第27話 再生する人

 弓子は上司の亀山の目を見た。


「この話、断っては駄目なんですか」

「もちろん断ってもいい。だが君にとってはチャンスだ。既存の海外拠点で暇なところに行くのならば左遷だろうけど、これから成長する市場だ。やり甲斐は間違いなくあると思う」


 天井から垂れ下がる換気扇が一定速度で回転していた。


「少し、考える時間をください」


 亀山はマグカップを口元に持っていき、ひと口、コーヒーをすすってから頷く。


「もし君が彼氏の本当の気持ちを知りたいというのであれば、一つ協力できることがあるんだけども。今晩、彼氏は自宅にいるのか? 無理にとは言わないけれどもね。試験をしてみないか?」

「試験?」

「私が君の彼氏に直接会ってね、彼女が手切れ金を支払うので別れてほしいと言っている、と伝えてみるんだ。彼が君のことを本気で大切にしようと思っているのなら、決して手切れ金は受け取らないはずでしょう。受け取ったのなら所詮、君は彼にとってその金額と同程度の価値に過ぎなかったということになる。単純な話でしょう」

「そんなこと、直接こちらで聞きますよ」


 亀山は畳み掛ける。


「君が聞いたら情が入るでしょう。目の前の人間を傷つけたくないという思いがあるから人は別れるべき人がいても別れられず、時間ばかりが経ち、余計に深く傷つくことになるんだ。それよりも、彼がどんな反応をするのか、知りたいとは思わないか?」

「それは知りたいですけれど」


 上司の言い分にも一理ある。水元は手切れ金に目を眩ますようなことはなく、きっぱりと断る男なのだという、根拠のない確信もあった。


 亀山の顔は、にやりとなった。


「手切れ金の額はいくらぐらいにしよう。50万円ぐらいにしておくか」

「200万円はどうですか」

「なんだ、やる気になってきたのか?」


 煙草で黄ばんだ亀山の前歯が露わになった。


「でも200万は出せないな。君の価値が200万円以下という意味ではなくてね、予算の問題もあるから。いずれにしても彼が、こちらが提示する手切れ金を受け取ることになったとしても知らないよ。いいかね?」


 弓子は上司の提案に乗ることに決めた。水元はこんな話に乗るような男ではないと確信していた。


 亀山は一旦、職場に戻った。すでに用意はできているのだという。営業用の車両を手配し、大崎駅の近くで弓子を拾った。生産工場の匂いがまだ残る新車である。


 山手通りに出た辺りで、亀山は左手を弓子の方に差し出した。


「携帯、電源切って俺にちょうだい」


 弓子の顔が引きつった。


「水元君の気持ちを確かめるのに、携帯は邪魔だろう。どうせ彼は君に電話を掛けてくる。その時、君が電話口で返答に窮するようなことがあれば、試験にならなくなるじゃないか。アパートの周辺に着いたら、君は車の中で待っておくこと。彼が本当に君のことを愛しているのであれば、いきなり来た男から手切れ金を払えなんて言われたところで、応じるわけがない。そうだろう?」


 亀山は左手を収めないままでいる。


「部屋の中には私の荷物もあるんですけど」

「残念な結果になったら、会社が責任を持って対応するようにするよ」

「別れさせたいんですか?」


 亀山は、笑った。痛い所を付かれた時によくする仕草だというのを弓子はまだ知らない。


「そんな訳ないじゃないか。あくまで彼の気持ちを確かめる作業なんだ。そう言っただろう。彼がおカネを受け取ってしまったら、君に対する愛情なんて、それだけのものに過ぎないんだ。間違っているかね。そうでしょう。その場には長居はしないよ。何なら10分経っても私が車に戻って来ないのなら、玄関口に姿を現してもいい」


 車は青梅街道に入った。非力なエンジンが音を立てて加速し出す。幾度のカーブに身体が右に左に引っ張られる。亀山の左手は弓子に差し出されたままだ。


「携帯電話、着信が来ても私は出ませんよ。それでも渡さないといけないんですか」

「だめ」


 亀山はきっぱりと返した。


「部下を信じないんですか」

「いつもは信じているけど、この件については君を信用しない。これから一人の男を試しに行くんだ。ある意味、君も試されている。そんな中で互いが連絡をとれる状況は、結果を求める上で邪魔な要素になるよね。受験の時も、携帯電話の電源は切りなさいと試験監督に言われたでしょうが」


 道の先には黒々とした山並の影が見える。


「はやく、電源を切りなさい。水元君を信じなさい」


 弓子はカバンの中から取り出した携帯電話の筐体をみつめた。自分は亀山に信頼されてるものだと思っていたのに、いざ信頼していない、と言われると、自己を否定された気がしてくる。中途採用で入社した少数派の人間が、新卒採用の多い企業で、信頼を得るのは容易なことではない。そうかといって信頼は、簡単に崩れ去るものでもある。指示を拒否したら、どんな制裁を受けるのか見当がつかない。我慢して働いた時間が水の泡と化すのなら、水元を信じたほうがいいに決まっている。弓子は携帯電話の電源を落とし、ダッシュボードの上に滑らせるようにして置いた。亀山は何も言わず、ただ頷き、携帯電話をジャケットの胸ポケットにしまい込んだ。


 所々渋滞に嵌ったこともあり、水元のアパート周辺まで1時間ほどかかった。二人は何も話さなかった。


 亀山は市道沿いにあるコインパーキングで車を停めると、ここで待っていてくれ、と弓子に言い残し、後部座席に置いたカバンを手にして水元のアパートに向かって歩いていった。


 車内のデジタル時計は午後9時を回っていた。急な飲み会が入ってまだ家に着いていないのであればその方が都合がいい。


 10分経った。彼女は車の外に出て、アパートにつながる小道に向かった。すると10メートルほど向こうに亀山のシルエットが見える。


 亀山は、嗜虐的な視線を弓子に向けた。領収書の写しを手にしている。


「案外、あっけなかったな。なんか、他に好きな人がいるんだって。水元君。じゃあ三鷹まで送るよ」


        *


 姉に襲った悲劇をここまで話すと、弘樹は黙り込んだ。


「……違う」


 水元は反応した。


「好きな人がいるなんて、そんな話は全くしなかった」


 弘樹は、語気を強めて否定する水元に、尊厳を守るための虚飾がなさそうなのを感じ取った。ずいぶん長い時間、話をしていた。喉の奥が乾ききっている。コーヒーはまだ残っているが、水を飲みたい気分だった。


「違うというなら、亀山さんと、実際にどんな話をされていたんですか?」


 今度は水元は語り始めた。当時のやり取りはこうだった──。


        *


「端的に言えば手切れ金です。会社でお支払いしますが、ご希望の額はいかほどでしょう」


 亀山はアパートの玄関マットの上に腰を下ろし、半身の姿勢だった。


「彼女、先日仕事で大きなトラブルを引き起こしましてね。それ自体はすでに解決はしたんですけど、最近様子が明らかにおかしいと思っていたので、居酒屋に呼び出して話を聞いてみたんですよ。すると彼女は困っている、男と別れられないって言って泣き始めたんです。同棲中だけど、こちらの気持ちを切り出したら何をされるか分からなくて怖いって、そう言うんです」


 弓子が、自分との関係に困っている様子など微塵も感じられなかった。


「最近、彼女は帰って来ていないでしょう。実はお宅から隔離させていただいていたんです。彼女はないって言っていますけど、暴力とか振っていませんよね。それだと警察沙汰になるんでね」


「そんな。彼女はこの前まで、いつもと変わらずにここに住んでいたんです」


 亀山は水元の言葉に、まるで関心がなさそうだった。


「本来ならストーカー被害を受けていると、警察に申し出てもいい位なんですけど。それだと即効性はないですから。会社に来られたりしても困りますしね。今のうちに手を打っておこうと考えて今日はお伺いした次第なんです。手切れ金、いくらでもいいなら、こちらで決めさせてもらいますけど」


「ちょっと待ってもらっていいですか」


 水元はソファに置いたスマートフォンで弓子に電話を掛けたが、自動メッセージが聞こえるばかりだった。玄関から亀山の声が聞こえた。


「電話をしても無駄ですよ。お宅からの連絡を断つために、彼女はSIMカードを外し、携帯電話の番号を変更したのです」


 壁にかかった電波時計の秒針が重々しく回り続けている。


「まだですか。金額、こっちで決めますよ」


 亀山は苛立ちを表した。なおも返事をしない水元に、亀山は怒鳴り声を上げた。


「早く印鑑持って来てくださいよ。自分がやったことでしょう。けじめをつけてくださいよ」


 靴のまま、部屋に入り込み、水元の顔に押し付けるように、1枚の紙を見せつけくる。示談合意書、とある。


「彼女を楽にしてあげてください。お願いしますよ」


 水元は自分が情けなかった。つい数時間前、会社は彼に正社員としての雇用契約を打ち切ると通達していた。いつ収入を絶たれるか分からない不安定な立場で、展望の開けぬ日々を過ごすようになれば、自分の存在は弓子の負担になるだけだ。


 手元の携帯電話はもはや、弓子とつながることがない。彼女の声を、もはや耳にできない現実を突き付けられると、ますます卑屈になっていく。


 観念するより他がないように思った。亀山は、リビングのテーブルに紙をそっと置くと、金額の欄に50万と書いた。


 水元は小箱から印鑑を取り出し、自らの住所と氏名を記入し、押印した紙を手渡した。


 亀山は一礼し、部屋を出て行った。しばらく、水元はソファで横になり目を閉じた──。


        *


「すると姉の上司は、水元さんをストーカー呼ばわりし、手切れ金を払って別れさせたということですか」


 弘樹は、あっけにとられたような表情を見せた。水元は頷き、後日、ポストに50万円が入った封筒が届いたことを明かした。


 厨房の奥で、陶器が割れる音がした。すかさず店員の一人が、失礼しましたと、マニュアル通りの言葉を店内にかけた。


 亀山が去ってから、水元は何度も弓子の携帯に電話を掛けたが、彼女の声を再び耳にすることはなかった。数日後、弓子の代理人を名乗る人間が弓子の私物を回収しに伺うと電話してきた。彼女は仕事道具を職場から持ち帰ることはなかったし、衣類や化粧品以外の私物のほとんどは、勤務先が契約するアパートに保管していたので、仕分けには苦労しなかった。


 弓子に謝るべきことがあるとすれば、部屋に残したカバンを漁ってしまったことだ。彼女と連絡を取るための手掛かりがないかと考えたのだ。カバンのなかには、手帳を兼ねた日記があった。毎日の出来事を細かく記録するような人間ではなかったので、仕事とプライベートでの最低限の予定が記されてあるだけである。


 しかし手帳のなかのポケットには、封筒が畳んで収められていて、差出人には母の名前と住所が記されていた。水元は自らの手帳にそれを書き残しておいた。足を運んで、真相を確かめたいと考えたものの、すぐには行動に移せなかった。仕事の問題が一番大きかったのだが、亀山の発言が真実だった場合、弓子の実家に足を運ぶことは、彼女に恐怖心を与えるかもしれないと考えた部分も多少はあった。


 弘樹は不思議だった。なぜ目の前の男は、1年ほど経った今となって、姉との再開を求めるようになったのか。彼女の存在がなくても生きることができた期間が、水元にはあった訳である。そのまま別の伴侶を得たとしてもおかしな話ではない。熱病から回復して会いに来ているのか、それとも熱病に1年ほど侵され続けたままなのか、計りかねていた。


「今になって姉と会って、どうするんですか?」


 二人の関係は、元の状態には戻り得ないかもしれない。そんな言外のニュアンスが込められているのを水元は察した。


 弘樹は一瞬、腕時計に目をやった。弓子がいるのはジャカルタだ。なぜジャカルタに行くことになったのか、説明するのが適切なのだと彼は分かっている。半面、大学院に向かう時間も迫っている。できるだけ簡潔に話をして理解してもらわなければならない。


「水元さん、姉は京都にはいないんです。それとね、亀山さんという上司の方があなたのお宅をお邪魔したその晩でしたか、姉は憔悴しきって、そのまま夜行バスで京都に帰ってきたんです。会社も辞めてしまいましたよ。2カ月間、姉は灰になったように、仕事をせずボンヤリと過ごしていました。でもある日、何もかもが吹っ切れたかのような顔になって、転職活動を始め、それで今の会社に入ったんです。もともと自動車業界の経験がありましたからね。大阪の中小企業ですが、部品メーカーの営業担当者として入社して、すぐに会社がインドネシアにある現地法人に送り込まれた訳です。順調にやっているようですよ」

 「大阪か……」


 水元は呟いた。


 弘樹は、これ以上過去を語たりたくはないという眼を向けた。弓子の話に倣えば、上司が手にする領収証を前に、弓子はショックを受けた。水元の話に従えば、弓子の求めに応じ、彼は示談合意書の署名を迫られ、心に痛手を負った。責めるべき悪党は亀山、もしくは亀山が所属する法人なのだろう。それでも二人の傷口は、程度の違いはあっても、当時よりは癒えつつあるに違いない。改めて傷を広げかねない行為は残酷なのだ。


 水元は自分の言動が、やはり無粋なのだと気づかずにはいられなかった。自分が恥ずかしい存在だと思い知らされ、まごついた。


 店内のからくり時計が11時を告げた。文字盤の上に正方形に縁どられた扉が開き、中からプラスチック製のカッコウが11回、羽根を動かしながら鳴き声を上げた。弘樹は腕時計をもう一度見た。


「午後から学校にいかないといけないんです。すみません」


 水元は伝票を手にとり、非礼を改めて詫びた。弘樹は、いえ、全然大丈夫ですよ、と言いボディバッグを身に掛けた。


「姉を刺激したくはないんですけどね。せっかくお会いできましたし、もしお役に立てることがあればとも思うんで、念のため、連絡先を交換しませんか」


 弘樹はズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。水元は今度は感謝した。


 再び一人となり、弓子の生家に近い堀川通りを歩くと、鬱蒼と茂る木々の中に小川がせせらいでいるのが目にとまった。整備された遊歩道を南下すると、古めかしい橋が架かっている。一条戻橋だ。あれは予知夢なのか。そもそも何を予知していたのか。


 水元は、不思議なことに、肩の緊張がすっと取れていくのを感じている。誰かを責める気持ちは起きなかった。


 橋のほとりで、ジャカルタにいる弓子の姿を思い浮かべてみる。異国で日常を過ごすまでに立ち直った弓子の強さに対する畏敬の念が、少しずつ涌いてくる。自分のことなどすでに忘却しているに違いない。寂しいか。少し寂しいが、寂しいだけではない。知らないうちに、弓子は再生した。言葉の悪い人間なら、自然に治癒しただけではないかと言うかもしれない。時の流れが痛みを和らげ、必要に迫られて変化しただけなのだ、と。


 いや、そうではないだろう。変化しないといけないという意識があったからこそ、なのだ。弓子ができたのなら、自分もできる。すでに励まされている。


 元気でいるのなら、それでいい。そうした事実を知ることができただけでも、弘樹と会えたのはよかったと思った。


 背後から、兄ちゃん、と声が掛かってくる。散歩中の煙草屋の老人だった。


 水元が会釈すると老人は近づき、橋の名の由来を説明するついでに、弓子との関係について色々と聞き出そうとした。水元はただ笑顔で、大学時代の友人だ、とだけ答えた。老人は無粋な行為に及んだのを少し恥じたようだった。


 煙草屋によると、この橋では昔、漢学者が生き返ったとの言い伝えがあるのだという。現世に戻ったゆえ、戻橋と呼ばれるようになった。嫁入り前の女性にとって「戻る」という語は縁起が悪いとされ、結婚を控える女性は橋に近寄らないようにする風習が残っているらしい。


「ここで育った女がみな独身かというとそうでもなく、みな離婚しているかというと、そんなことはないんですがね」


 煙草屋の笑いに釣られて、水元も笑った。煙草屋が手を叩いて前に屈んだとき、白無地の綿シャツの奥がみえた。両胸の皮膚に貼られた黄土色のテープ薬は、老人なりの生きる意志だった。

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