第14話 一条戻橋/クイア
失業した日、まだ陽の高い時間に自宅に戻った水元は、冷蔵庫からビールを出すと、一口で飲み干した。2本目を空けるまで10分も掛からなかった。続いてウィスキーをグラスに注ぎ、ストレートで飲んだ。2杯目、3杯目と飲むうちに、睡魔が襲った。
水元は夢を見た。
京都だった。高校時代に一人旅で訪ねて以来だ。弓子が育った街でもある。
渋滞する道で止まったり走ったりを繰り返す市営バスに乗っている。多くの観光客が乗り込み、湿度は高く息苦しかった。
金閣寺に近い停留所でバスを降りようとしたが、空にはどす黒い雲が立ち込めている。雨に降られまいと、バスの中にとどまることにした。
すると雲は消え、元の晴天に戻った。
堀川通に出て南に下りだすと、
乗客の1人が降車ボタンを押した。ブザー音と同時に男性に電流ショックが与えられたようで、男の全身の筋肉が硬直し、小刻みに震える様子がみえる。
男が蘇生したのかどうかなど、まるで興味がないというような態度で、バスは南下を続け、二条城近くの停留所に停まった。金閣寺が駄目なら二条城の観光でもしようと考えた水元は、再び運転手席寄りの出口に近づき、1日乗車券を財布から取り出そうとした。が、再び天候が急変し、突風が車内に吹き込んだ。今度は雷鳴も轟く。
結局、水元はまた車内に残った。
バスは四条通に入った。激しい渋滞で全く前に進む気配がない。
雷雨は止み、夏の夕空が四条通を茜色に染め上げている。
しばらくすると、降車した乗客の一人が息を切らして戻ってきた。40代前半のスーツ姿の男性だ。運転手が入口のドアを開けると、男は言葉にならない言葉を発した。
また一人、また一人と次々に、先ほど降車した乗客らが車内に戻ってきた。一様にその顔には恐怖の色が透けて見えた。
渋滞を抜けた頃には、すっかり日が暮れてしまった。バスは遅れを取り戻そうとする。
水元はふと、ディーゼルエンジンの響く車内を眺めた。乗客はみな、仏像に置き換わっている。
斜め前の客は
まだ人の形をしていた運転手は、畜生、と言った。左前輪がパンクしたようだった。
(車輌故障のため、このバスはこちらまでになります。電気自動車が参りますので、順次そちらにお乗換え下さい。ご不便をお掛けしお客様にお詫び申し上げます)
乗客のうちの何体かは、目的地まで歩いて向かうと言って、その場を離れた。
電気自動車が来るという、よく呑み込めないアナウンスに従ったのは、水元だけだった。バスの運転手は水元に、京都は明治時代から電気自動車をつくっているのだ、と誇らしげに話しかけてくる。
いつまで経っても電気自動車は現れなかった。運転手の携帯電話が鳴った。
(すみません、こちらに向かっていた5台の電気自動車の全てにおいて、同じ部品が故障したようで、代替が効かず、来られないみたいです)
水元は歩いた。湿った風が吹き始め、水滴が彼の肌に落ちてくる。傘を持ってこなかったのを後悔した。コンビニエンスストアの看板は見当たらない。雨脚が強まってくる。
こんな時間に寺社仏閣に向かっても、とうに閉園時間だ。時計をみると、午後8時を過ぎていた。
やがて金閣寺との文字が光るネオンサインが目に入ってきた。入場口は開いている。特別公開中だからなのかもしれない。
周囲には誰もいなかった。雨粒に濡れる木々の薫りに包まれた玉砂利の道を歩くと、黄金色ではなく、青く輝く
どこからか、若い女の声が聞こえる。中学生が国語の教科書を読み上げるような調子だ。
(故障しましたか)
水元は意味が分からぬまま、その場に立ち尽くしていた。耳を澄ました。するともう一度、故障しましたか、と聞こえた。
と、青光りしていた金閣寺の屋根が開いた。建屋のうちから白い光柱が天に伸びていく。
それからは、あまりの早さで物事が進んだ。まず水元の体躯は鉛のように重くなった。鉛そのものになる。だが柔らかい。柔らかいが水銀ほどではない。
左腕は最早かつての左腕ではなくドリルに変わった。自分の意思では制御が効かず、自分の身体の至るところに穴を開けようとしている。
右腕は、手のひらがあった場所が歯車になり、歯車だと認識すると回転する。回転するだけで、動力を伝播する機能は失われているようだった。
両足の付け根から下は切り取られ、切断面は平らに削られている。底面は構造物として床に取り付けられている。
床? そこはすでに、金閣寺ではなかった。水元(だった存在)はトイレの床に固定されている。介護施設の、個室をカーテンで隠すタイプのトイレで、動きたくても動くことができない。
胸の辺りが熱くなる。胸板に突き刺さったドリルが唸り、空孔を広げようとしている。やがてプスッという音と共に、真っ白な世界がやってきたところで、目を覚ました。
頸の辺りが汗で濡れていた。時計は午後9時を回っていた。
水元は冷蔵庫にあるミネラルウォーターで喉を潤した。気付かないうちに疲労が蓄積していたのかもしれない、と考えた。
吐く息は酒臭かった。冷蔵庫にはもうビールがない。ウイスキーもあと僅かだ。
あてもなく外出することにしようと考えた。武蔵小金井駅周辺の居酒屋でもよかったが、午後9時半の中央線快速で新宿に向かった。失業した身分でもある。現実から目を反らしたかった。
ずいぶん前に、奈美に教えてもらった世界がある。女装家の世界だ。新宿駅から歩いて20分ぐらいの場所に、店はある。名前は、アリス。不思議の国のアリスのアリスよ、と言う奈美の、酒焼けした声を思い出す。女装家が集まるサロンバーで、スタイリストが常駐している。
水元はまだ、酔いが残っていたのだろう。自分はこれからアリスに向かって、女になるのだと思い始めると、少し興奮したのである。
こんな腐った自分だからこそ、弓子は離れていったのだろう。どうせなら幻滅した目を直接、見せてほしかった。
これから就職する先には、ロクな会社があるような気にもなれない。女装した踊り子となって、客を上機嫌にさせる。奈美がそうだったように。再就職先が決まる見込みがないのなら、早々とその道を進むのもありではないか。妄想が膨らんでいく。
「アリス 新宿 女装」で検索すると、女装サロンバーのウエブサイトがヒットした。スマートフォンが指示する道順をたどって、低層マンションの一室に到着したが、インターホンを押しても誰も出ない。
鉄製のドアにはリーフレットが挟まれたクリアファイルが貼り付けられている。
中から1枚を取り出して営業時間を確認すると、きょうは定休日だった。
リーフレットの裏側には、女装のサポートをするスタッフが紹介されていた。顔写真はみな口や目を隠している。
そのうちの1人の、口元を隠す顔写真をみて、水元ははっとした。奈美であるのを、隠しきれていなかったのである。
結局その日、水元は、カプセルホテルで1泊することにした。酔いからも醒めつつあった。
サウナで汗を流してから、休憩スペースでスマートフォンを手に取った。ハローワークのウェブサイトを開き、求人広告を検索した。条件を指定したうえで、ヒットした求人は100を超えた。景気が谷底を這う中にあって、製造業での営業経験を求める企業がこんなにもあるとは知らなかった。早くハローワークに足を運んで必要な手続きをとらなければならない、と水元は考えた。
興味を持った企業の1社は、23区内にあった。
水元は、武蔵小金井の自宅を出て、通勤客に混じって、午前7時台の電車に乗った。向かう先は飯田橋駅近くのハローワークだった。1年以上前、G社の退職を考えていた頃、何度か通ったことがあった施設だ。扉の前では同世代に見える若者が10人ほど列をなしていた。
入口の自動ドアの施錠を職員が解くと、求職者らは秩序よく2階の受付に向かって階段を上っていった。水元は列に続いた。係員に検索用パソコンの利用をしたいと伝えると、42という洋数字の記されたB5大の紙の入ったクリアファイルを手渡された。「死になさい」という意味かと嗤いながら、水元は指定されたパソコンの前に腰をかけ、昨晩見つけた求人票を改めて画面で確認し、印刷した。
午前中に手続きを済ますと、その後は何もすることがなかった。観たい映画も特になく、散歩をしてやり過ごすことに決める。
神楽坂を上って、早稲田を経由して戸山公園まで行き、ベンチに腰を降ろして空を見上げた。空腹感を感じたので、コンビニでサンドイッチとコーヒーを購入し、同じベンチに戻って食事をとることにする。
午後3時になり、何もすることがないので、近くに図書館でもないかとスマートフォンで検索し、区立図書館で閉館時間まで雑誌を読んだ。小説を読むにはもう少し、精神的な余裕が必要だった。
図書館の外に出た時にはすでに日が沈んでいた。自宅に引き返すには、電車が混雑している時間でもある。
水元はアリスに行こうと考えた。ちょうど図書館から歩いていける距離にあったのだ。
酒はまだ口にしていない。それでも奈美がいたら、女装の手ほどきを受けるのも悪くはないと思った。
低層マンションの一室には、身長165センチぐらいの細身の男がいた。長髪でニューヨークメッツの野球帽を目深にかぶりつつ、水元の方を見て、一度目をそらした。水元はすぐに男が昼間の奈美であると分かった。
「奈美さんでしょう」
「こんなスッピンの顔を見に、なにあなた、冷やかしに来たの?」
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