第15話 紫煙とビキニ
アリスの入口で、あなたは本当に、女になりたくて来たの、と凄む奈美の目には、悲哀があった。水元とは違うタイプの、生きづらさを抱えたことによる悲哀。それを共有できないのなら、敷居を跨がないでほしいと、奈美は目で訴えた。
水元は、はっとした。首を縦に振れなかった。
扉近くの壁には、店内での順守事項を記した紙が貼ってある。クロス・ドレッサーを巡るコンテクストへの理解が不十分な人間は、入店できないことになっている。
水元は、すみません、と言って背を向けようとした。
すると奈美は表情を崩し、なによ水臭いじゃないの、と言う。客が集まるまで時間があるから、近くでコーヒーでも飲もうと誘ったのは、包容力のある奈美のほうだった。
靖国通り沿いにあるカフェはひっそりとしていた。
二人は1杯180円の一番安いブレンドコーヒーを頼み、席についた。奈美の指先はマニキュアが輝く。だが、まぶたのアイラインは剥ぎ取られ、ファンデーションの無い地肌に所々、窪みがあるのが気になった。水元は、奈美がやはり、確実に自分より年上であるように思えた。
「残照、休まれているようですね」
奈美は黙ったまま、カップに口を付けて横を向く。
「タバコ吸ってもいい?」
ポーチの中からヴァージニア・スリムを取り出して火を付け、深呼吸をするように紫煙で胸を満たし、水元の顔に当たらぬようにそれを吐き出すと、奈美は言った。
「野口さんという方。あなたご存知でしょ」
「えっ」
「知らないとは言わせないわよ。ずいぶん、こき使われているそうじゃない」
「東京電工ОBの野口さん、のことですよね」
「そうよ」
奈美は語気を強めた。水元は自身の背任行為が奈美の耳に入っていたのだと思うと、肩身が狭くなる心地がした。
「カレがヒョロッとお店に現れたの。『頼み事がある、いい話だ』と言ってね。以前、塩津社長とよく店にいらしていたから覚えていたんだけど、何か、いつもと違うような殺気だったものを感じて、嫌な予感がしたわ。そもそも野口がいなければ、あたし、お店、辞めずに済んだのよ」
水元は目を丸く開いた。
「野口のせいで? お休みじゃなくて辞めたんですか?」
奈美は顔を両手で覆い、テーブルの上に崩れた。咽び声が白い壁を伝って店内に響いた。カフェの店員の視線を感じながら、水元は奈美の耳に口を近づけて声をかけた。
「マスターは休んでいると言っていましたよ」
「それは、マスターは本当に優しい人だから。でももう戻れないの。あんな迷惑をかけた以上、戻りたくても戻れない。いつも優しくしてくれたのに。あたしったら、恩を仇で返すような真似をしてしまって」
「野口は奈美さんに何を頼んだんですか?」
奈美は顔を伏せたままである。
「ご存知かもしれないですけど、奈美さん、僕は野口に顧客の情報を横流ししろと言われていたんです。彼を頼った自分の脇も甘かったんですけど、バレてとうとう、クビになってしまいました」
奈美は瞳を真っ赤にしたまま、ゆっくりと顔を上げた。
「失業したの?」
「ええ」
「……笑える」
奈美の表情が少しだけ緩んだ。
「笑えないでしょう」
水元はムキになる。
「ごめんなさいね。でも、あたしも似たようなものなの」
奈美は落ち着きを取り戻そうと、コーヒーをひと口すすった。
「あたしは、人を脅せと言われたの。塩津さん、離婚した奥さんがいるでしょう。離婚後も塩津さんの会社の株主だったらしくてね。塩津さんの会社って、どっかに身売りしたじゃない? 野口からの受け売りだけど、ビキニ工業だっけ?」
「響工業です」
「どっちだっていいじゃないの。それで奥さん、ビキニの株主になったんだけど、野口の依頼はね、その株を彼女が手放すように協力してほしいっていうのだったわ。見返りを求めたらね、性転換手術をタイで受けさせてやるって。それも腕利きの病院での性転換よ。分かる、あなた? 安かろう悪かろうじゃないんだから」
奈美はTシャツの襟元をわざと強調するように見せてきた。
「脅しって何をやったんですか?」
「野口と一緒に奥さんのうちに行ってそこで診断書を見せて、アンタの旦那のせいで病気になったって言ってやったの」
「病気?」
「うん。あたし、とあるセックスして感染する病気のキャリアで、塩津さんとお付き合いする前からそうだったんだけどね。診断書を偽造して、見せてやったのよ」
奈美の表情の奥に影が差した気がした。
「奥さん震えちゃって。それが怒りの震えなのか、恐怖のそれなのか分からなかったけどね。あたしはそんなことはどうでもいいやと思うことにして『無理やり倒されて乱暴されたんですけど、この治療費、どうしてくれるんですか。旦那さんはこれまで払ってくれましたけど、もういませんし』って、言ってやったの。野口のシナリオに沿ってね。すでに離婚した自分には関係のないことだと向こうは言ってきたんだけど、『義理のお母様に請求いたしますが、よろしいでしょうか』と言ったら、奥さん泣いちゃって。償いの手段について聞いてきたの。奥さん、社長が亡くなってから、塩津さんのお母様の介護をなさっていたの。他に頼る人がいないし、お母様が償うのなら、必然的に奥様が償うことになるのよ」
「それで株を手放してもらったんですか?」
奈美は首を横に振った。
「普通、そう思うじゃない。でも奥さんはあれだけ涙を落としても、株を手放すことには同意しなかったわ。どういうわけか、金銭で解決したいっていうの。奥さんもしかしたら、金づるとなる男に目星を付けていたのかもね。困るのは野口の方よね。その日はまた来るとだけ言い残して後にしたの」
「何でお金で解決しようとしたんですか?」
「その辺は分からないわ。株を持ち続けていたらいいことがあると、誰かから聞かされていたのかしら。ただその翌日のことなの」
目を赤く腫らした奈美は当時のことを振り返った。
*
夜10時過ぎだったわ。
残照には常連客が5人ほど来店し、オーナーとあたしの2人が客の相手をしていたの。
本来なら、もう1人スタッフが欲しいところではあったんだけど、この日はアルバイトの大学生が体調を悪くしたと言って急遽店を休んでいたの。普段よりも忙しくてね、そんな時に、女性が店に現れたのよ。
顔が前髪で覆われていたから、誰なのか初めはよく分からなかったけど、やがて、塩津社長の前妻だと分かったわ。
そのあとは、ああ恐ろしい。
目が合うと、カノジョは無言のままカバンから金槌を取り出して、襲い掛かってきたの。
店内には悲鳴が響いたわ。たぶん、あたしの。それでね、身体つきの大きな常連客の方が隙を見計らって彼女を羽交い絞めにして、なんとか床に押し付けたの。この時、テーブルの1つが倒れて、グラスが床に落ちて粉々に割れたわ。カノジョは床に押し付けられると、呻き声を出したわ。ぎえーって。
オーナーは慌てて110番通報をしたわ。怪我人が出なかったのが救いだった。数分後、赤い回転灯の光が2丁目の雑居ビルの外壁を明滅させることになり、男性警官が前妻を連れ出してパトカーに消えて、常連客らは、また来ると言い残してその場を去り、警官による事情聴取が終わり、あたしとオーナーの2人だけが店内に残ったの。
「奈美ちゃん」
オーナーが何かを言おうとするのを制するように、あたしは頭を下げたわ。
「ご迷惑をおかけしました」
それでね、ロッカーにある荷物をまとめて、何も言わずに店を後にしたわけ。
*
ヴァージニア・スリムの煙がゆらゆらと、カフェの天井に伸びていく。奈美は窓の外に目をやりながら、話を続けた。
「それから野口に電話したんだけど、のらりくらりと、知らぬ存ぜぬを貫き通すのよ。『あんたのためにやって、職場ひとつクビになったのよ、どうしてくれるの』と食い下がって、紹介してもらった仕事が町工場の旋盤工のオペレーターよ。時給は950円。舐めているのかこの男って思って、もう頼りにしないことに決めたの。あいつ最低よ」
奈美は顔を上げ、天井に向かって煙を吹き上げた。水元は自分も、失業したのは背任行為をけしかけた野口のせいだと強く言えば、新しい仕事を紹介してもらえたのかもしれないと思った。あなたの責任だと言われた時、その通りなのだろうと自分が受け止めた浅はかさは、悔やんでも悔やみきれない。時給950円の仕事でも、ないよりはましだ。
「オーナーは待っているんじゃないですか」
「そう思ってもらえるのは有難いんだけど、どう考えたって、もうあそこでは働けないでしょ。まあ、アリスがあるから、いいのよ」
奈美が吐き捨てるように言葉を放ったちょうどその時、水元のスマートフォンが振動した。<通知不能>とある。中村が例の八王子分室にある固定電話から掛けてきたに違いない。塩津社長の一周忌の件だろう、と思い、奈美に詫びを入れてから電話に出た。
「ごめん。今、仕事中だった?」
職場の人に聞かれまいとしているのか、中村は声を押し殺している。
「いや、クビになってしまいましたよ」
「え?」
「嵌められました」
「誰に?」
「野口です」
「本当か? いや、大変だな……」
中村は言葉に詰まった。
「一周忌の件ですか?」
「まあ、その話はまだ決まってなくて、別件なんだけどね。響工業の件なんだけど」
一周忌の詳細が未だに決まっていないことは不思議だったが、そういうものなのだろう、とも水元は思った。中村は続けた。
「協力してほしいことがあったんだけど、君はもう工具屋の営業マンじゃないのか。これからどうするんだ」
兄が弟に説教するような口調で中村は問い詰める。水元は言葉を濁した。
「時間はあるんだろう。どこかで会わないか。食事代も出すから」
中村に身の上話をするのは気乗りがしなかった。奈美は腕時計に目をやっている。
「響工業で何かあったんですか?」
「そうそう。響工業の社長から頼まれたことがあるんだ。俺一人の力じゃどうにもならないので、手伝ってほしいと思ってね。社長に言えば、報酬も出してもらえるはずだから」
「危ない橋なら渡りませんよ」
「おい」
中村は声を低くした。
「仕事を失ったのに、悠長な感じであれこれと言うなよ。暇なんだろ」
水元は、はい、と言うしかなかった。
「とにかく立川駅で待っているぞ。仕事をやるっていっているんだ。必ず来ること」
直接やりとりしたことはないが、借金取りの電話はこういうものなのだろう、と水元は感じた。中村からの電話が切れると、奈美と目が合った。
「話の腰を折ってすみません」
「いいのいいの。だいたいね旋盤なんてやったこともないのに、野口という男といったら」
「その野口の件で、いま電話が」
「えっ? なになに」
奈美が身を乗り出してくる。野口に抱く恨みは相当なもののようだ。
「中村さんっていう新聞社の営業マンの方なんですけど」
「うんうん」
「野口の件で何か手伝ってほしそうな、そんな雰囲気でした」
水元は響工業が塩津製造所の事業を引き継いだことや、中村がなぜこの件に関わることになったのかを説明した。
「あたしも付いていっていいかしら。きょうは体調が悪いのでお休みをもらうということにして」
水元は一瞬、戸惑った。
「なにかお手伝いできれば、とも思うし」
奈美は、アイラインのない瞳をまばたきさせている。
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