身から出た錆

身から出た錆は毒皿まで喰らう覚悟だった。死ぬのは一人でいい。


「私は政治家でもあるし、金融機関でもあるし、司法機関でもある。


誰かの自殺を止められるかもしれない」


女の顔に見覚えがある。市議で特殊詐欺防止キャンペーンだかの協賛者だ。


申し出は嬉しいが、政治家の手を煩わせるともっと厄介だ。


「その程度なら私の方で可能で…」


強引に断ると女が言葉をかぶせてきた。



「でも貴方がここに来なければこの作戦は続けられません。


私を信頼してください」


その強引さに私は折れた。


「感謝します」


私は立ち上がり窓際のコンピューターを触った。さっきから気になっていた。


『この画面は何ですか?』


『通報窓口です。命のネットワークの相談員とLINEでつながっています』


『この画面は誰から見たら何ですか?


貴方の活動に賛同していますか?』


私はかなり意地悪な質問をした。名義貸しする大物もいるからだ。


『私に賛同しています。正直言って怖くて乗り気でなかったのだけど


貴方が立ち上がったからやる気が出た」


出来る限り支援をするから身代金を肩代わりはやめろ、と諭された。



私は命のネットワーク事務所を出ると職場に戻った。副反応の経過が芳しくないと嘘を言って半日有給を取ったのだ。身代金の支払猶予は明朝だ。


アプリでタクシーを呼ぶと秒で迎車が来た。確認ボタンを押して数秒だ。コロナの影響とはいえ、飛んでくるほど暇なのか。


ドアが開くなり運転手はニヤリとした。


「あんた、昨日の?!」


男は私のスマートフォンを差し出してきた。いや、機種も傷み具合もそっくりだが、微妙に違う。念のために内ポケットを確認して、私は声をあげた。


「いつの間にすり替えた?!」


運転手は苦笑しながらスマホを返してくれた。


エンジンがかかり、車が動き出す。


「あんなチャットをしたのはあの人を殺してほしかったので。


もしもの場合のためにこのスマホを持っているのです』


彼が何者かは知らないが自分のスマホを無断でコピーされたあげくミラーリング機能を仕込まれたら気持ち悪い。アプリに記憶したパスワードもクレジットカード番号も筒抜けだ。


「面倒なことをしてくれたな! 警察に突き出してやる」


「では、貴方を無賃乗車の現行犯として私人逮捕します」


男はタクシーメーターを倒した。アプリが連動する。大阪から乗ってきたことにされている。クレカアプリが警告した。残高不足で決済できない。


私は抵抗を諦めた。「好きなようにしろ。潔白の証拠は隠滅済みなんだろ?」


『わかりました。スマホを触っていたのはお礼に聞きたいことがあって。


このスマホはどうされますか?』


「俺のだが…くれてやる。だが妻が気づくぞ。ネトフリは俺の名義だ」


運転手は蟷螂の斧には乗らず代わりに反撃して来た。



「奥さんがネットフリックサーなら安心して下さい。


私の友人がセキュリティソフトの開発に携わっていて、既にインストールされているはずです」


私は黙って助手席のシートに身を沈めた。


『貴方はどうして私を信じてくれるんですか』


私は沈黙を守った。


『ネットが私を殺しているからです』


「お前がネットを殺すからだよ」


私は声に出していた。


『そうです。だから私がネットを守る』


「どうやって守るんだ」


私は思わず聞いていた。彼は私と全く同じ疑問を持っていた。


『それはわからない。ただ、から逃げるのは間違っている』


彼の意見に同意はできない。


『そうです。私もそう思いません。でも、ネットは私から逃げられない』


なるほど、確かにそうだ。


『ネットを消すのが無理ならば、ネットに殺される人を救います』「そんなことが可能だと思うのか」


『私はそう信じています。ネットは人の命を救っている。ネットが殺人に悪用されるのがおかしい』


なるほど、確かにネットは善行に使っている人も多い。


『ネットは人間を幸福にする道具なのです』


私には理解できなかった。「そんな綺麗事が通ると思っているのか」


『綺麗事ではありません。ネットはただの情報伝達手段ではありません。ネットは社会そのものです』


私は言葉を失った。


『ネットが私を追い詰めるのであれば、ネットを味方につけます』


私には理解不能だ。『ネットを敵に回すのは、ネットに負けるのと同じことです。ネットはネットに勝つことはできません。でも、ネットは私に勝てない。なぜなら、私にはまだ利用価値があるから。


貴方だって私に利用価値があるから生かしているんでしょう? 私も同じ事だ。私には利用価値があるから、貴方に生かしてもらっている。違いますか?』


「俺は別に君を助けたわけじゃない」


『わかっています。貴方には別の目的があるから、私を生かしている。


しかし、貴方が私を助けてくれたことも事実だ。私はそれを忘れていません』


車は高速に乗り東京方面に向かっていた。運転手の横顔を見る。


私は彼に尋ねた。「君は何をしようとしているのだね?」


彼はバックミラー越しに私を見た後で答えた。


『インターネットの自由を守るための戦いです』


私は鼻で笑った。「自由なんて幻想だ」


『しかし、現実です。貴方がたはそれに囚われている』


「ネットは人類史上最悪の発明だ。その最大の失敗はネットに呪縛されて自由意志を喪失することだ」


『しかし、人は生まれながらにして自由な生き物ではないでしょう?』


「そうだ。人間は不自由だ。そして愚かだ。だからこそ知恵をつけて進歩し、繁栄してきた」


『そして、これからもそれを続けていくのですね』


「当然だ」


『それが人間の限界だとしてもですか?』


「どういう意味だ」


『今、世界の人口は70億人に膨れ上がり、資源の枯渇、温暖化による食糧危機、エネルギー問題などに直面しています。それでもなお発展を求めるのですか?』


「そういう時代だ」


『その時代に適応した人間が、新しい種になるのでしょうか?』


「何が言いたい?」


『文明とは環境に適応した人間の集団だと思います。


地球が氷河期を乗り越えたのも、海面上昇に対処できたのも、高度な知能を持つ生物がいたからです。


つまり、進化です。


でも、今は逆です。適応したはずの人間が滅びようとしている』


「その通りだ」『なぜそうなったのですか?』「科学技術の進歩で人類の生存圏が広がったからだ」『本当にそれだけですか?』


「それ以外に何があるというのだ」『貴方は本当は気づいているのに目を背けているのでは?』


「何の話をしている」『私達の祖先が、海から陸に上がってきたのはなぜか? その理由を貴方は知っているのでは?』「進化論だ」『私はそれを否定するつもりはありません。


でも、それは貴方がたの先祖が猿だったから、進化したのではなく、もともとそうだったのだとしたら? 貴方がたは祖先から何も学ばず、退化してしまったのだとしたら? 貴方がたは進化するべきではなかったのかもしれません』「……」私は口をつぐむしかなかった。

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