第26話 初めからダメな恋愛について
路地の角にある煙草屋の窓から、丸眼鏡をかけた坊主頭の老人が首を出している。
水元の手帳には京都市内の住所がボールペンで記されていた。「上ル」の「ル」を「る」にしなければ、地図アプリが住所を認識できないことなど知る由もない。電信柱の看板で示された住所を何度も確認し、「区」と「通」、「町」までは一致していることを確認した。
水元はそばにいた煙草の老人に声を掛け、自分が探している人間の苗字を伝えた。
家は煙草屋の正面だった。柵はなく、軽乗用車がやっと駐車できるスペースの奥に玄関のある、長方体で3階建ての建物である。玄関は掃除が行き届いており清潔な印象を与えた。古民家ではなく、日本の至るところにあるような建売住宅が弓子の実家なのは、なぜか意外に思えた。
銀座の洋菓子店で買った手土産の紙袋を持つ掌が汗ばんでいる。おそるおそる、水元はインターフォンの前に近づいたが、足がすくみ手が震える。老人が彼をじっと見ていた。
手切れ金を支払った際の示談合意書の控えが、水元のリュックのなかにある。
インターフォンを鳴らして10秒ほど待つと、はい、という男の声がスピーカーから聞こえてくる。
大学時代に世話になった水元というものだ、と名乗った。ドアが静かに開いた。現れたのは、寝癖をそのままに、目元を腫らすジャージ姿の男だ。自分よりも若く見える青年だった。
「なんでしょう」
水元は極力丁寧に、慎重に言葉を選ぶようにして、ゆっくりと話した。
「弓子さんが、こちらにいらっしゃると聞いて伺ったんですけど」
男は顔をしかめた。
「いませんよ。御用は?」
「東京で弓子さんとお付き合いさせていただいたものです。弟さんですか?」
男は相手の顔の輪郭の線を追うように視線を滑らせた。
「ずいぶん前ですけれど、弓子さんと連絡が途絶えてしまったもので、失礼を承知でお伺いさせていただきました。もう会いたくないとおっしゃっているのでしたら、顔を出すことなく、立ち去ろうと考えているのですが、もしお話しすることが可能なら、と思いまして。弓子さんはこちらにいらっしゃ……」
「帰ってもらえます?」
「?」
棘のある口調だ。
「ふざけんといてください、あんたでしょ。姉さん傷つけたんは。なにをいまさら、ストーカーまがいのことまで。のこのこと、ようここまで。信じられませんわ」
男はドアを閉めようとする。
貝になられてはなす術がなくなると水元は考えた。アが閉まらないように手で押さえながら、リュックから示談書の写しを急いで取り出し、男の顔に突き付けた。
「これをご覧になってください」
水元は叫ぶように言った。
「ちょ、ちょっと」
「何がちょっとですか」
男は唇の前で人差し指を立てた。煙草屋の老人が2人の様子をじっと見つめている。
「どうぞ警察でも呼んでください」
男は示談合意書の文字列を目にした。扉を閉めた後、近所に変な噂の種を撒くような行為をされたら、もっと迷惑だ。
「わかりましたよ。家の中汚いんで、茶でもどうです?」
2人は徒歩ですぐの喫茶店に向かった。材木の薫りが漂う比較的新しい店内にはボサノバが流れ、5つあるテーブル席の2つは老夫婦と大学生のカップルで埋まっていた。通りに面した窓には、白雲の浮かぶ青空が広がる。
男は弟の弘樹だと名乗った。店員が来ると、水元と弘樹はホットコーヒーを注文した。
弘樹は京都にある私立大学の大学院生で機械工学を専攻している。背はそれほど高くなく、無造作にワックスでまとめた髪型と、伸縮性のある生地のTシャツの前に輝くシルバーアクセサリーが、精悍さを与えていた。
「はるばる京都まで来て、あんな大声を出し、それも今頃、示談合意書って、いったいどういう訳ですか」
水元は何から説明すべきなのか、思いつかないでいる。
「これまで忙しさで紛らわせてきたんですけど、時間ができたんです」
沈黙しがちな二人に、店員がコーヒーを運んでくる。
「傷付けたのが私、というのはどういうことですか?」
「聞きたいのはこっちのほうですよ。示談合意書って何ですか?」
老夫婦が席を立ち、レジに向かおうとしている。水元はシュガートングで角砂糖を掴もうとしている。
「弓子さんはどこにいるんですか?」
隠して探られ続けるより、明らかにしたほうが楽だと弘樹は思った。詳細な住所と電話番号だけ教えなければいいのだ。
「海外ですよ。インドネシアのジャカルタです」
「ジャカルタ?」
「なので、そもそも日本にいません」
水元は視線を落とし、黙った。
弘樹は、姉の帰省時の話から始めた。姉の口から示談という言葉が出た覚えがなかったのだ。
「母が倒れた時に、姉は東京から心配して駆けつけてくれたんです。幸いすぐに意識が戻り、3日ほど入院して静養に努めれば大丈夫だと医師が言うので、姉さんは翌朝、東京に戻ろうとしたんですけど、母が『ゆっくりしてき』と言葉を掛けたので、午後まで病室で家族水入らずの時間を過ごしたんです。その時、姉はそろそろ紹介したい人がいる、と言ったんです。父も母もとても喜んでいました。姉に対して苦労した時期もありましたから」
弓子が帰国し、バンド仲間とともに温泉街に行った記憶が蘇った。
「母は退院後に東京に行くが楽しみだと言いました。そんな感じで時間が過ぎ、姉は私らに別れを告げ、病院を後にしました。確か午後3時過ぎだったかと覚えています。病院から京都駅まで30分、そこから新幹線で大体2時間とちょっと。さらに東京駅から三鷹にある自宅まで30分から40分ぐらいと見て、その日の7時には帰って翌日は仕事に出ているはずです。なのに、次の日の朝、病室に戻ってきたのです。母の顔を見ると、大声で泣き始めたのです。いや示談って、そんな話やったかな」
*
忘れかけていた家族の温かみに心を癒された弓子は、病院を出て京都駅に向かおうとした。家族にはバスで行くといったのだが、どれもひどく混雑をしている。折角でもあるし、実家近くの神社を参拝し、近くの地下鉄の駅から京都駅に向かうことに決めた。たまには頭の中を空っぽにしてもいい。神社は病院から歩いて20分ほど離れた場所にある。荷物があったのでタクシーを拾った。
後部座席に乗り込んでしばらくすると、バッグの中で携帯が震えた。画面を見ると職場の上司からだった。母の調子について説明し、明日、早めに出社する意向だと伝えると、上司はこう言った。
「今日の夜に東京に戻ってくるなら、一度、会社に寄ってくれないか? 疲れている時に申し訳ないけれども、話がある」
都合の悪い話だと弓子は察した。明日の早朝ではダメなのかと聞くと、今日の夕方がいい、と譲らない。仕方なく彼女は上司の要求に応じることにした。職場は大崎駅の近くにある。
神社に行くのを諦めて、タクシーの運転手に行先を変更したいと願った。京都駅で降りるとすぐに品川までの切符を購入し、ちょうど入線したばかりの新幹線の自由席に座った。上司から伝えられる話が何なのか、職場に何があったのか、状況だけでも把握しようと思い、メールのチェックをした。2日間で100通近いメールが溜まっている。内容を確認しているうちに、返信すべきものは今のうちにすませようと考えて、ノートパソコンで作業をしていると、すぐに2時間が過ぎ、車窓に多摩川が見えるようになった。
メールボックスに目を通しても、上司の話が何なのか、想像ができない。のぞみ号は品川駅に進入した。
山手線は帰宅ラッシュの時間帯に差し掛かっていた。京都でのゆったりとした時間を回想する暇もなく、大崎に着いた。私服であるのを気にもとめず、駅直結のオフィスビルに入居する職場にたどり着くと、上司の亀山と目が合った。
就業時間を過ぎたのに、会議室が全て埋まっていると亀山は言う。オフィスビルの地階にある喫茶店で、亀山と弓子はコーヒーカップやサンドイッチの乗ったトレーをそれぞれテーブルの上に置き、向かい合って座った。
「ちょっと言いにくい話なんだけど」
亀山は、ジャケットの胸ポケットから写真を取り出して、1枚ずつテーブルに並べた。いずれも動画の1コマを光沢紙に印刷したものである。雑居ビルのような場所で、エレベーターホールの奥に鉄扉がある。撮影者はエレベーターホールから上の階につながる階段の踊り場に身を潜めているようだった。1枚目は水元が鉄扉から出てくる様子。2枚目は、女装をした男性が同じ扉から現れ、彼に手を振る。3枚目は誰もいないが、鉄扉に〈残照〉という文字列が刻まれたプレートが掛かっていた。
「『残照 2丁目』と検索すると、同性愛者らが集まるスナックのホームページが出るんだ。単刀直入に聞くけど、君の彼氏だよね」
弓子の思考回路が止まりかけた。
「悪いけど、君のことを色々調査させてもらっていたんだ。労務担当役員の命令でね。同棲しているようだね」
同棲──。弓子は顔を赤らめた。怒りが込み上げてきた。
「会社でストーカーまがいのことをして楽しいですか」
「まあまあ。私だって若い時分は同棲していたさ、何も悪いこととは言っていない。内緒で後を付けるようなことをしたのは、申し訳ないと思っているけどね」
亀山は悪びれる様子がない。
「それなら、私が産業スパイをしていたとでも思っていたんですか? 信じられない」
「落ち着いて話を聞きなさい」
亀山が声を荒げた時、喫茶店の客の視線が二人に集まった。声の大きい人間がのし上がっていくのが会社という世界だ。
「業務を離れた後、どういう人間と深く接しているのか、プライベートの領域を調べたのは、うちの部署の社員が業務上の秘匿事項を外部に流出させているのではないかという疑いを、指摘されていたからだ。担当者でしか知りえない業務上の情報について、関係のない海外メーカーがなぜか把握している、と取引先の幹部が問題視していたんだ。だが安心しなさい。黒は、君ではない」
「ならば呼び出さなくてもいいじゃないですか」
「それで、本題だ」
「本題?」
「来月からロシアに行けないだろうか」
店内に、有線放送が流すジャズのトランペットの音が響いた。
「君も知っている通り自動車メーカー各社はロシア市場でのビジネスに関心を寄せている。うちの取引先もそうだ。君だってロシア語の本を買って勉強していたそうじゃないか。当社としてもできるだけ早く市場調査を始めたほうがいいと判断して、1人駐在員を派遣することになったんだ。うちは外国語ができる人間は少ないからね。君にぜひ活躍してもらいたいんだけど」
亀山は女装家の映る写真を手にとり、弓子の顔の前にかざすように見せた。
「君のこれからのキャリアと、彼氏と、どちらをとるか。よく考えたほうがいい」
スマートフォンで残照を検索しようとする上司に、弓子は、やめてください、と言った。亀山は黙って、弓子の口が開くのを待った。相手が男の部下だったら、近くの居酒屋で酒を飲ませて強引に承諾させることもできるのにと、亀山は考えていた。
「本当に、彼なのですか」
亀山は黙って頷いた。
「そんな男と付き合うのは止めて、ロシアに行けということですか」
「選択するのは君だ」
弓子は水元の顔を思い浮かべた。仕事から帰ってくつろぐ彼には温もりがあった。自分を包み込む寛大さもあった。2丁目のスナックに行ったとしても、仕事上の付き合いで行った可能性は十分にある。男色家だと断定するかのような亀山の言葉には違和感もあるが、水元は、男色家になったということを言い出せないで過ごしてきたのかもしれない。
だいいち、水元には水元の仕事がある。もし結婚し、ロシアに水元が同行することになったとしても、それは二人にとって最善の道なのか。水元はこれまで培ったキャリアを半ば放擲しなければならないだろう。
考え込む弓子に、亀山は忠告した。
「きついことを言うかもしれないけど、離れ離れになってダメな恋愛は、初めからダメな恋愛なんだよ。君の彼の趣味がどうであれ、一度、彼の気持ちをしっかりと、確認する必要があるんじゃないか」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます