アイインザミラー

詠月

アイインザミラー

 『あの子が嫌い』


 彼女は言った。

 淡々と、感情のない瞳でこちらを見つめて。



『あの子も嫌い』


 彼女は言った。

 私とそっくりな顔で、全く同じセーラー服を身に纏って。



『みんな嫌い』


 彼女は言った。

 手首に赤く光るブレスレットを揺らして。



 嫌い。嫌い。何度も繰り返す。聞いていて嫌になってくる程。何度も何度も。その様はひどく不気味で私は目を逸らそうとした。けれど、逸らせなくて。



『嫌い』



 彼女がこちらへと手を伸ばす。私は黙って見ていることしかできなかった。迫ってくる手のひら。込み上げてくる恐怖。そんな私を嘲笑うかのように、目の前で彼女の口がゆっくりと吊り上げられていく。何も映っていないその瞳が愉快そうに細められる。



『ねえ、そうなんでしょ?』



 そう彼女は……【私】は、嗤った。





◆◆◆


 「真紀?」


 突然名前を呼ばれてハッと私は意識を現実へと戻した。目の前の鏡には、どこにでもあるような普通のトイレを背景に真っ青な顔をした私が映っているだけで。


「鏡なんか見つめてどうしたの?」


 出入口で振り返った友人たちの一人・智美が早く行こと手招きする。慌てて私は水道を止めてそちらへ駆け寄った。


「ごめん、ぼうっとしちゃってた」

「なにそれー」

「本当に真紀は天然だよねえ」


 ……天然、か。


 可笑しそうに皆が笑う。私も合わせて笑いながら、スカートの裾をバレないようにきゅっと握った。シャラっと、袖の中に隠すように付けていたブレスレットの飾りが微かに音を立てる。けれどそんなことを気にする余裕はなかった。バクバクと心臓の動悸がまだ落ち着かない。


 さっきのは、幻?


 これが幻覚というものなのだろうか。私と同じ顔と格好をした少女。その姿が今もはっきりと脳裏に焼き付いている。こんなにも幻覚というものは残るものなのだろうか。すぐに消えてしまうものではないのか、幽霊みたいにぼやけているものではないのか。あんなにも、現実と見分けがつかないものなのか。


 私はぎゅっとセーラ服の袖を掴んだ。

 ……こわいと思った。


「ねえ真紀はどう?」

「えっ」


 教室へと戻る廊下の途中。不意に話を振られ私は戸惑った。考え事に夢中で皆が話していた内容を全く覚えていない。


「真紀ってば、もしかして聞いてなかったの?」

「あ、うん……」


 辺りがシンと静まり返る。深く考えずに頷いてしまった私はふと我に返って真っ青になった。


 まずい、間違えちゃったんだ。いつもあんなに気を付けていたのに。一気に周りの温度が下がったような気がして私は息を飲んだ。


「ご、ごめ……」

「あはは、もー仕方ないなあ」


 智美が笑って私の肩を叩いた。さっきの一瞬の間は何だったのかと思うほど不自然な、明るい笑み。



「次はちゃんとしてよ。ね?」



 次はないよ。


 そう頭の中で変換された言葉に体が震えそうになる。


「……うん」

「ねえねえ聞いてよ、そういえばさあ次の授業のーー」


 今度は話を聞き漏らさないように。私は皆の輪の端で笑顔を浮かべた。


 これが私の日常だった。





◆◆◆


 「ただいまー」

「あら、おかえり真紀」


 帰宅後。靴を脱いだ足でそのままリビングに顔を出せばキッチンにいたお母さんが振り返った。


「今日は早いのねえ。友達と一緒じゃなかったの?」

「……うん、まあ」


 智美に用事があるらしく、久しぶりにどこにも寄らずに帰ってきた。皆もきっと同じ。

 早く帰ってきただけで驚かれるなんて、いつの間にこれが当たり前になってしまっていたのだろう。


 何とも言えない感情が渦巻く。ぼうっと立ち尽くしたままの私を見てお母さんがどうしたのと心配そうに声をかけてきた。


「具合でも悪いの?」


 わからない。


「ううん、大丈夫。たぶん疲れてるだけ」


 この感情が何なのか、わからなかった。悲しいのか嬉しいのか。私は今どんな気持ちなんだろう。自分自身のことなのによくわからない。


 まるで水の中にでもいるかのように感覚はひどく曖昧だった。


「手洗ってくる」


 一言そう残してから鞄を置いて洗面所へ移動する。入った途端嫌でも視界いっぱいに鏡が映って、私は反射的に体を強張らせていた。


 あの日から、鏡を前にすると咄嗟に身構えるようになってしまった。あの真っ白な手が今にも伸びてきそうで落ち着かない。


「……そんなわけないのに馬鹿みたい」


 ほんと、幻覚にここまで惑わされてるなんて馬鹿みたいだ。第一見間違えだったかもしれないのに。こんなの気にしなければいいだけ。


 そう思いながらも近付く時にはつい目を逸らしてしまった。またあの、私そっくりの少女の姿が映っていたら。あんな風に笑いかけられたら。ギリギリ保てている平静も崩れてしまうだろうから。


 手洗い等を済ませもう一度リビングに戻ってきた私は、机の上にポツンと置かれていた封筒に視線を止めた。


「お母さんこれ何?」


 気になってキッチンを振り返る。ああ、とお母さんは水道を止めて近寄ってきた。


「真紀にあげようと思って」

「私に?」


 何だろう。開けてみてと促され素直に封筒を手にする。一瞬中身がないのかと思った程薄い。紙みたい、なんて考えながら封を開けた。


「え……」

「それ、前に好きって言ってたでしょ?」


 見慣れた絵柄が描かれた一枚のチケット。今大人気のグループのライブで、行きたいけどどうしようと悩んでいたもの……


 私はバッと顔を上げてお母さんを見た。


「覚えてたの?」

「もちろんよ。あなたいつもそのブレスレットしてるでしょ?」


 視線を辿れば私の手首から見えた青色のブレスレット。ずっと前、そのグループと店のコラボ商品を買った時に付いてきたブレスレット。今の私にとって唯一の宝物で。



 ……見てくれてたんだ。



 じわりと何か温かいものが、胸を中心にして身体中へと広がっていくような感覚。


「……あり、がとう」

「いいのよいいのよ」


 口にしたお礼の言葉はぎこちなかっただろうに、お母さんはにこにこと優しく笑ってくれた。その笑顔に自然と頬が緩んで。貰ったばかりのチケットをぎゅっと胸に抱き寄せた。


 きっとそんなはずはないと思うけれど。

 何だか。久しぶりに笑えた気がした。





◆◆◆


 皆の移動と一緒に端っこで付いていって。振られた話題にそうだねと笑って頷く。

 お母さんにチケットを貰って以来、そんな変わらない日々の中でライブに行くんだという未来のことだけが輝いていた。久しぶりにキラキラとしたものが視界に入るようになった。



 ……そんな毎日が再び消えてしまったのは、楽しみにしていたライブが一週間後に迫った日だった。



「ちょっと聞いてよみんなー、週末出掛ける約束してたのにキャンセルされたんだけどー!」


 昼休み。真ん中でスマホを見ていた智美が不意に顔を上げたかと思えば、そう嘆きながら偶々一番近くにいた私に抱き付いてきた。


「ねえひどいと思わない?」

「なにそれひどっ」

「ないわー」

「そ、そうだね……」

「でしょでしょー? あ、そうだっ」


 良いことを思い付いたかのように、智美はパッと顔を輝かせた。


「週末みんなで遊びに行こうよ!」

「え……」


 さあっと血の気が引いていく。そんな。


「駅前にさあ、新しくお店できたんだよね。そこ気になるんだよー」

「えっ、マジでいいじゃん!」

「行っちゃお行っちゃお!」


 わっと皆が盛り上がる中。私は目を伏せた。


 週末。ライブの日、だ。大好きなグループの。ずっと楽しみにしてて。お母さんがチケットをくれて。


 どうしようとぐるぐる思考が回る。


 用事があるって言う? その日はちょっと無理なんだって、軽く……そう、軽く言えばいいんだ。一日くらいきっと平気。わかってくれる。許して貰える。


 私は口を開こうとした。ごめんと。軽く、ノリ良く言ってしまおう。自然に見えるように口許に笑みを作って。ほら、ごめんって……



「真紀はー?」



 言葉が声となるよりも一足早く、智美が私に目を向けた。すぐそこまで来ていた言葉が思わず止まる。


「あ……私は……」

「行くよね?」


 有無を言わさずに智美が微笑んだ。


「もう真紀ったら、この前ヒマって言ってたじゃん」


 ポンと肩を叩かれる。他の皆の視線も集まってきて。私はぎゅっと手を握り締めた。


 言ってない……そんなの、言ってない。私はそんなこと言ってない。


 心の中で叫ぶ。当然届くわけがなくて。

 私は……



「ね、真紀」


 そうでしょ?



 もう一度智美が言う。笑顔で。でもその瞳は全く笑っていなくて。もう無理なんて言えなくて。



「っ……う、うん……」


 頷くしかなかった。



「真紀ってば、自分の言ったことを忘れるなんて天然にも程があるよー」

「ほんとにねー」

「あ、あはは、ごめんごめん……」


 天然って、そういう意味だっけ。


 何でもかんでも天然で済まされてしまう。その方が都合がいいから。そこに私の思いは、意見は、言葉は存在していなくて。


 それから、気が付けば廊下に出ていた。

 放課後だからか周りには誰もいない。智美たちの輪からどうやって抜け出してきたのかも覚えていない。先生に呼ばれたとか何とか、きっと何か適当に理由を付けてきたのだろうけどちゃんと上手くやれたのかな。ふらふらとその場に蹲ったけれど記憶がないだけに不安でしかたがない。


 早く戻らないと。


 そう考えるとずしんと心が重くなった。チケットをくれたときのお母さんの顔を思い出す。


 ……せっかく、くれたのに。私のことを思って用意してくれたものなのに。


 台無しにしてしまった。行けないという悲しさも当然あるけれど、そんな罪悪感で押し潰されそうになる。溢れそうになるものを堪えてグッと唇を噛んだ。


 私が悪いんだ。

 私が、間違えてしまったから。もっと早く言っていればよかったんだ。私のせい。全部私の……



『ほんとうに?』



 声がした。


「え……」


 誰もいなかったはずなのにどうして。誰の声?


 戸惑いながら顔を上げた私が見たのは、やはり誰もいない静かな廊下と。



 私とそっくりな少女を映した、鏡。



「っ……!」


 ドクンと心臓が脈打つ。緊張からか恐怖からか。乾いた口は何の音も発せなかった。



『ふふっ、どうしてそんなに怯えているの?』



 少女が尋ねた。人懐こそうな笑みを口許に浮かべて、小首をかしげて。深紅の瞳。その瞳から何故か視線が逸らせない。


 ……まただ。


 私は震える手をぎゅっと握りしめた。


 また会ってしまった。幻想なんかじゃない。目の前の少女の放つ気配は、この威圧感は絶対に脳の作り物なんかじゃない。


「あ、あなたは……だれ、なの?」


 震える声を絞り出す。廊下に響いた私の声はやけに大きく聞こえた。


『おかしなことを聞くのね』


 見た通りよ、と。少女はくすくす笑った。それがまるで馬鹿にされているかのように感じられて私は状況も忘れて思わず眉をひそめた。


 穏やかに。表面的にはそう見える表情で変わらず彼女は笑っている。


『マキだよ、ワタシは』

「え?」


 私とそっくりの少女が口にしたのは私と同じ名前。意味がわからず戸惑う私の様子にゆっくりと瞳を細めた。



『ワタシはアナタ』


 ワタシたちは同じ存在。



「なにを言って、」

『おかしなことは言ってないわよ。だって今ワタシとアナタを隔てているこれは鏡。鏡は自分の姿を映すもの。そうでしょ?』


 そう、だけど……


 当然のように口にする彼女だけれど、私は納得できずぎゅっと制服の上からブレスレットを握った。


 少なくとも鏡に映った自分が勝手に喋り出すなんてことは聞いたことがない。彼女は何なのだろう。やっぱり幻? それとも。本当に……



『ねえマキ』



 突然低くなった声に私はビクッと肩を揺らした。彼女から発せられた名前が自分のものだと気付くまでに少し時間がかかった。


「な、なに……」

『全部自分が悪いって。ほんとうにそう思ってる?』


 えっと私は目を見開いた。


『自分が悪いって? ライブに行けなかったのも、オカアサンから折角貰ったチケットを台無しにしてしまったのも、サトミたちの誘いを断れないのも。全部自分のせいって本当に、心の底から思ってるの?』

「ど、どういう意味……」


 いったい何を言いたいの。何で全部知ってるの。チケットのことは誰にも話していないのに。なのになんで知ってるの。


『違うよね』


 彼女はまた笑った。


『ねえ違うでしょ? どうしてそんなウソをつくの?』

「う、嘘じゃな、」

『じゃあまたワタシが代わりに言ってあげる』


 ゆっくりと近付いてくる。そのまま鏡から出てくるのではないかと思うほど近付いたところで足を止めた。



『……みんな消えちゃえばいい』


「っ、え」

『全部全部消えちゃえばいい』


 ドキッと心臓が跳ねた。勢いよく顔を上げて彼女を見つめる。


 何を、言ってるの?


『もう疲れた。発した言葉は聞いて貰えない。好きなものも堂々と言えない。意思なんてないも同然に扱われて。合わせてばかりで何もない、つまらない日常。こんな毎日なんていらないのに』


 彼女の声がガンガンと頭に響く。私は息を飲んだ。


『本当はそう思ってる。これがアナタの本音。自分が悪いなんてやっぱり嘘じゃない』

「ちが、」

『違くないでしょ?』


 違う。思ってない。

 私はそんなこと思ってない。


 耳を塞いでも声は途切れることなく届いてきて。



『今のアナタは死んでるよ』



 死んでる……


 その言葉が胸に冷たく落ちた。

 手先が冷えていって視界が歪む。彼女の瞳の赤が滲んでよく見えない。



 私は、死んでるの?



 きっとそういう意味じゃない。生か死かなら生きてるに決まってる。呼吸だってしてる。でも。


“私”が、死んでるんだ。“自分”が死んでるんだ。



「ぁ……」


 一度そのことに気が付いてしまえば、崩れるのはあっという間だった。

 体が震える。感覚が遠のいていく。世界がぐるぐると回る。私は。


 ずっと合わせてきた。合わせないと嫌われる。智美たちに仲間外れにされる。一人になりたくなくて。だから合わせてばかりだった。それで良い、これで良いんだと言い聞かせて、しがみついて、普通のことだと思い込んだ。


 けれどそんなの続くわけなくて。この当たり前が辛くなって。


 辛い。苦しい。大声で泣いて叫びたい。でもそんな衝動すらも無理やり抑え込んで、感情に見て見ぬふりをして。そんな日々を過ごすうちにいつの間にか、自分という感覚が薄れていっていた。いつの間にか、自分で自分を殺していた……



『アナタは悪くない』



 冷たい廊下の床で座り込む私に彼女は静かに言った。


『全部アイツらが悪い』


 誰かが聞いていたら、全てを押し付けるなんて身勝手だと感じるかもしれない言葉。それでも、本当はずっと……ずっと、心のどこかで待ち望んでいて。


 止まらない。堪えきれなかった嗚咽が漏れる。


『だからねーー』


 いつの間にか下を向いていた視界の端、鏡の中で彼女が座り込んだのがわかった。よろよろと顔を上げる。鏡なのにそこに映っているのは私じゃなくて、赤い瞳のもう一人の【私】。



『ワタシが助けてあげるよ』



 全く同じ顔で全く同じ服装で。違うのは瞳の色と……なんて些細なものだけで。口許に不敵な笑みを浮かべた彼女が真っ直ぐに私を見つめた。


 いつかと同じように伸ばされたその手。前回は逃げた。不気味でとにかく怖かった。その手に捕まってしまえば、どこか別の世界へ連れて行かれてしまいそうだった。でも今は?



 彼女の瞳が妖しく赤く光る。



 ……私は。


 静かに空気が揺れる。シャラッとブレスレットが立てた小さな音が誰もいなくなった廊下に響いた。





◆◆◆


 ガラッと教室の扉を開けるとその音に気が付いた智美たちが振り返った。


「あ、もう真紀ったらどこまで飲み物買いに行ってたのよ」


 座っていた教室の中央の席から立ち上がり、明るく笑いながらこちらへと近付いてくる。


「遅いじゃない。喉カラカラだよー」


 そこでようやく私がペットボトルも何も持っていないことに気が付いた様だった。笑みが一瞬で不機嫌そうな表情へと変わる。


「ちょっと」


 何で何も持ってないの、だろうか。続くであろう言葉は容易に想像できて私はため息をついた。


「はあ……めんどくさ……」

「え? 今なんて、」

「めんどくさいって言ったの。聞こえなかった?」


 わざと重ねてそう言ってやる。面白いほど間抜けな表情を浮かべる智美の姿に思わず堪えきれなかった笑みが溢れた。


「ふふっ、じゃあ私帰るから」


 同じく呆気にとられた様子で立ち尽くしている他の女子たちの側をすり抜け鞄を掴む。手首に付けたブレスレットが赤く光り、シャラッと小さく揺れた。


 そのまま廊下へと出る。追いかけてくる人はいなかった。


「なんだ、意外と呆気ないなあ」


 もう少し怒ったり騒いだり、面白くなると思ったのに。こんなくだらないことでウジウジ悩んでいたなんて可哀想だなあ。


「うーん、まあいっか!」


 これからはつまらない日々じゃない。折角なら楽しまないと。そう思い直して昇降口まで駆け出そうとして。


 ふと鏡の前で足を止めた。


「……ふふっ」


 愛しいものに触れるように、鏡の表面をそっと優しく撫でる。



「じゃあね。……オヤスミ」



 今付けているものとよく似た青いブレスレット。瞳を閉じて眠る鏡の中の【私】に、ワタシは笑いかけた――

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アイインザミラー 詠月 @Yozuki01

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