第22話 下がるは四十以来なり①
電話を掛けた野口の耳に、元衆議院議員、元経産相の島本の声は溌剌としていた。
「『財布』としてまた活躍してもらうには、ちょっと時期が早いかな」
「またまた」
衆議院の解散観測もこのところは出てこない。野口は用件を早速伝えた。
「電話したのは、塩津製造所の事業を引き継いだ響工業という会社のことで、相談がありまして」
「ゴルフの誘いかと思ったよ」
島本は野口の話に耳を傾けた。
響工業の社長と台湾の投資顧問会社の日本法人代表が接触をし、株式の買い取りに動き出したこと。台湾の会社が響工業の大株主となるような事態が起きれば、次世代ロケットの技術が海外に流出する恐れが出てくるということ。
経世党として、こうした状況をどう見ているのかと、野口は質したが、見解を求められた島本はつれない。
「現職なら色々な事をしてあげられるんだけれども。マスコミを使った方が早いかもな」
「メディアは中小企業など相手にしていませんよ」
「ただ今の私を通しても何もできないよ。それに考えすぎじゃないのか? ほかにも力のある会社はあるでしょう」
野口は引き下がらなかった。
「響工業は何かと東京電工に逆らおうとするのです。下請けは下請けらしくしていればいいんですけど、独自性を保とうとすればするほど、ぶつかる訳であって」
「下請けでも立派な会社じゃないか、穏やかじゃないね」
島本が興味を示していないのは明らかだった。野口はしびれを切らした。
「あの、例の元秘書の方を貸してもらえないでしょうか」
島本は黙った。
「なんでまた。あいつはもういいだろう」
野口は容赦しなかった。
「先生のこれまでの話、色々とバラしますけど、いいんですか? それに元秘書の生活の面倒、今でも見てらっしゃるんでしょう。ばらされるのが怖くて。間違ったことを私、言っていますか?」
「……」
島本は唸った。野口はさらに言った。
「先生、まだあきらめてらっしゃらないんですよね、衆院選」
受話器から島本の孫と思しき、子どもの声が聞こえた。幼稚園に出かける支度をしているようだ。
「もうそういうのは嫌なんだ。まだ、あなたに稼いでもらった金が余っているんだが」
野口は激高した。
「金じゃないんです! 必要なのはお宅の元秘書なのに、何を渋っているんですか。こんなつまらないことで志を無駄にしないでくださいよ、島本大先生!」
おじいちゃん、いってきます、という男の子の元気な声が聞える。
「後ほど電話をさせる。それでいいな」
島本はしぶしぶ承諾した。
*
その日の夜、中村は早めに仕事を切り上げて向かった恵比寿の韓国料理店で、奈美が来るのを待っていた。電話では、簡単な1日だけのアルバイトだとだけ伝えていた。会合に先立ち彼は野口から、今回の仕事の内容についてどう説明するべきか、指示を受けていた。
奈美が現れる。立川の居酒屋で会った時と同じように、女装と化粧をしていたが、肌の艶がさらに失われているように感じた。事実、奈美は生活に窮していた。衣服や化粧品への投資を惜しまなかった奈美のカードローンの返済額は、月に10万円を超えていた。当座の資金の確保のために別の消費者金融にも手を付けており、家計は破綻しかけていた。中村からの仕事の紹介は、尾骶骨あたりから尻尾を生やして、それを左右に振らしたくなる程、飛び上がって喜びたい気分にさせるような話であった。
生ビールとカルビ、塩タン、ロースが揃うと、二人は乾杯をして箸を付け、しばらく経つと、奈美が切り出した。
「そうそう、詳しい話するっていっていたけど、仕事って?」
中村は無煙ロースターにカルビを並べながら答えた。
「荷物を運ぶ仕事。運転は俺がする」
「引っ越し屋さん?」
「似たようなものかな。実は、うちで働いている記者が失踪してね。借り上げのアパートに取材メモが入った段ボールや備品を置いたままにしているんだ。ほら、うちって報道機関だからさ。取材源の秘匿はもちろん、取材した内容の漏洩については細心の注意を払わないといけないんだけど、専門業者に頼むと高いし、一人だと時間がかかりそうだから」
「そんなに量があるの?」
「そこまでじゃないよ。筋肉痛になるほどでもないと思う。拘束時間は大体3時間から長くて5時間で日給5万円。現場までの往復交通費は支給する。どうだろう」
「すごいじゃない。わかったわ。やる」
即決する奈美に、中村は同情の念が沸き起こった。
*
野口は島本の元秘書、高山を、アバンラバンギャール投資育成組合の応接室に呼び出した。1年以上前、インサイダーの疑いで証券取引等監視委員会の家宅捜索を受けた後、逮捕・起訴され、執行猶予付きの有罪判決を受けていた男である。
浅黒く頬のこけた高山は、アイロンの掛かっていないピンクのボタンダウンのワイシャツで上半身を包み、ケミカルウォッシュのジーンズを履いていた。痩せ型で遠目で見ても健康的な要素はなく、艱難辛苦が滲みでていた。
決して身長の高くない高山は革張りのソファに浅く腰を下ろし、上半身を前に突き出しながら肘を両膝の上に置き、手を組みつつ上目づかいで睨むように野口に顔を向けている。
濃紺のスーツ姿の野口は依頼内容について話を始めた。報酬は最低1000万円で、最大2000万円まで支払うことも約束した。これらの資金について野口は自らのポケットマネーではなく、東京電工をはじめとした周囲から融通することを想定していた。
「細かい部分はこちらで決めていいんですか?」
野口は首を縦に振った。机の引き出しからA4サイズのファイルを取り出して、目の前の疲れた男に差し出した。
中には李が務める投資顧問会社の概要や、彼について言及のある過去の新聞記事、さらに伝聞情報に基づくメモが綴じてあった。
李が住んでいるのは、都営大江戸線の若松河田駅周辺にある高層マンションの1室で、現地政府の要職にあった頃にはアマチュアの囲碁大会で優秀な成績を修めていた。来日以降もアマチュアトーナメントの地方予選に出場していた形跡がある。
「もう慣れっこだろう。島本先生もきっと、かばってくれると思う」
再就職先を見つけられずにいた高山は、仕事を請け負うことを決めた。だが、気乗りはしなかった。
1度目の依頼の記憶が、否応なく蘇ってくる。
*
〈ずいぶん前、40代になったら、いつか芝居をしようと約束したよな〉
1年ほど前、塩津がそう口走った時、高山は不覚にも身震いした。国会議員の私設秘書をしていた関係で、質の悪い人間と接することが多い彼にとって、旧友の塩津と酒を酌み交わす時間は何よりも代えがたい貴重なものであった。
少なくとも野口という、証券市場が生み落としたワルが、島本を利用し始める前までは、そうだった。
塩津が野口に話したのか、野口が自分で調べたのかははっきりしないが、いずれにせよ高校時代の同級生という二人の関係性は、野口にとって好都合だったようだ。
高山は指示に従っただけだ。家業を継がずに政治の道を志したのは彼の責任だ。泥水を呑まなければならない世界である。そうはいっても、旧友を貶めようとしていることには平静ではいられなかった。
二人にとって、定期的なものに過ぎなかったはずの酒席で、高山は金を無心したのである。
島本の選挙資金が必要となり、借金をして相場を張り、失敗をしたのだと、理由ははっきり伝えた。塩津はまず、私設秘書を辞めて、うちの会社で働ないかと誘った。極めて現実的な対応である。しかし指示に即したシナリオではなかった。
固辞する高山に、ただならぬ事情を嗅ぎ取った塩津は、その時点で高山と距離を置くべきだったのだろう。悲しいことに、塩津も孤独だった。
二人の間柄に安らぎを覚えていたからこそ、力になれることがあればすると塩津は約束したはず──。そう高山は踏んでいた。
塩津は問いただす。
「損失を出したのは島本先生に伝えたのか?」
「いや、それがまだなんだ」
「まずそれを説明しないと」
「先生には迷惑かけられないよ。せめて金だけでも、貸してくれないか。ちゃんと返すから」
塩津は高山に小切手を送った。数日後、高山から電話があった。1000万円を担保に、伝統的な仕手銘柄と位置づけられる株の信用取引を手掛けたところ、2億円の利益が出たというのだ。
損失を穴埋めしても5000万円が残る算段となるので、十分な利息を付けて早速、返しいという。塩津は断った。
「返すのは1000万円だけでいいよ。選挙資金の足しにはなるんだろう」
高山は提案をそのまま呑むわけにはいかなかった。
「ダメだって。少しは恩返しをさせてくれよ」
「そこまで気を使わなくてもいいって」
「じゃあ、会社の近くに現金を置いておくよ。どうせ忙しいんだろうし」
振込でもいいのに、と塩津は不思議がったが、そこまで強く出られたら、意地を通しきれない。塩津はイエスもノーも言わずに、ただ黙っておいた。
3日後、高山が社長室にやってきた。手にはジェラルミンケースがある。
「やめてくれよ、そういうのは」
塩津は明確に受け取りを拒否する意思を示そうとしたが、高山の顔は暗い。
「実は、もう1つお願いがあるんだけど」
C社の増資計画を高山が打ち明けたのはこの時だ。危ない橋を渡ることになると塩津は直感した。
「儲けたのなら手を引けよ」
「そういう訳にいかないんだ。この前の儲けは別の売買ですっかりなくなってしまったんだよ。本当に俺は馬鹿だ。弁明しようがない。ここにあるのは、そっくり1000万円だ。お前が貸してくれた額と同額だ。俺は物理的にさっきの情報を知りうる立場にあるから、売買したら足が付く。俺はまだ窮地に立っていて、お前しか頼る人間はいないんだよ」
高山はそう言うと、頼む、と言って土下座をした。
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