肢体をかき抱き、眠りながら次のボールのことを考える。夢の中のぼくはいつだってマヌケ面で、ピッチングマシーンから吐き出される次のボールを待っている。ギギッ、ガション……スパーンッ……!


――よし、次。


 封筒には、リターンアンノウンの印が何度もヤケクソ気味に押されていた。差出人もヤケクソになったのか、ぼくのいくつかの前の住所たちを狂ったように斜線びいては、郵便局に突き返していた。おかけで封筒は隅々までビッシリと文字と印で埋め尽くされている。ちょっとしたお札みたいだ。これならキョンシーにだって効くかもしれない。ぼくは切り取った招待状を丁寧に折り畳んでズボンのポケットに突っ込むと、スマートホームスピーカーに向かって言った。

「モータウンの曲をかけてくれ」

 すぐさまジャクソンファイブが高らかに名乗りをあげ、にぎやかさと、しんみつさを振りまきながら歌い出す。ザ・ラブ・ユー・セーブ。心なしかスマートホームスピーカーもご機嫌そうだ。朝のシンと張り詰めていた空気が瓦解する。

 マイケル曰く。


 かんがえなおしてよ

 ぼくを見捨てて損するのはきみのほう

 だからたのむよ

 かんがえなおして

 ぼくをキープしといたほうが絶対お得だって


 ぼくはニッコリとほほ笑む。すぐさま命令を取り下げる。スマートホームスピーカーは寂しげにいちどだけ点滅すると、完全に沈黙した。ジャクソンたちは責めるようにぼくを見つめている。まだサビにも入っていないのに!

 うるさいな。気分じゃないんだよ。

 ぼくは首を振ると、洗面台に向かった。ぬるま湯で顔を洗い、よみがえる過去を打ち払おうとする。うまくいかない。タオルで顔を拭くと、ひどくくたびれた自分の顔が目に入った。およそ生気というものが感じられない顔だった。目に光がない。虹彩はうっすらと灰色がかっている。実は死んでるんじゃないかコイツ、とぼくは思った。誰がどう見ても、これから結婚披露宴に向かおうとしている男には見えなかった。葬式のがお似合いだ。あながち間違っちゃいない。ぼくの顔は死人同然だった。気合いを入れようと両手で自分の顔をもみほぐす。肌がひどくかさついている。化粧水と保湿クリームをたっぷり塗って、鏡に向けてニッと笑う。下の前歯にヤニが付着していた。みがいてもみがいても黄ばんでいる。親知らずは虫歯のまま何年も放置されている。髪はツヤを失い、少しずつ薄くなってきている……アゴ下と腹には贅肉がつきはじめ……あいかわらず空洞はその深みを増している……そしていまにもぼくを飲み込まんとしている。要は女に相手にされなくなる。ぼくは完璧な孤独を手にいれる。ぼくが口角をおろすと、鏡の中のぼくも口角を下げた。しけたツラだ。スマートホームスピーカーが予定の時刻を告げる。ひどく不機嫌そうに。あとでアイスでも買い与えたほうがいいかもしれない。機械音声の機嫌が見分けられるなんてどうかしている。ぼくはシャツの上から、指でへそのふちをそっとなぞる。


「わかってるよ」


 これじゃ埋まらないんだろうなって気はしてたんだ。これでやめにする。ホントだ。マジだ。あの招待状がいい機会だ。マトモな恋愛をするよ。約束だ。ぼくの目を見ろ。これがウソをつく男の目か? ぼくは鏡の中の自分に弁明する。信じてくれ。努力する。すぐにとはいかないかもしれないけど、精一杯の力で相手にぶつかるって誓うよ……。

 だけど、ぼくはちっともやめられなかった。


「依存症なんじゃないの」


 行為のあと、適当なピロートークをかましていたら、自分のへそが深く落ちくぼんでいることに気がついた。戯れに女がぼくのへそに人差し指をひっかけたら、根元まで埋まったのだ。女は爆笑していたが、ぼくはそれどころじゃなかった。え、なんだろうこれ? ビョーキ? なんてビョーキ? ヤバイ。スゲーこわい。もう土曜の深夜だった。診療所はどこもやっていない。じゃあ、救急病院? 救急車を呼ぶ? ぼくは119ダイヤルに事情を話す自分の姿を思い浮かべる。

「気がついたらへそが深くなっていたんです……」

 だめだ。マヌケすぎる。ヘタしたら救急隊員からこっぴどく叱られるかもしれない。あわてて枕元に置いてあった携帯をひっ掴んで検索する。


 へそ、スペース、深くなっている。

 そして少し考えてこう付け足す。

 スペース、ビョーキ?


 検索結果の一番上に質問サイトが表示される。

 いいぞ。教えてくれ、ヤフー。ぼくを導いてくれ。安心させてくれ。すぐにぼくは該当の質問を選択する。すでにぼくと同じ悩みを抱えた誰かが広大なネットの海に投げかけた質問内容をチェックする。偉大な先人。ぼくは彼(彼女)に同情する。さぞ不安だったに違いない。でも、きみの不安がぼくを救う。ぼくと同じ問題を抱えている人間なんてこの世にごまんといる。ありがとう。もはや世界は医者いらずだ……。


 質問


 へそを深くする方法はありますか?


 回答


 太れば深くなるよ!


 ファック! クソ。この質問者はいったい何を考えているんだ? 思わず携帯をへし折りそうになったが、女のつんざくような笑い声でその動作選択はかき消された。

 女はまだ笑い転げていた。ベッドから落ちて「あいたっ」とか抜かしてやがる。ぼくは諦めて携帯を置き、心底おかしそうな女を観察する。


 へ、へそ、こんな、こんなとこまで、ひー、ひー……あははははははは……。


「死ね」とぼくは心の中で呟いた。

 というか、死ぬんだろうか、ぼく。へそが体内にすっこんで? なんともマヌケな死に方だ。待てよ。内臓はどうなっているんだろう? ぼくは腸が上下に押しやられている様子をイメージした。ダメだ。すごく苦しそうだ。どうしてこんな目にあうんだろう。ぼくはすごくいい子にしてるのに……。遅刻なんてしたことがないし、どの成績も上から数えた方が早い。なにをさせても卒なくこなすから、そこそこ女の子にだってモテる。理想的な男の子だ。その筈だ。だけど、父さんはぼくを捨てた。ずいぶんと前に狩りに出たまま、こちらからの連絡にいっさいこたえない。たまに一方的にメールがくる。年に一回。いや、数年に一回? それも、きまってぼくの誕生日を祝うため。きっちり日付を間違えて、ぴったり同じ文面をよこす。

「きみが生まれてきてくれたことに感謝します」

 クソだ。なにが感謝しますだ。嫌がらせか? 梅毒にかかれ。性病科で辱めをうけろ。全身に発疹がでて、謎の奇病で変死しろ。ぼくがシームレスに父を呪いはじめていると、ようやく笑いおさまった彼女が息も絶え絶えな様子でボソリと呟いた。


「きっとバチがあたったのよ」


 ぼくは心底驚いて彼女を見た。彼女はヨガのキャット&カウポーズみたいな体勢でじっとぼくを見つめていた(それ、疲れないか? 笑いすぎてお腹がツリそうなのよ。 なるほど…… )。どうしてぼくにバチなんて……。

 だいたいそれならもっと相応しいやつがいる。


「誰よ」

「決まってる。ぼくの父さんだ」

「そんなの知らないわよ……」

 まったくもって、その通り……。


 ところでどうして彼女と別れたんだっけ?


 日曜日。イイ天気だ。完璧な六月と言っていい。ぼくはテーブルの料理を黙々と片付けながら、壇上で幸せそうにほほ笑む新郎新婦を眺めていた。オマール海老のスープ、パンとサラダ、真鯛のロティ、ローストビーフ、牛フィレ肉のグリル……。ありきたりなフレンチ。予算は二万円ってところ。プラス一万で、色とりどりの花々や素敵なスピーチ、ビデオを鑑賞することができる。ああ、あと、幸せそうな新郎新婦も。ご祝儀にみあった感動体験。どこかのミュージカル劇団ががむしゃらに訴えていたっけな。そして、ぼくはがむしゃらにチケットを売り捌いていた。「これまでにない感動をお約束します」。たいした感動だ。たいしてだれの心にも響かず、金だけを浪費させる。消耗戦。現代の戦争。カーテンコールとアナウンスに合わせて、ぼくらはとりあえず拍手を贈る。切欠はいつだってぼくのエセ拍手だ。

「ユミっ! おめでとうっ!」

「おめでとうっ! ユミっ!」

「ユミ〜! 幸せになるんだぞっ」

 皆、涙ぐみながらビデオの中からユミに語りかけている。ぼくはグラスにワインを注ごうとして、ボトルがカラになっていることに気がついた。すぐにボーイがすっ飛んでくる。

「新しいものをお持ちしました」

 ああ……。非難の目が一つ、いや二つ? ぼくはそれらを無視して煙草に火をつける。無理もない。これで三本目だ。おまけに、ぼくはもう四回は結婚式を渡り歩いてきましたよって感じのヨレヨレのスーツを着ていたから、同じテーブルの女の子たちからの心象は最悪だった。だれもぼくに話しかけてこない。チャーミングなパープル地のライオンキングのタイも形無しだ。一般的に結婚式では生き物柄のものを身につけることはNGとされている。死を連想させるものはみなNG。「じゃあ、この牛フィレ肉のグリルは?」。誰もぼくの疑問に答えない。皆、熱心に言葉を交わし、今は必死になってプロジェクターに映し出されたビデオを見ている。まるで透明人間にでもなった気分だった。それならばと、ぼくはワインを飲む。幸い、ボーイはぼくを認識できている。ぼくは彼にチップを弾む。彼の顔がほころぶ。比例して、新婦のご友人たちの笑みが引きつっていく。つられてボーイの笑みも引きつる。ぼくはため息をつく。文句があるなら、あそこの新婦に言ってくれ。ぼくだって、なにも好き好んでこんなところにいるわけじゃない。ぼくは新婦のご友人席から壇上に向かって煙を投げかける。

 ご招待、どうもありがとう。

 そして少し考えて、こうも付け加えた。

 なんの嫌がらせだ?

 新婦は目を合わせない。


 実にいい披露宴だった。おおよその人間にとって、最高の場だ。ドンドン盛り上がっていく。さぞご機嫌にちがいない。だけど、ぼくの事態はズンズン悪化の一途をたどっていく。退屈の極みといっていい。お次はふざけた余興のコーナー! クソみたいな音楽があらんばかりの音量でかかり出す。手当たり次第に、あちこちを祝福しまくる。


――オレタチャシアワセ! オレタチャサイコー! カンシャカンシャダスチャポコポン。


 間違いない。ぼくがスピーカーだったらソッコーで耐えきれなくなって自壊してる。どうせならジャズとかにしてくれよ。「ハイ・リリー、ハイ・ロー」とかいいんじゃない? 愛が深いって感じがしてさ……。

 皆、出し物を見て笑い、立ち上がり、会話を交わしていた。高校時代の知り合いがたくさんいる筈だったけど、ぼくにはちっともわからなかった。ときたま声をかけられる。ぼくと目があった女が停止する。目が見開かれ、一瞬の逡巡、そののち笑顔。コツコツコツと控えめなヒールの音……。

「あれ、ひょっとして……」

「どなた?」

 ぼくは冷たく返し、まっ赤なワインを飲み干す。人違いを装う。知り合いその一が去っていく。いっさいのくだらない会話をしたくなかった。聞かれることは決まっている。おんなじ調子で知り合いその二がやってくる。ほら、よくきいとけよ。

「いま、どこで、だれと、なにしてるの?」

 ぼくはにこやかに答える。

「セックス」

 そん時のそいつの顔といったらなかった。きみにも見せてやりたかったな。まるで動物園でゴリラにクソぶっかけられたみたいな反応だったぜ。

 さぞ、死ぬほど笑い転げただろう。


 ぼくは新婦に義理立てさえできればいい。昔のよしみ。感謝感謝ってやつだ。彼女はほほ笑んでいる。なんだか上品な感じで。知らない顔だ。ぼくはそこから昔の面影を汲み取ろうとする。だめだ、どんなだったっけ? 仕方なくぼくは自分がほほ笑んでいる姿を想像する。今朝の鏡に映った自分の姿が目に浮かぶ。ニッコリ。うーん、パーフェクト。下の前歯がヤニがかっているところなんかが特にいい。そしてぼくは新婦に祝福の言葉を贈る。


「よかったね」

「いいヤツそうじゃないか」

「幸せになれよ」


 かける言葉をいくつか考えたけど、どれもなんだかアホくさかった。

 ぼくは余興の場を離れると、ひとりトイレに向かった。


 ひとしきり胃の中のものを便器に吐き出すと、洗面台で口をゆすいだ。吐き出した水には真っ赤なワインと黄色い胃液が混じって、ところどころマーブル模様のオレンジ色を作り出していた。実に芸術的だ。さっきのフレンチのソースにしたって遜色ない。袖に跳ねて、くすんだシャツにシミがつく。こりゃ取れないな、捨てちまおう。ぼくは顔を上げる。バカでかい鏡がみすぼらしい男を映し出していた。これが、ぼく。よく今まで生きてこられたな、とぼくは素直に感心した。できることなら、肩を組んでたっぷりねぎらってやりたかった。「もういいんじゃないか?」「だめだ。まだなにも手にしていない……」強情なヤツ……。父親そっくりの鼻筋がひどく癇に障った。

 ぼくはおもむろにシャツを腹からまくると、自分のへそを確かめた。表面的には実に普通のへそだった。少し考えて、意を決して右手の中指をへそに突っ込んだ。指はおそろしいくらいぴったりとへそにフィットした。絶妙なサイズ感。少し動かすだけで、ドンドン奥へと飲み込まれていく。そしてあっという間に指の付け根まですっぽり収まると、ピタリと停止した。まだ奥があるって感じだ。マジか。へそを起点に上半身と下半身が分断されてないか、これ。やっぱ119に電話しときゃよかったな。なまあたたかな感触。女性のあれとおんなじだ。へそはきゅうきゅうとぼくの指を締め付けている。指先をくねらせると、内臓をじかに触れられているようで、なかなかに気持ちが悪かった。ぼくは声を上げて笑った。煙草が吸いたいな、と思った。

 ジャクソンファイブのメドレーが便所までかすかに届いていた。会場ではまだくだらない出し物が続いているみたいだった。「アイ・ウォント・ユー・バック」から「エー・ビー・シー」、そして「ザ・ラブ・ユー・セーブ」。彼女のお気に入り。どこかのバカ5匹があのひょうきんな踊りのマネをしてるんだろう。両手を交互に前に繰り出して、手拍子。腰に手を当て、顔を前に突き出し、アゴをカクカク上下に動かしながら、スロウダウン、スロウダウン、スロウダウン、スロウダウン……。

 ぼくは余興のフィナーレにあわせて、一気に自分の指を引っこ抜いた。たけど、肝心なものは引っこ抜けちゃくれなかった。まあ、そうだよな。そんな簡単には、いかないよな。


 アナウンス。皆さま、盛大な拍手を……パチパチパチパチ……。


「そんなの知らないわよ」


 彼女の心底呆れたような声が、頭の中で何度も鳴り響いていた。

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