第3話 半兵衛
元康が帰った翌月には浅井長政がやって来た。現代で言えば信長は愛知県に居る。京に進出しようとすれば、当面確保しなければならない地は岐阜県と三重県で、その先にある滋賀県の実力者と手を結ぼうとしたのである。
だが藤吉郎にとっては晴天の霹靂であった。あの市姫さまと浅井長政との婚約が整ったのだった。
「市姫さまが……」
そして藤吉郎とねねが結婚した。藤吉郎は市姫さまご婚約と聞いても、松下家を飛び出したように織田家を出る事はなかった。ねねには言えないが、市姫さまの事を忘れようと、がむしゃらに頑張った。
その努力が実り、今では既に草履取りから台所奉行を経て、普請奉行にまでなっている。
そして織田家が今最も力を入れなければならない相手は美濃の斎藤氏である。
永禄四年、父・義龍の死により十四歳で家督を継いだ斎藤龍興。しかし祖父や父と比べると凡庸で、評判の悪い者を重用するなどして、祖父の代から続く家臣の流出などと、その信望を得ることが出来ないでいた。
しかし龍興は斎藤道三の三代目だが、その芳しくない評判はともかく、なぜか残る家臣団は頑強な力を持っており、他国の侵入を許す事は無かった。
織田家は父信秀の代から戦火を交えて来たが、ついに道三の娘を妻として迎える事になる。流石の信長も匙を投げる強敵だったのだ。
「ねね、しばらく留守にするぞ」
鉄壁の美濃国を下すにはどうしても必要な男がいる。竹中半兵衛その人だ。彼は美濃の栗原山に隠棲しているらしい。関ヶ原の東方にある小山だ。
「トキ頼むよ」
「栗原山ね、分かったわ」
栗原山は敵国にありこれは密行になるが、トキに頼めば朝飯前だ。おれとトキとの付き合いは長い。何しろ鶴松以来だからな。
トキに転送された先は、栗原山の頂近くになる。質素な小屋ではあるが、手入れが行き届いている。周囲では野菜を育てているようだ。ふと入り口を見ると、ちょうど中から色白な若い男が出て来るところだ。
孔明の再来とまで言われる人物には興味を持っていた。
たしかにこの男の容貌は噂に聞く孔明だな、はっきり言えばイケメンだ。藤吉郎は素直にそう思った。
「竹中半兵衛殿で御座いましょうか?」
「はい」
突然の訪問者にも落ち着いて、自然体な感じの若者が答えた。
「拙者は、織田上総介信長の家臣、木下藤吉郎と申す者で御座います」
竹中半兵衛と聞くと、どうしても壮年か老年期の軍師を想像してしまう。だが目の前に現れた者は、どう見てもただの優男だ。華奢な身体つきで、女装をすれば似合いそうだとは言い過ぎだろうか。とても天下の要害稲葉山城をたった十六騎で乗っ取った超人とは思えない。
だが確かに自身を半兵衛と認めたその若者は、終始柔らかな笑顔で藤吉郎を見つめている。思わずこちらも気を緩めてしまいそうになるのを押し止め、おれは殊更に改まって声を出した。
「私は是非先生のご指導を仰ぎたく参上いたしました」
「……織田家の方ですか、まあ中にお入りなさい」
敵方の織田と聞いて断られるかと思っていたが、案に相違して丁寧に招かれた。室内は最低限の物が置かれているようで、外から見て感じたほど狭くはなかった。
対面して座ると、おれは予定通り、思い切って本当の事情を話す事にする。
「半兵衛殿、私は未来からやって来ました」
「…………!」
じっと藤吉郎の顔を見つめる半兵衛。
「……未来から……」
もちろん怪訝な表情を浮かべ、さすがの半兵衛も次の言葉が出てこないようだ。
しかし未来からやって来たと言うおれの言葉に興味を覚えたのか、とりあえず共に山を降りる事に同意してくれた。
室町時代にオランダ人を始めて見た日本人は、その風俗を見て驚いただろう。だがすべてを否定するようで保守的な日本人も、次の瞬間には手のひらを返したように受け入れてしまう民族性も持ち合わせている。
未来から来たと言うおれを見る半兵衛の目は、好奇心にあふれて、これから起こる全てを受け入れてやろうとしている少年のような目をしていた。
「トキ頼む」
「分かったわ。でも、半兵衛さんって、なかなかのイケメンね」
トキとは二人の間で交わされる言葉だけがコミュニケーション手段で、その表情は読み取れないが、気持ちが揺らいでいるのは、声の調子で分かる。絶対に面食いじゃないのか。
おれは半兵衛殿に悟られないように、そっと声を掛けた。
「……あの、トキ、とにかく行ってくれ」
そして周囲の空間がゆがみ、移転を終えると、
「これは!」
突然襲われた異変には、さすがの半兵衛も肝をつぶしたのか、しばらく固まっていた。
「半兵衛殿、ここは清洲の城です」
「……藤吉郎殿」
生つばを飲み込むようにして、やっと声を出した半兵衛、
「このような怪しい術は、余り使わない方がよろしいかと存じます」
「…………」
「自然の摂理に反しておりますぞ」
「分かりました。これからは余り使わないようにしましょう」
おれはイケメン半兵衛殿にちょっとだけ優越感を感じて、そう返事をした。
信長は上機嫌で半兵衛と対面した。美濃の鉄壁に手を焼いている信長にとって、敵の内情を知り尽くしている半兵衛は渇望の対象であるのだろう。
結局半兵衛は、おれ藤吉郎と行動を共にする事となる。しかし、
「殿」
「――――!」
二人だけになると、半兵衛がおれを殿と呼んだのだ。
「半兵衛殿」
「藤吉郎殿、これからは殿と呼ばせていただきます」
半兵衛はおれを天下を狙う人物である、その器でもあると言う。
「しかし半兵衛殿も――」
「私は殿と違い、天下を取るような器ではありません」
と、この二十歳を過ぎたばかりの天才軍師は言うのだ。あくまでも補佐に徹するのが自分の生きる道だと。そして話は上様、織田信長にも及ぶ。
「では半兵衛殿、上様は天下を取ると思いますか?」
「あの方は激し過ぎる。例えて言えば魔王で御座います」
「…………」
「ですが、所詮は生身の人間、どこまでも突き進んで高転びにころぶでしょう」
それはおれも承知している。だが前回秀頼に転生した時は、同じ歴史にはならなかった。枝分かれをしたパラレルワールドとなり、おれの知っているものとは全く違う世界となって行ったのだ。予断は許されない。必ずしも本能寺の変が起こるとは限らないのだ。
半兵衛は先を続けた。
「あの方はあなた様が天下を取る瞬間まで導いてくれる存在かもしれません」
「…………」
「ですが、それはまだ先の事、当面の目標は美濃です」
おれは半兵衛の次の言葉を待った。
「上様の美濃攻めに手柄を立てなくてはなりません。それには……」
半兵衛は声をひそめた。
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