第23話 下がるは四十以来なり②

 3日後、塩津製造所に見慣れない車がやってきた。いかにもその筋の人間が乗り回しそうな、黒塗りのメルセデス・ベンツだ。扉を開けて出てきたのはヴェルサーチのトップスの下に赤いスラックスを履いた輩であった。背は低く、この男のコンプレックスはそこにあるのだろう、とすぐに分かる。


 「ごめんください、塩津社長いらっしゃいますか」


 甲高い声で男は高山の件で、と言う。


 高山に依頼された信用取引は、株価が思惑とは逆に動いたことで、大きな含み損を抱える羽目となった。塩津は前日の晩、高山に損失を確定すべきか相談しようとしたが、電話は繋がらなかった。


 この件が輩を招く結果につながったのだと塩津はすぐに悟った。


 「ご用件は?」

 「ちょっとここでは話しにくいので。応接室はないんですか?」

 「じゃあ、外にでも」


 塩津社長と男は駐車場にある自動販売機のそばで立ち話をすることとなった。男は缶コーヒーを1本、購入した。取り出し口から商品を取り出しながら男は口を開いた。


 「高山の件で、私ら、えらい損害を受けましてね。ちょっと協力してほしいんです」


 塩津は気味が悪い男と早く離れたかった。

 

 「損害を受けたのはお宅らであって、私は関係ないでしょう」

 「まあまあ、そんなにムキにならないでください。こっちは知っていますよ、社長と高山が何をしたのか、全てね」


 塩津の背中に汗がにじむ。


 「それと、高山はすぐ近くにいますから。電話しましょうか?」


 男はスラックスの後ろポケットから携帯電話を取り出して、電話を掛けた。斜め15度上に顔を上げ、 おう、俺だけど、高山と変わってくれるか、と言ってから、電話を塩津に渡す。


 「塩津か?」

 「ああ」


 高山の声には力がない。


 「一体、どういう訳なんだ? お前は何を話したんだ」

 「俺が全て悪かった。脅されたんだ。詳細はちゃんと話すから、どうか助けてほしい。本当に、面目ない」

 「高……」


 状況を確認する間もなく、男は携帯電話を奪った。ピッ、という乾いた音と、通話が終了したのを確認すると、ヴェルサーチの男は携帯電話をスラックスの後ろポケットに収める。


 「私らも手荒な真似はしたくないのです。でもね、高山君、このままだと段ボールのなかに詰められて、牛か豚の飼料として加工されることになりますけど」

 「警察に電話しますよ」

 「どうぞ勝手になさってください。私らはね、そんなのは全然怖くないんです。あなたが協力しないなら、高山君は死にます。それとね、いいたくないですけど。お宅の会社に危害が及ぶことになると思います」

 「危害?」

 「野口さんという方、ご存知でしょう?」


 塩津の頭に、丸眼鏡であご髭を蓄えた、狡猾そうな初老の男の顔がすぐに浮かんだ。


 「私らも仲良くさせていただいていまして。2丁目のお店にもお二人でお出でになったんでしたっけ。ご承知おきの通り、あの方は東京電工にまだ一定の影響力をお持ちなんです。塩津さん、野口さんと何か、お約束されていませんか? とぼける訳にはいきませんよ」


 塩津の血の気が引いた。


 「車メーカーの仕事が減った時、野口さん、助けてくれましたよね。その時、紹介された東京電工との仕事で、糾弾されるべき重大な怠慢行為から守ってくれたのは、誰でしたっけ」


 航空機産業では、勝手に加工方法や設備の変更を行うことができないのは先に述べた通りだ。全て納入先の認証が必要となる。米航空機メーカーから東京電工が受注した航空機部品を、東京電工の下請け企業が製造する場合も同じである。


 塩津製造所が野口を通じて東京電工から受注した部品は、当初はこうした認証を取得せずに製造した。もちろん塩津から出荷する訳にはいかない。認証をすでに取得しているB社から材料を調達したうえで製造し、それをB社の生産品と偽って出荷していたのだった。


 こうした不正が発覚しないように野口は各方面に働きかけ、塩津に恩を売った。見返りとして、高崎銀行系のベンチャーキャピタルが保有する塩津株を譲り受けようと目論んでいた。取得した塩津株を上場させ、投資育成会社の実績を構築する。それが野口の青写真だった。


 だが、B社は塩津の「野蛮な」新規参入をよしとしていなかった。野口もそれを承知していた。


 ある日のことだ。B社は生産技術の幹部を塩津に派遣した。この幹部は、認証メーカーはどこも規定を外れた加工方法や設備を採用し、生産性を上げているのだと助言し、工程変更を促した。柳岡をはじめとする素朴な職人たちは、それが善だというように、素直に対応した。


 野口の助言をもとにした行動である。ある意味、時間の問題だった。B社が東京電工経由で米航空機メーカーに出荷した部品のうち、品質検査を通らないものが頻発することになるのである。


 シアトルから駆け付けた米企業の担当者に対し、B社の社長は、認証を取得していない塩津を利用するようにと東京電工に圧力を掛けられたと、訴え出た。すると米社側はすぐに東京電工と塩津製造所に対し、損害賠償を請求する準備に入った。ここで野口は東京電工幹部時代に接点を持った島本元経産相の威光を借りたのである。東京電工は次世代航空機の開発コストの大幅な削減などを受け容れることとなり、塩津製造所は示談金として10億円を米企業に支払った。島本の調整により、アバンラバギャ―ル投資育成は10億円を調達し、同額を塩津製造所に貸し付けることになった。

 

 男は空を見つめている。


 「間違っていないですよね。失敗したとはいえ、あなたがインサイダー取引に手を染めようとしていたという話が明るみに出たら、会社の社会的な信用は音を立てて崩れますよ。上場なんて夢のまた夢になるから、きっと野口さんは、10億円を返せと言ってきます。どうなります? そんな金ないでしょう。従業員はみな、路頭に迷うことになりますよね」


 そう言うと、男は飲み干したコーヒー缶を地面に立て、右足で踏みつぶした。


 「言う通りになさった方がいいですよ」


 塩津は自分が嵌められたのを悔やんだ。


 「協力というのは、いったい?」

 「約束してくれたら、教えますけど?」

 

 男が塩津に要求したのは次の2つだった。まず高山が広げた損失の補填だ。5億円という金額は高山が支払うには大きすぎるが、塩津の弱みを握ればなんとか工面できると踏んでいるようだった。2番目は、高崎銀行系ベンチャーキャピタルに塩津株を野口に譲渡するよう依頼するか、または野口の唾液の付いている企業との経営統合の道筋を立てるかのどちらかを選んで実行することだ。これらを満たせば、インサイダー取引を口外することもないし、高山の身の安全も保証するという。


 「1カ月間の猶予をあげます。全てを整えて、5億円を持参して指定された場所に持ってきてください。そこに高山君もいますから。よろしくお願いしますよ」


 男はメルセデス・ベンツに乗り込むと、ドアを力強く閉め、急発進して会社を去っていった。


 ──塩津は悩み抜いた。高山の尻ぬぐいに、会社の内情を知る男が訪れ、その男は野口とつながっている。野口は島本とも接点がある。野口は自分の思い通りに事が進むように、男を通じて自分を利用しようとしているような気がする。


 島本に裁定を願いでれば、高山も自分もなんとかなるかもしれない、と塩津は考えたが、とんだ見当違いだった。島本が野口を「財布」と例えるように、活動資金の捻出に元証券マンは一役買っていたのである。野口がインサイダー取引の指南役でもあったというのは、この時は塩津には知る由もなかった。実際に島本の別の秘書に連絡をとってみたものの、高山は先日、解雇したばかりなので関係ない、の一点張りだった。


 経営者である以上は、会社を守らなければならない。5億円を誰にどう頭を下げて工面すればいいのか、そんな都合のいい財布など自分にはない。野口の所有物になるか、野口の指示のもとどこかとくっつくかどちらかを選べともいう。


 どちらにせよ会社は自分のものではなくなるのかもしれない。存続させるには、野口を殺すしかない。大金を支払って去ってくれといっても、聞くような相手ではないだろう。向こうは塩津製造所というハコを使って儲けようとしているのだから、簡単に手放しはしないに決まっている。


 自分ができることは、限られている。従業員の働く場所だけは、何とか守ってやれるのではないか。


 野口の影響力が強まれば、彼らの立ち位置は危うくなる可能性が高い。


 メーカー同士の統合には合意したとして、5億円の支払いは回避できないものだろうか。そんな甘い提案を、野口らは受け容れるだろうか。考えにくい。5億円の支払いを拒否した時点で、自分の命はなくなるかもしれない。


 自分の命? いや。そうじゃないんだ。


 自分の命と引き換えに、従業員が困窮し、死に追いやられるなら、同じではないか──。同じ? 原因は自分にある。罪深いのは自分のほうだ。経営者としての脇の甘さが、こうした状況を招いたのだ。


 塩津は自分を責めぬいた。責めぬきながら、何が最善なのかを模索した。結論は単純だった。やはり会社を守ること、会社の人間を守ることである。


 要求された5億円は、従業員の家族にとって何か月分の生活費になるのか、すぐには計算できないが、それなりの足しにはなる。5億円をキャッシュとして残し、転籍先での雇用を確実なものにしたうえで、経営統合する。それこそが、能なし経営者の自分が選びうる最善の道ではないのか。


 塩津は決心し、会社の後始末に取り掛かった。


 野口には、事業承継先の斡旋をメールで依頼した。並行して高崎銀行の多摩支店長の柴山と面会の約束を取り付け、保有する塩津株を野口という男に売却しないように強く訴えた。


「突然、どういう訳ですか。塩津社長」

「実はここだけにしてほしいんですけど、野口に事業承継先を探してもらっているところなんです」

「そんな。ずいぶん東京電工の仕事で業績は回復してきたのに」

「どうせ単独でやっていても先が見えているんだから、悪い話じゃないと思いますよ。それで、支店長にお願いがあるんですけど、野口がどこと事業承継をさせようとしているのか、掴めないでしょうか」

「え。そんなの無理ですよ」

「銀行には独自の情報ネットワークがあるというじゃないですか」

「まあ、候補を絞ることぐらいはできなくはないかな。野口でしょう。どうせ東京電工の色の付いた企業に決まっているでしょう。向こうにメリットがないといけないから、塩津さんと同じぐらいの規模で財務体質が悪いところじゃないかな。1時間ほど、待ってもらえますか」


 柴山は部下に情報収集を指示した。そしてその日の夕方、塩津の携帯電話に柴山は電話を掛けた。


 「候補は4社ありますけど、どうみてもこの、響工業だと思いますよ。調査会社のデータになりますけど、事業規模が同じぐらいで、財務は塩津さんのところとは比べ物にならないぐらい悪いんです。同じ多摩地域の会社だから、従業員の転籍や既存設備の有効活用が容易だし、それに何よりも、野口本人が顧問に入っていますしね。次世代ロケットの国家プロジェクトで一緒に仕事しているから知っているでしょう、塩津さん。私が野口の立場なら、こことくっつけますよ」

 「響工業か。確かに悪くはないな」

 「まだ憶測の域ですけどね」

 「向こうとくっつくとしたら、どんなスキームがいいんでしょう」

 「それは野口が考えることじゃないですか?」


 塩津は苛立ちを隠さなかった。


 「野口に任せっきりにはできないんですよ。先手を打たないと。場合によっては響工業の株主にお宅はなるんだから、そういう姿勢はまずいでしょう」

 「あ」


 柴山は思わず声を上げ、それからため息を付いた。


 「ここ、メーンが美空銀行じゃないですか。大株主にも入っていますよ。中小企業なのにメガバンクが入っているなんて。うちみたいな末端の地銀が下手に入って向こうを刺激したら、嫌がらせ受けそうだな、これ」

 「嫌がらせ?」

 「この地域って、こうみえて競争が激しいんですよ。うちは外様じゃないですか。大切な取引先を奪われたら、たまりませんよ」

 「美空銀行って、確か東京電工のメーンでもあるでしょう。うちの従業員が転籍したとしても、美空の影響力が強いままなら、東京電工、ひいては野口に左右される。火を見るよりも明らかですね」


 塩津は大きく落胆する。いつもよりも無理をしているのが声色からもうかがえた。


 「競合ではありますけど、向こうの支店長とはカラオケ仲間でもあるんですよ。何かできないか、探りを入れてみましょうか?」


 柴山の見立ては見事に当たっていた。美空銀行の多摩支店に水面下で、塩津製造所の事業を響工業に承継させる話が舞い込んでいたのである。美空の多摩支店長である田島が行きつけにしているスナックで、二人はスコッチを片手に密談を始めた。


 「柴山さん、その話、塩津社長から直接聞いたの?」

 「まあ、ここだけの話ね。田島さん、ところでスキームは決まっているの?」

 「形式上は美空銀行の本店の専門部隊が取りまとめることになっているけど、支店のほうが付き合い長いからね。こちらでまとめて、本店に投げるという感じかな」

 「じゃあ話が早いや。野口って方、響工業の顧問にいるでしょう」

 「面倒くさいんだよな、野口案件は」

 「お宅のなかでも評判は悪いの?」

 「悪いなんてもんじゃないよ。みんな迷惑しているよ。元証券マンでさ、東京電工でデカい顔をして、挙句の果てには島本っていう元大臣の人脈を押し出してくる老害だよ」

 「塩津社長はね、野口の影響力を懸念しているんだ。高崎銀行はベンチャーキャピタルで塩津株を持っているでしょう。響工業の株主となってもどうなのかなというのがあるし、ここはさ、塩津さんの会社がハッピーになるような体制にしておくのがいいと思うんだけど、今からちゃちゃっと決めないか」

 「そうだな、野口案件は早めに片付けておきたいからな」


 二人の多摩支店長はそれぞれの部下に電話を掛け、スナックに資料をまとめて持ってくるように命じた。対等合併が望ましく、1対1での株主交換後に、高崎銀行系ベンチャーキャピタルの保有株を半分ずつ日引社長と美空銀行に振り分けて、日引社長が筆頭株主になるというスキームが、トントン拍子でまとまった。


 柴山から翌朝、プランの報告を電話で受けた塩津は素直に喜んだ。一方の柴山は、支店の管内でも付き合いの長い顧客が1つ減るのを、改めて寂しく思った。


 その日の昼だった。高崎銀行の多摩支店に野口が現れたのである。野口は不機嫌そうな顔をして、支店長室に入るとため息をついた。


 「柴山さん、あなた。美空銀行の多摩支店長を脅したりしませんでした?」


 統合スキームのことで話し合ったのは確かだが、心理的な圧力を掛けた感覚は全くない。自分の意見を述べる機会がなかったのを不満に思っているだけだと柴山は思った。


 「あの、うちは末端の地銀ですよ。そんなこと、できる訳ないじゃないですか」

 「田島君、今回の件で大目玉を食らったそうだよ。勝手に動いちゃったから。まあ彼は副頭取の覚えがめでたい人だから、まだ生きていけるんだろうけど」


 柴山はどうでもいい話だと感じた。


 「それで、用件はなんでしょうか」

 「塩津社長から、どこまで話を聞かされましたか、確かめに来たのですよ」

 「私はただ、塩津社長から、あなたが探すことになっている事業承継先の目星を付けてほしいと頼まれただけです」


 野口はニヤリとした。


 「本当に? それだけ?」

 「それだけですよ。お引き取り願えませんか」


 柴山はイライラしていた。


 「短気は損気ですよ。あのね、柴山さん。お宅のベンチャーキャピタル、塩津さんの会社の株を結構な比率でもっているでしょう」


 柴山は内ポケットに手を入れ、少し間をおいてから言った。


 「それがどうかしたんですか?」

 「ここだけにして欲しいんですけど、譲っていただけません? それなりの対価をお支払いしますので」

 「お話の意図がよくわからないのですが」

 「私はこれでも、ベンチャーキャピタルを運営しているんです。一応、昔証券会社にいた時代もあったんですけど、まだ上場させた実績がないのが悩みでして。塩津製造所の株を譲っていただければ、私の夢が叶うのです。ご協力いただけないでしょうか」


 慇懃な野口の姿勢が、柴山の精神をますます逆なでした。


 「塩津さんは、それを望んでいないので、無理です」

 「無理とおっしゃるんですね」


 柴山は沈黙した。


 「分かりました。まあどちらでもいいんですよ。でもね、ステークホルダーの意向を無視して統合スキームを決めてしまったのは、本当に面白くない。恨んでも恨みきれない」


 わざとらしく野口はもう一度ため息を付き、続けた。


 「5億円を工面したいという話はありませんでした?」

 「……5億? 何の話ですか、それ」


 柴山は虚を突かれた表情をみせた。喋りすぎる自分の悪い癖を野口は一瞬、認識はしたものの、舌は動き続けた。


 「知らなくてもいい情報だけどね、メーンバンクとして耳をふさぐわけにはいかないでしょう」


 塩津が信用取引で損失を出し、闇金融から5億円を支払うように請求されている──。


 柴山は耳を疑った。なぜ突然、塩津社長が自分に連絡をとってきたのか、納得もできる。


 「ここまで有益な情報を提供したのだから、いいでしょう。株をいただけませんか」


 狙いを定めた射手が弓弦を引く時のように、野口の目が柴山に向かう。支店長室の空気が張りつめた。


 柴山は考えた。首を縦に振ればどうなる。塩津社長の行動は従業員の将来を案じてのものだった。その想いを反故にし、野口が所有する会社になった時、待ち受ける将来は、どう想像してみても、色彩の奪われたものである。


 やはり首は縦に振れない。ノーという言葉が、柴山の喉元から飛び出そうとする。


 「ね、ここまで教えてあげた以上、ノーはないですよ。ほら、知りすぎるのって、よくないでしょう」


 柴山は黙った。野口の顔が徐々に赤味を帯びてくる。


 「答えろよ、早く」


 この物の言い方は、強迫だ。この男は、ビジネスマンの顔をした裏社会の人間だ。イエスと言ったら、どこまでも絞り取ろうとする。そういう類の人間なのだ。


 柴山は深呼吸をした。覚悟を決め、目を閉じて思い切って言った。


 「できません」

 「……できないのか」


 野口は立ち上がり、柴山の耳元でささやいた。


 「ジャケット脱げよ」


 柴山の顔面が蒼白になった。


 「録音していないか確かめさせろよ。いいから。俺に向かって因縁つけるなんて、

いい度胸しているよな」


 野口の右手が、柴山のジャケットの内ポケットに滑り込んでくる。赤いランプの付いたICレコーダーの存在を確認すると、野口はそれを床にたたきつけてから、電話を掛けた。


 「ちょっとさ、喋りすぎちゃって。申し訳ない。うん、張っておいて。そしてね、タイミングみて、始末しておいてもらえる? 弾んでおくから。よろしく」


 ──柴山から悲痛な電話を受けた塩津は胸が痛んだ。まだ子どもが小さいし、自分の身に何かあったら浮かばれない、と柴山は涙を流すのを憚らず、塩津社長もどうか気を付けてほしい、とアドバイスを送った。


 これが二人の最後のやり取りとなる。


 野口が柴山に喋りすぎたという、インサイダー取引について、塩津は張本人でもある。


 なぜ野口がこの話に神経質なのか。確証は得られないとはいえ、島本との関係を疑わざるを得なかった。元証券マンの野口の指示のもと、風説を流布したり、インサイダー情報を入手したりして売買する。そこで得た資金が、元経産相の便宜供与に用いられる。島本一人ならまだいい。島本以外の、現職の議員に資金が流れていれば大問題だ。現政権から甘い汁を吸う人間であれば、不要なスキャンダルを未然に防ごうとする動機が働きやすい。


 こうした仮説に立てば、塩津の立場は極めて危ういものである。


 自動車で売掛金の回収を終えた時のことだ。夜9時頃に、国道16号線の高架道路を八王子方面を走行中、フルスモークの掛かった黒塗りのアルファードが塩津のレクサスの真横にピッタリと並んだかと思うと、急に幅寄せをしてきた。目の前に下道につながる出口と本線の分離帯が迫ってくる。塩津は急ブレーキを掛け、何とか衝突事故を回避した。


 携帯電話にも不審な着信が増え、たいていは無言電話だった。


 このままだと自分の命は、突然奪われてもおかしくはない──。塩津が従業員一人ひとりに、遺書のような手紙を書くようになったのは、強烈なストレス環境下に置かれていたからとみることもできる。


 彼は実際に前妻に宛てた遺書と、遺言状もしたためた。そこには保有する自社株をどう扱ってもらうのがいいのか、自身の要望を付け加えていた。

 

 「連絡きたんですか? じゃあ、準備に入ります」


 高山は都内のマンションでゲーム三昧の日々を過ごしていた。塩津が会社の事業承継に向けた奔走に区切りを付けた頃のことだ。私設秘書ではなくなったが、島本を支えるスタッフという立場には変わりがなく、当面の生活費も支給されている。監禁生活は演技だった。


 指示をもとに、高山は立川のスナック〈いずみ〉が入居する雑居ビルに急いだ。早朝の人気のまばらな時間、工事会社の制服に身を包み、ビルのそばの街路灯に上り、取り付けてあった防犯カメラにスプレーを噴霧した。特殊なコートを形成し、数日間、解像度を物理的に落とすためのものだ。雑居ビル内の防犯カメラにも、同じように、スプレーを噴霧した。


 それからホームセンターに向い、必要な資材を購入した後、駐車場で仮眠を取った。

 

 「5億円は現金だと荷物として重すぎます。どこに持っていけばいいですか?」


 男は塩津に対し、相変わらず不気味な丁寧語で答えた。


 「しっかりと梱包したうえでトラックで運んで、今から言うトランクルームの駐車場まで持ってきてください。受け渡しの日時と場所を伝えます」


 指定したのは新奥多摩街道沿いのトランクルームだった。交通量が比較的多い時間帯だ。早朝や深夜に運んだら、逆に目立って不審がられる。そういう配慮なのだろうと塩津は思った。


 しかし5億円を支払うつもりはない。


 「高山は、その場で引き渡してもらえるんですか?」


 塩津の質問は野暮ったいものだった。男が真実を言う必然性はないのである。


 「もちろん、高山君も一緒です」

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