Episode 1-3


小さなトランクをお伴に、待ち合わせ場所のファミレスへと向かう。

煉瓦造りの階段を上がり、レインコートを脱いで水気を切る。

扉を押し開ければ、店員が気怠そうに出迎えた。

ちらりと視線を彷徨わせれば、先に席をとっていたであろう、ナツキの姿がある。

名月は久芳に気づくと、とっとと来い、のジェスチャーをした。


「おそい」 開口一番、名月から厳しい声色が飛ぶ。

「えーせっかく来てやったのに~」

「るせクソノロマ、ナマケモノのがまだ足速いわバ~カタ~コ」

「るっせ~バカって言った方がバカなんです~」

 

君は席に座り、注文をとる。生姜焼き定食の気分だ。

先にドリンクバーでミックスジュースを作り遊んでいたであろう名月が、完成品を押し付けてきた。

中々にグロテスクな色をしている。


「イッキ!イッキ!」 コップをナツキの方に戻す。

「オメーが飲めよお、俺様特製だぞ」 げたげた笑いながら、久芳に押し返す。

「いらね~絶対ゲボの味すんじゃん、ナツキくんに似合うよ」

「あ?ゲボ色のダセ~~上着きてるテメーがいうのかよコラ、イワすぞ」


結局、ドブ色のジュースは脇に置いて、それぞれ好きな飲み物を取りに行く。

名月とのこのバカみたいなやりとりはいつも通りで、幾分か安心を覚えた。

メニューを待つ間、名月が会話を切り出す。


「そうだ、お前の母親の件だけど。やっと見つけたぜ、苦労したよ。やっぱこの町にいたみたいだな」

「……あのさー」

「感謝しろよ~?一か月もかかったんだからな、テメー写真の一枚も持ってねーっていうから……」

「なんで急にナツキくんから俺の親の話出てくるわけ?」

「……あ?」

「ん?」


一瞬の間。窓を叩く雨音が一瞬止まって、またリズミカルに音を鳴らす。

信じられないものを見る目をして、名月が唇を尖らせる。


「何言ってんだテメー、自分から探してくれって頼んでおいてよお。

 すっとぼけたツラしてんじゃねえぞ、喜べやコラ」

「……俺がぁ~?」

「はあ~~~~~~~~?お前以外に誰がいんだボケジジイ」

「あー最近の若者は攻撃的だねぇーー」

「最近のジジイは若者の扱いが雑だなオイ?金払ってやんねえぞ」

「…………ほんとに?俺が言ったの?」

「たりめーだろうが、そのために俺様が骨折ってやったってえのに、この恩知らずめ」


まるで覚えがない。

名月はどこか探るような目で、久芳の顔を見つめた。

そもそも、行方知れずになって十年も経つ身内を、一介の高校生に探してくれ、だなんて頼むわけがないというのに。

記憶の外で、知らない自分が好き勝手に何かしでかしている。恐怖というより、奇怪な世界に自分が放り込まれてしまった気分に陥る。


—————雨の降る音を、ひときわ強く感じた。

音もなく、雷が鋭くファミレスの外、黒く塗りつぶされた雨空を照らす。

天啓のように、君の脳裏に、ある光景が蘇る。

 

同じように、このファミレスの窓際の席に座っていた。

名月が神妙な顔で、久芳に一枚の写真を手渡す。

それに写っているのは、母親と西澤だ。机の上に置いてあったものだ。


『悪ぃな、これ以外に見つけられた手がかりはなかった。

 あと3日待ってくれ。これで向こうから連絡も取れず、見つけられなかったら。

 ——その時は、二人で逃げようぜ。こんなクソの掃きだめから』

 

ずき、ずき、ずき、ずき、ずき、ずき。

しきりに、頭の奥に、鉛で打ちこむような痛みが響く。

は、と我にかえるころ、目の前に注文した生姜焼き定食が置かれていた。

名月は机上に並んだカルボナーラに手をつけていたが、久芳の様子を不思議に思ってか、手を止めた。

 

「食わねーの?」

「…………、……頭痛ぇ」

「酒でも飲んだ?ザコの癖にガバガバ飲みすぎんだよ、テメーは」

「誰がザコだ、黙って飯くらい食えよ」


苛立ちながら、懐をまさぐる。家から持ってきた頭痛薬だ。

出てくる時、無意識的に尻ポケットにねじこんでいたらしい。

飲まなくては。妙な焦燥感に手足を支配されているようだった。

水をそそいで、錠剤をごくりと飲み干す。

ほどなくして、頭痛はゆっくりと引いていった。少しの高揚感と眠気がネックだが、暫くは痛みに悩まされることはない。

名月は神妙な顔で、久芳の様子を見ていた。


「……で」 くるり、とフォークがパスタを巻き取った。

「母親の話、しなくていいわけ?」

暫しの沈黙の後、久芳も生姜焼きに手を付けた。

「……してよ。来たんだから聞くしかないだろ」

「そ。お前が何も覚えてないっていうから、いちから全部あらってやったぜ」


名月はパスタを脇にどけると、分厚い茶色封筒を取り出した。

中から出てきたものは、調査結果をまとめた書類や写真類などだった。

まるで本物の探偵みたいだ。名月にこんな能力と行動力があったとは知らず、無自覚に久芳はショックを受けていた。

久芳に構わず、名月は書類を並べてみせる。


「名前は東院アンナ。10年前にこの町からみらいヶ丘市……かなり遠いよな……に、この町から戸籍をうつしてる。

ああでも、アンナってのは偽名っぽいらしくてさ。少なくとも4~5回は名前を変えてる。元の名前までは流石に辿れなかったや。

 お前と……弟のホラ、之茂だっけ。二人を産んだから一旦アシがついたって感じだ。

 なんか、何かからずっと逃げてるっつー印象だな。で、今はこの町のどっかに潜伏してるくさい」

「…………」


ナツキは淡々と久芳に、そう告げる。

ぼう、と書類を見つめるが、字が上手く頭の中に入ってこない。

記憶にあるのは、物静かでどこか淡泊で、あまり会話が得意じゃないが、笑顔が愛らしい母の横顔くらいのものだ。


「こっちから一応連絡は取ったけど、明日までに返事なかったら、接触は諦めようと思ってる」

「なんて言って接触するつもりなんだよ」

「決まってんだろ」


名月は再びパスタを手元に戻して、じゅるるっと一気に吸い上げる。

皿の中身が空っぽになる頃、今度はナポリタンがきた。それにも手をつけ、やはりあっという間に平らげていく。

男子高校生の食欲はおそろしいな、などと呑気な感想が浮かぶ。


「この町から、遠くまで逃がしてくれるのは東院アンナだけって、お前が言ったんじゃないか。

 お前が頼めば、外に連れ出してくれるはず。親子なんだから、利用してやれよ」

「……?何言ってるのかよくわかんねーけど」


当惑を見せる久芳。

先程まで更年期だのボケジジイだのと笑い飛ばしていたが、名月も流石に何かがおかしいと気づいたようだ。

三杯目になるボンゴレパスタを食べる手を止め、きょとりとする久芳の目を覗き込んだ。


「……大丈夫か?マジに記憶喪失かなにか?

 こないだの会話、ぜーんぶ忘れちまってんの、もしかして……?」

「やっべー昨日タンスの角に頭でもぶつけたかな~」

「お前、マジにアホなのな……普段からぼーっとしてるな~とは思ってたけどよ」

「あーここぞとばかりに馬鹿にしてんじゃね~、……俺記憶喪失なの?」

「……まさか……」 顔をしかめ、名月は一瞬視線をそらし、また戻した。

「おい、どこまで覚えてる?」

「どこまでって……、…………」


沈黙が、二人の間を包んだ。

言葉を失うほかなかった。自我はあるのに、記憶ばかりがまるで虫食い穴だ。

どう説明をしたものかと思考を巡らせていた、その時だ。


──ピルルル、ピルルルルル。

久芳の携帯電話が、しきりに無機質な音を立てる。

表示されているのは、電話帳に登録されていない番号だ。

今度は別の意味で、二人の間に緊張が走った。


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