9話 残された家族


 今回の反乱の鎮圧は、非常時による特例という扱いで軍を動かしていた。

 父である曹操が死んだ。しかし曹昂は、まるまる曹操の地位を継いだというわけではない。


 曹操が「魏公」として自らの「国」を有することになるのはまだまだ先の話だった。

 現時点では、曹操はただの高級官僚であり、現代日本で言えば「総理大臣」みたいな存在に過ぎなかったわけだ。


 つまり曹昂はそんな総理大臣のただの長男坊。総理大臣が急死したからとて、その全権を引き継げるわけもない。

 現在の漢王朝の皇帝である「劉協」から正式な官位を定められて初めて、政治や軍隊を動かせるのだ。

 だからこそ俺は、曹操の後継者としてまずは、それなりの官位を受ける必要があった。


「初めてのはずなのにな。懐かしくも感じる」


 今、天下の都として定められている許昌の地。俺は騎馬部隊に囲まれながら、大きな門をくぐった。

 記憶の中の許昌と比べると、あまりにも活気が足りない。これが、曹操が死んだということなのか。


「曹昂様、宮殿へと向かわれますか?」


「いや、それは少し後にしてくれと、夏侯惇に伝えてくれ。屋敷で一泊して、明日、参内する」


「御意」


 馬上で曹仁が頷く。記憶によれば、曹仁は曹昂とも歳がそれほど離れておらず、兄のような存在であったらしい。

 昔は兄弟のように接していたが、今や曹仁は俺に対して、君臣の礼を尽くしてくれている。


 曹操軍最強の男。後世ではそう評されている人物だが、口数も少ない、真面目で落ち着き払った性格をしていた。

 漫画やドラマの影響からか、曹仁って気性が荒いイメージがあったんだが、どうやら違うらしい。


 曹仁は騎馬隊を引き連れて街とは違う方向へと駆けていく。

 俺は僅かな護衛隊と共に、家族の暮らす、曹操の屋敷へと足を向けた。


 話し相手であった于禁も不其も兗州にとどまり、孤独がどっと押し寄せる。

 俺は今から、父が死んでしまったことを、家族に報告しないといけない。こんなに苦しいことがあるかよ。


「許チョ、そこまで物々しい護衛はいらない。母上を、怯えさせたくない」


「屋敷の中の護衛は最低限に留めます。ご安心を」


「助かる」


 典韋が戦死した後、護衛隊長として起用されたのは、精鋭歩兵部隊の隊長であった許チョだった。

 歴史を知っているから分かるが、護衛隊長としてはまさに最適な人選だろう。


 痛む体を無理に動かして、馬車から降り、自分の足で屋敷へと足を踏み入れる。

 やけに閑散として散らかった、大きすぎる屋敷だった。まるで廃墟のようだ。


 記憶の中の屋敷は、多くの使用人があちこちで働き、多くの曹操の愛人や嫁がよく出入りしていた。

 そんな活気は今や遠い昔のことのようだった。


「あぁ、子脩、子脩か……?」


「母上」


 髪も肌もやつれた、勝気な顔をした女性が一人。

 曹操の正室であり、曹昂の育ての母。彼女は名を「丁夫人」と言った。


 俺は玄関で膝を折り、思い切り地面へ頭を打ち付けた。何度も、何度も。

 曹昂ならばきっとこうしただろうと、そう思いながら。


「私は! 親不孝者に御座います!」


「やめなさいっ!」


 丁夫人は飛び込むように俺の体を抱きしめ、俺の土下座を止めた。

 頭はがんがんと痛み、血も滴っている。丁夫人は、いや、母上はそんな俺を抱きしめながら泣き叫んでいた。


「父を、私は、お救い出来ませんでした。それなのにこうして、おめおめと生きて帰ってしまいました」


「だからこそです。もう私からこれ以上、愛する人を失わせないで。貴方だけが、私の唯一の救いなのですから」


 実の親子ではない。しかし、間違いなく親子であった。これが母なのか。思わず涙が零れる。

 俺は今までこれほど人に愛されたことはあっただろうか。そう思った途端、また、涙が溢れてきた。


「立ちなさい、子脩。これからは貴方が、曹氏を率いるのです。いつまでも泣いてはいられません」


「私が居ない間に、屋敷では、何が」


「孟徳の側室は銭を持たせたうえで、全て縁を切りました。しかし子のある卞夫人と環夫人のみは留めています」


 卞夫人は、あの曹丕や曹植を産んだ女性であり、曹操を良く支えた賢母であった。

 しかし環夫人にはまだ、曹昂の記憶の中では子は居なかったはずだ。いや、違う。身ごもっていたのか?


「環夫人は貴方たちが出征している間に、男子を生んでいます。母体に障る故にまだ、孟徳の死を知らせていません。時を見て、私から話します」


「私が父に代わり、皆を守ります。必ず、これ以上、辛い思いはさせません」


「いいえ。奥は私が守ります。貴方は、戦いなさい。孟徳ならきっとそうしたでしょう。誰かの死で足を止めるような人ではなかった。仇を取りなさい」


「はい」


 母は着物の袖で俺の額の血を拭う。

 見れば見るほど、ひどく疲れた表情をしていた。


 そんな時だった、屋敷の門前で騒ぎ声が聞こえたのだ。幼く、聞き覚えのある声である。

 外では護衛兵に抱えられながらも暴れ、怒鳴り声をあげる少年が居た。あれは、一回り年の離れた弟である、曹丕だった。

 俺は母をその場に留めて、暴れる曹丕に歩み寄る。


「どうして! 父上は死んだ! 兄上! 何故だ! 何故、父上を助けてくれなかった!」


「……すまない、子桓」


「そんなっ、そんな言葉が聞きたかったんじゃない! 父上を返せよ! 馬鹿野郎!!」


 振り上げた拳は俺に向かうことなく、曹丕は自らの太ももを殴りつける。

 そして目を真っ赤に腫らしながら護衛を振り払い、そのままどこかへと駆けて行った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る