聴きたい歌があります

@hikaruseki_kkym

第1話

「なー!」


0.8秒間。ぼやけた視界がはっきりすると、目の前にミーコがいた。

重たい頭を持ち上げ机の上から手探りで見つけ出されたメガネをかけた瞬間、窓から強い直射日光が差し込んで、顔に当たって、弾けた。割れた光の結晶を拾い集めている間に再び「なー!」とミーコが声をあげる。今日の朝までに完成して某有名レーベルの応募フォームより送信されるはずだったWAVデータはこの世界線には存在せず、ゆっくりとノートPCを閉じ、重たい足取りで台所に向かう。さっき拾ったばかりの朝日の結晶を浅いお皿に乗せて電子レンジでチン。床に置くとミーコは満足げにその黄色いスープを舐め始めた。


休日の昼の中央線はやや人が多い。三鷹からスタートした車内は新宿をピークとして平日の昼下がりの雰囲気になってくる。その間私は座席には座らず進行方向左側のドア付近に立ち外の風景を眺めている。いろいろな建物があって、いろいろな人がいて、いろいろなことをしている、嘘みたいだな、といつも思う。中央線がもしモノレールだとしたら、作った子供は楽しいのだろうか。モノレールで遊んだことはないから、見当もつかないのだけど。


御茶ノ水駅のホームの端にある階段を登っていると改札の方から大きな声が聞こえた。喧嘩しているような、感情的にもとれる、しかし今ひとつ違う、外国の言葉のような声。登り切った時にはそれが拡声器によって増幅された声であることがわかった。視界に入ってきたのは黒い車とその隣で叫んでいる“ライトサイダー”な男とその仲間たち。彼らが何を言っているのか25%くらい気にしつつ、横を通り抜ける、服装をはじめとしてあらゆるスタイルが決まっている、こういう要素は作曲においても重要だな、などと考えながら気づいたのは、彼らの隣に停車されていた黒い車は全く関係のないケバブ屋だったということ。その店主の内心を想像することに私の25%は一瞬にして奪われる。


楽器屋が並ぶ通りを抜け神保町方面に歩いていると、狭い路地の傍からミーコが出てきて「な〜?」と首を傾げる。仕方がないのでコンビニで“スカッと”するサイダーを買って飲ませてあげる。曖昧な梅雨の真っ只中にあって久々に晴れた今日は、突然の夏の訪れを感じさせ、東京砂漠を彷徨う我々の喉に渇きを与えていた。私のオアシスは、もうすぐ。


本屋に寄り道する。縦に細長いその古いビルには美術関連の貴重な本たちが数え切れないほどに詰まっている。狭い通路の壁には値段にして数十万円もの価値があるポスターや写真が飾られており、本屋というよりもここは入場料のない美術館といえよう。すげえよな、最後までチョコたっぷりだもん。優しい老人といった見た目の店主の元、若いスタッフたちが生き生きとしている姿を目の当たりにして、自分の現状を悲観する。30分ほど滞在しそろそろ出ようかという時、道路に面した大きな窓がスクリーンのように明滅したかと思うと「ガガガガーッ!!」と大きな音が響き渡る。「近いな」「光ってからすぐだったよねぇ??」私の呟きに店のスタッフは思わず返事をしてしまったようだ。


多少ビビりながら本屋を出る。傘をさし、ミーコを抱き抱えながら小走りで裏の路地に入る。見えてきたのは私のオアシス、喫茶店「ラドリオ」


17時を少し過ぎていたが「大丈夫ですよ」という店の優しさによってケーキセットを注文、コーヒーは迷わずウィンナーコーヒーを選択する。本屋の冷房と雨による気温低下があったとはいえ、依然じめじめとしてる状況においては「アイスでもよかったな」と、後になって思う。そういえば初めてこの店に来た時に注文したのもウィンナーコーヒーだった。


一口飲んだ瞬間、私の舌を通って脳にダイレクト注入された刺激は10年近く経った今でも忘れられずに人殺しの熊と同じ状態になってしまったのだ。当時若い女性が店主で、ちょうど先代から店を引き継いだというタイミングだった。ウィンナーコーヒーの由来や発祥について教えてくれたのはその方だった。時がたち、店主は代わっていたが、ウィンナーコーヒーの味は完璧なくらい変わっていなかった。私が記憶の水中に潜っている間、ミーコは眠たそうにしていた。


自宅へ着いたのは21時ごろだっただろうか。シャワーを浴び、帰りに三鷹のOKマートで手に入れた、オーケー株式会社がメルシャン株式会社協力のもと商品化したというロゼワインを飲む。夜の静けさからもぎ取った実で作ったスープをミーコにやると、辛かったのか、「なーっ!」と低い声でしかめ面をした。窓を開けると涼しかったので、今夜はエアコンを付けなくても眠れそうだなと思った。流れてくる夜風がびっくりするくらいに心地よかった。《終》

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