第16話「階段」
身体に再度どこかに吸い込まれた感覚がした後、クレメントが差し出した手を持ち一瞬で森の入り口に行く前に居た宿屋の受付などがある一階に立っていた。
魔力の持つ人が使用することの出来る移動魔法は便利ではあるものの、自分以外の誰かの所有物だと、こういった公共の場所にしか移動が出来ないという制約などが課せられている。
素早くパッと手を離した私に、彼は眉を寄せ不機嫌な表情にはなった。自分は要らないからと捨ててしまった玩具が人の手に渡ることになり、それを惜しがる様子を見せる幼い子どものように手放したはずの私のことも、惜しくなってしまったのだろうか。
思い返せば彼と付き合っていた頃の私は、クレメントのして欲しそうな事を常に探っていたような気がする。つまらない女だったと、評されてしまう訳だ。
自分の事が大好きで常に嫌われたくないと振る舞っている事が丸わかりの恋人なんて、クレメントのような人間が出来ているとは言い難い自分勝手なところのある人に軽く扱われてしまっても仕方がない。
何を言ってもしても嫌われないのなら、態度もだんだんと尊大になっていくだろう。これが許されるのならと、彼の態度は次第に悪化していったことも、確かに自然の摂理ではある。そうして、彼の心の中で紙よりも軽くなってしまった私の存在価値。
でも、それは決してクレメント一人だけが、悪い訳ではない。私だって、嫌われることを恐れてばかりでなく、きちんと自分の意志を彼に伝えるべきだった。
だから、彼とした初恋は最初から終わるべきものだった。私は若くて、恋愛の何たるかもまったく知らなくて。
「……危険な場所に一緒に行ってくれて、ありがとう。それに、命も助けて貰って本当に感謝をしています」
お礼を言って背の高い彼を見上げると、クレメントは変な表情にはなっていた。何度も助けて貰った私としては、特に何かおかしな事を言ったつもりはない。危険な場所に同行して貰った護衛対象者からの、彼への心ばかりの感謝。
「いや。あれは俺にとっては仕事だから……礼は別に言わなくて良い。薬が手に入って良かったな。早くランスロットのところに、行ってやれよ」
「うん」
微笑んだ私がくるりと身を翻し、客室がある二階へとすぐ傍にある階段を登ろうとした。でも、出来なかった。すぐ後ろに居た彼に、手首をいきなり掴まれたから。
「……クレメント?」
「ディアーヌ……」
驚いた私が振り向き、彼が真剣な顔で言葉を続けようとしたところで、ラウィーニアの鋭い声がその場に響いた。
「クレメント・ボールドウィン! 何を、しているの」
私が今にも駆け上がろうとしていた階段の踊り場に姿を見せたラウィーニアは、私たち二人の様子を見て、美しい曲線を描く眉が不機嫌そうに寄っている。
クレメントは大きく息をつき、私をそっと離した。
「申し訳ありません」
「もう、貴方の仕事は終えたんでしょう? 私が前に言った言葉は、覚えているわね?」
こうしてラウィーニアが強い圧を持って人に命じているところを、初めて見た。いつも、彼女は優しく穏やかで上品な表情しか私には見せていなかったから。
「……仰せの通りに。ライサンダー公爵令嬢」
そう言って苦い表情を崩さないままのクレメントは、膝をつき騎士の礼をした後で去って行ってしまった。
「ラウィーニア……あの」
私は、さっきの自分たちの状況をどうラウィーニアに説明したものかと迷った。でも、聡明な彼女は、私たち二人の空気で全てを察しているようだった。
「あんなに、酷い事をされたのに……ちょっと話したからと言って絆されては、駄目でしょう?」
真剣な表情のラウィーニアが何を言わんとしているのかは、わかる。でも、こんな事態になった不幸中の幸いというか。
クレメントとあんな理由で声を掛けられ付き合っていた事が、彼と再度話すことによって、私の散らかっていた心中で最後の整理をつけることが出来た。
「それは……理解してはいるわ。でも、もう一度きちんと二人で話して。彼だけが一方的に悪い訳ではなくて、私にも悪いところがあったって冷静に考えて理解出来たわ。始まりの理由は確かに酷くて最低だったけど、あれだけ近くに居たんだから、私の良さをわかって貰うことだって、出来たはずよ。でも、それは出来なかった。ただただクレメントの事を好きなだけだった。とは、言っても……侮られて軽く見られたら、それで関係は終わってしまう。恋愛って、どちらかが悪いなんてないと思った。騙していた彼と、ヒントはそこら中にあったのにそれに気がつかなかった私。そうして学べたものがあっただけ、良かったわ。次の恋は、絶対に失敗したくないもの」
微笑みつつすっきりとした表情をして肩を竦めたので、厳しい顔になっていたラウィーニアはようやく肩の力を抜いてくれたようだった。
「危険な場所に行くのに、適任で仕方がないとは言え、心配していたけど……自分も成長、出来たってことね。でも、復縁なんてダメよ。さっき、向こうが泣きついて未練がましく言って来そうだったわ」
「絶対にないわよ。それに、私。もう既に、妙な事を言い出したクレメントに向かって言ってやったの。ランスロットの方が、外見は好みだって」
そう言うと、ラウィーニアは思わずという様子で吹き出して笑ってしまったので、周囲の人目を気にしてから、居住まいを正し澄まし顔で尋ねて来た。
「それ、最高ね。向こうは、なんだって?」
「女の心変わりは一瞬だなって、嘆く振りをしていたわ」
「当たり前でしょう。一度自分を振った男なんて、こちらから願い下げで用無しよ。人生の時間は、有限なのよ。出来る限り、有効に使わなきゃね」
にっこりと笑ったラウィーニアに私は同意して頷き、さっき慌てて階段を駆けあがろうとしていた理由を思い出した。
「ラウィーニア! そうよ。この薬を飲ませなきゃいけなくて……ランスロットは、何処にいるの?」
あんな魔物に接近して死ぬ思いまでして取りに言った薬の小瓶を彼女に見せると、いかにも美味しくなさそうな色を見て微妙な顔になった。気持ちは、とてもわかる。
「ランスロットなら、自室で待機をしているはずよ。彼の部屋は、三階の私たちの使っている右隣だから」
王太子の警護に来ている訳なので、仕事がしやすいようにランスロットの部屋は隣なんだと納得してから私は階段を慌てて駆け上った。
◇◆◇
ラウィーニアに聞いた通りの部屋の扉を叩けば、それはすぐに開いた。
リーズの話の通りに私の事も、綺麗さっぱり忘れてしまっているんだろう。ランスロットは、不思議そうな顔をして私に尋ねた。
「……何か?」
「何も言わずに、これを飲んで欲しいの」
無表情を崩さない彼は私が渡した紫色の小瓶の中を見て、動揺が走ったのを感じた。私が一目見てもとっても怪しそうなので、気持ちはわかる。
「これは?」
「貴方も……コンスタンス様とリーズの話を聞いていたでしょう? これを飲めば、すぐに全て理解出来るから。早く」
ランスロットも、自分が何かおかしい事には気がついているのか。どうなのか。私の早口を聞いてから、彼は意を決したようにそれを飲み干した。
カランと小瓶の落ちる音が為て、彼の身体から出て来た黒い霧がぶわりと一瞬彼を取り巻き、それはすぐに宙へと立ち消えた。
ランスロットは、我に返ったのか透き通る水色の目を瞬かせた。
「ディアーヌ嬢?」
「そう。思い出したんだ……良かった。記憶って、何処まであるの? 私の事、わかる?」
私の矢継ぎ早の質問に対しても、無表情を崩さないランスロットは顎に手を当てて数秒考えるように黙り込んだ。
「わかります……記憶も、今は全てあります。殿下とリーズと話していたのも覚えています……ディアーヌ嬢。その格好は?」
ランスロットは、私が着用しているグウィネスから借りた白いワンピースを見て、不思議そうにしている。彼の疑問は、もっともだ。財政に問題のある訳でもない貴族令嬢の私が、お忍びでもない限り、こんな庶民のようなワンピースを着ていることはあり得ない。
彼の疑問は、当たり前の事だった。
「魔女に、その薬を作ってもらうためには……ランスロット様に、私を思い出して貰わないといけないから、東の森にまで行って来て……」
「貴女が、東の森に……? ですが、あの場所は危険な魔物が居て……もしかして、クレメントですか」
ランスロットが口にしようとした疑問は、すぐに自己解決したようだった。
「そうです……彼が、一番の適任だからと……きゃっ」
諸々の経緯を説明しようとした私は、その後すぐに彼に手を引かれてその腕の中に閉じ込められていた。
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