コーヒーと午後

たくみ@もう食べられません

第1話 喫茶ハレルヤ

明美はメニューも見ないままホットコーヒーを頼んだ。

ボックス席に座り、分厚いマフラーとコートを隣に置く。鞄は足元にしまいこんだ。

机に置かれている灰皿を引き寄せようと手を伸ばしかける。禁煙は1週間と少し経過したばかりであった。灰皿を押して、メニューの裏側へ隠す。


明美がこの喫茶店に入ったのは初めてのことだった。昭和を感じさせる看板や外装の色褪せ、内装の重厚な木の色合いに前から惹かれてはいたが、普段使う駅出口の反対側にあるという理由だけで入ることがなかった。


カウンターの方を覗くと大きなサイフォンが見える。後ろの食器棚に並んだカップやグラスはどれも高級感溢れるデザインをしていた。

ここでようやくメニュー表を開く。ブレンドコーヒーは500円、それなりに値段はするのだから頼んでから豆を挽いて淹れてくれるのかもしれない。であれば、コーヒーが出てくるのにはもう数分かかるだろう。

窓から外を見る。雪がチラつき風が強く吹く中を人が歩いていく。

それぞれ様々な目的と意欲を持って歩く姿を、記録として残されている無声映画を鑑賞するように眺めていた。

電話をかけながら早歩きで駅の方向に向かうサラリーマンを辛うじてといった体で自転車に乗るおじいちゃんが阻む。おじいちゃんに悪気があるわけではない。サラリーマンも困惑こそするが怒りはしない。結局、サラリーマンは車道に大きくはみ出して自転車を追い抜かしていった。


若い女性の店員がコーヒーを運んできた。金とピンクの装飾が描かれたコーヒーカップと丸い角砂糖入れ、辛うじてつまめるような小さいミルク入れを置いて静かに戻っていった。


親指と中指でコーヒーカップのリングをつまんで持ち上げる。唇の近くへ持ってきてコーヒーの熱を感じる。ゆっくりとカップを傾けて、気持ち程度にコーヒーを口に含む。ほどよい熱さと香りが広がる。少しして、苦みと酸味が上顎に伝わってくる。

コースターにカップを置いて、一時考える。ミルクは入れないことにした。



今日、明美は仕事をやめた。

前もって退職届を出し、業務上の引き継ぎ資料を残業しながら作り、自分が居なくなることで不備が起きないように同僚や先輩に確認事項の手回しをした。担当していた顧客にも挨拶をして、継続して会社に良い印象を持ってもらえるように努めた。


最終日の今日、午前の業務をもって辞める明美を見送ったのは1人の同僚だけだった。彼女は新しい場所でも頑張ってね、と明美の手を取り明るい笑顔を見せてくれた。上司や他の同僚は忙しいとのことだった。

エレベーターホールで彼女と別れ、エレベーターに乗る。

どこの階でも止まらず、10秒ほどで1階に着く。

会社の入るビルを出て振り返った時に、ここで過ごしたはずの5年間が駆け巡ってくる。思い出を話す相手はいなかった。

仕事に夢中で敵を多く作ったことはわかっていた。それでも、どこかで必要としてもらえているという自信はあった。


電車に乗って自宅の最寄り駅まで帰って来たところで、いつもと違う駅出口を選んだのは気まぐれではなかった。今日をこのまま終わらせたくないと思っていた。


コーヒーカップを持ち上げる。


このカップに何mlのコーヒーが入っているかはわからない。しかし、確かにここにある重みが明美の心を落ち着かせてくれた。

きっと、まっすぐに家に帰れば何も目に入らないまま部屋を荒らしていたか、寂しく泣いていたかであった。惨めで孤独な自分に嫌気がさして、自棄を起こしたかもしれない。


このコーヒーが現実に引きとどめてくれていた。

窓の外を見る。信号を待つ子供の手をしっかりと握るお母さんの手がある。

お揃いの柄の毛糸の手袋がしっかりと結ばれている。

子供が飛び出してしまわないように、その手にはしっかりと力がこめられているように見えた。


鞄から手帳を取り出す。次の仕事が始まるまでには1ヶ月ほどの空白があった。



そうだ。前から始めたいと思っていたのだ。

そのままネットでスケボーを調べて、初心者用に良いとされるモデルを通販で購入した。約10分、作業が済んだところでスマホを机に置く。

冷めてしまったコーヒーを飲み干す。味わいが変わるが、これはこれで悪くない。


窓に目をやろうとして、その存在を思い出す。

隠した灰皿を手繰りよせて、鞄から煙草を取り出す。明美は何かあったときのために保険として煙草とライターを持っていた。

「何が保険だよ」囁いてから煙草で炎を追う。


煙草をくゆらせる。どこか遠くの地で運ばれ始めた自分のスケボーを想像しながら外を見ていた。

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