思い出
安達粒紫
A先生
あれは学校で1年生だった時だ。
帰りの電車でA先生とご一緒になった。
私は、嬉しいやら緊張やらで、追い詰められたネズミみたいになってしまっていた。
そういえば、興味の埒外にいる、と言っては失礼だが、そんな友達がまた一人一緒にいた。
その友達も同じく、不意に眼前に現れた先生にドギマギしているようだった。
つまり三人で、少なくとも先生以外は、心臓の鼓動が遅くなることのない電車下校が始まったのだ。
状況は学校の第二校舎とでも言えばいいか、繰り返しそこからの帰り。そして車内は私たち以外は客はなく伽藍としている。ちなみに東京と名の付く学校だったが、一年生の間は上野から片道45分以上かけて某県のそこへ登下校しなければならない。
私は滅多にないチャンス、こういう機会に先生に話しかけたい、沢山の事を伺いたい、という気持ちがあったが、非常にその道の人がまとうオーラが強く、容易に親しくはできない気がした。
…道というのは美術家という道だ。
私は美術の学校に通っていた。
1年生くらいは、美術家の卵、という表現がされるが私にはそれさえも、おこがましい気がしていた。
ところで隣の友達はと言えば、完全に委縮して下を向いているようだった。
これでは、いけない。先生が、さっきから二言三言ほど話しかけてくださっているのに私たちは、全て撃沈。会話の糸をまるで自分たちから切断しに行くかのような返答しかできていなかった。
多分先生は、白亜地が云々、そしてテンペラが云々、と〈授業でもやっていた〉自身の専門分野の事をお教えなさってくれていたが、もう一度言えば我々一年生新参者の生徒は会話のボールを交えるのが下手すぎた。
『ある種の威圧的オーラをまとうような方々』というのは現在ならうまく会話もできようものだが当時はその胸中が殆ど理解できず、私も友達に倣って委縮を―――する訳にはいかなかった。
第一に、このように縮こまって私に全てをまかせるかのような友達とは自分は存在自体違う、という自己認識。
第二に先生に気に入られたいという憧れから発生する気持ち。(私はこの先生を特段好いていた。だから緊張のほども推して知るべしである。)
第三にこの程度のことで立ち止まるようなら、この先どうする?学ばねば、という一種の向上心。
それらが混然一体となって私に言葉を与えた。
それは――先生は好きな動物がいらっしゃるんですか、という非常に陳腐なものだった。
先生は学生の委縮に慣れているようで苦笑しながら何か答えていた。(ハッキリ言って先生の回答は緊張のため、ことごとく忘却している。)
こちらもよく覚えていないが、この文章上で出番もなく碌な扱いをしてない友達をきっと電車から降ろさないと私は噓つきになってしまう。兎にも角にも三人で一緒にある程度の時間を過ごしたが、そこそこ早い段階で友達は、あの頃、彼の居住していたアパートの最寄り駅に到着したのだ。
私は内心、さっきの威勢(?)はどこに消えたか、これからどうしよう…と思った。
また、私にとってあまり興味は無い友達だが、降りる間際に〈頑張れ〉と言う様な合図を送ってくれた。それは幾分私の心を救うものだった。
ここからは、本当にあまり記憶がない。
覚えているのは、再び勇気を振り絞って、歴史上に爪痕を残してある人の、画集を引っ張り出して、これはどんな筆を使っているのでしょう?と質問させていただいたことだ。
その問いに対して、先生は丁寧に答えてくださった。(これも先生の返答は思い出せない。)
後は、電車内でのやりとりとしては、これは今までの言葉と違って〈否が応でも忘れられない〉のだが、以下≪普通の≫会話形式で表現してみようと思う。
――――
A先生「rさん、これから私の研究室で―――(少し間がある)」
私「はい、なんでしょう?(恐い…)」
A先生「一つ研究室の仕事がひと段落したという事で、打ち上げがあるんですがね、一緒に来ませんか?」
私「え!いや、あの、その…」
A先生「ふっ(これは苦笑)」
私「こんな右も左もよくわからない若輩者ですけど、よければ研究室へ、ご一緒させてください…(こうは言ったが語調は遠慮がちであった)」
A先生「(驚いたように)そうですか…では連れていきます。一つ前の駅から降りて、散歩しながらですね、少し歩いて学校へ向かいましょう。」
――――
……めくるめく電車内の事はもうなにも思い出せないと思う。
――――これが、ある日のあの時、A先生との数少ない思い出の一つである。
宴会の時のことを思い出帳に書くのは他日に譲ろう。
なぜならここはコインランドリー。
洗濯物が乾燥までの全ての工程を終えたようだ。
後は荷物をもって家に帰るのみである。
2022年2月23日.
思い出 安達粒紫 @tatararara
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます