第3話 食卓塩


「これが、社長の手紙ですわ」


 初老に差し掛かった白髪の男が、無機質な茶封筒を水元と中村に見せた。板橋のはずれにあるセレモニーホールで、通夜が執り行われた後のことだった。


 仕出し料理が並ぶ控室で、男に会社のことについて話を聞かせてほしいと声をかけたのは、中村だった。債権者であり、かつマスコミだからと、圧を掛ける中村は、半ば強引に喪服姿の男に応対を求めた。男は柳岡と名乗った。


 柳岡と3人の部下は畳間に胡坐をかいて、ビールを飲んでいた。周囲にいたのは中村と水元を除き、会社の人間ばかりである。喪主を務めた塩津の母は部屋の角隅で車椅子に腰を掛け、うつむいたままだった。


 茶封筒をセカンドバックから取り出した柳岡の指先は茶色い光沢を放ち、岩のように堅く見えた。


「拝見してもいいですか」


 柳岡は頷いて認めた。封筒の中に便箋が一枚あった。塩津が一人ひとりに宛てた直筆のメッセージだった。新任教師が初めての授業で黒板に記すような丁寧な楷書体で記されている。


<ヤナさん 長い間ありがとうございました。そして申し訳ありませんでした。親父のようにはなれませんでした。ヤナさんの腕があってこそ塩津がこれまで持ちこたえてきたのは確かです。


 こちらの都合で会社をたたむことになります。響工業の日引社長に連絡してください。私の方から、ヤナさんと八木、高田、椎名をはじめ、みんなの面倒を見て欲しいと言ってあります。響は腕を必要としています。


 私は責任を取らなければなりません。合わせる顔はもうありません。私が招いた結果に、あれこれ言い訳はいたしません。明日からこの会社は、私たちのものではなくなります。悔しいです。許せない思いもあります。


 できることならヤナさんと、また秋川渓谷へキャンプに行きたいです。ウグイしか釣れない川に釣り糸をたらし、ビールを飲みながら見上げた昨年の夏空が、今でも頭に浮かんできます。どうか、お元気で 塩津拝>


 柳岡は視線を起こして言った。


「最後の朝礼はね、いつものように受注状況や、昨今の経営状況とか、そういう話を聞くものだと思っていたんですけどね。そうじゃなくて、まずね、無言で、社長、一人ひとりに給料袋を渡しはじめてね。しばらくなかったけどボーナスか、うちも景気よくなったなって思っていたら、塩津は今日を持って事実上、事業を休止することにする、といきなり言うもんだから、こっちも眠気がすっかり吹っ飛んで、どういうことだって詰め寄ったわけさ」


 背後で子どもたちが、しりとりをして遊んでいた。柳岡は続けた。


「事実上だかなんだか分かんねえけど、そんなこと突然言われたって、どうしていいかわかんねえ、ってね。そしたら塩津の旦那は大丈夫、ちゃんと、みんなの再就職先は手配してあるって言うんだ。そういう話じゃねえって。明日から他のところ行ってくれって言われても、気持ちが付いていけるかは別の話じゃねえの。何で今になって、会社がこんな状態になっていたのを言うの、あんた無責任じゃないか、って、さんざん、言ったわけよ。そしたら社長、涙流して、ただ黙って頭をこう、下げてね。こちらは何にも言われなくなってしまってね」


 柳岡がグラスに注がれたビールを一口飲んだ。


 彼の横で八木という名の、40代前半ぐらいの角張った顔の男が、うつむきながら言った。銀縁眼鏡の奥に除く瞳からは無力感がにじみ出ていた。


「うちも大所帯でやっていたわけではないでしょ。以前はだいぶ人はいたけど、徐々に減らして筋肉質にして。それでも暇っていう感じでもなかったから、信じられなかったよね。でも何で会社を畳まなくちゃならなくなったのか、社長はしっかり言うべきだったよ。あの日、俺たちは何度も聞いたけどさ、口割らないんだもん」


 中村が口を挟んだ。


「こんな場所で失礼ですけど、塩津製造所の経営はどうなっていたんですか?」


 柳岡は淡々と答えた。


「会社の株はね、4、5年まで先代が半分を持っていて、あそこのほら、おっかさんと、棺桶の中にいる人が残りの半分ずつ分け合っていたんだけど、取引先の地銀がふらっと営業に来て、上場しないかって言ってきたんだよね。ベンチャーキャピタルっていうんだっけ。出資しますから、株式を上場して会社を大きくしましょうって。まあ、そこそこの技術を持っていたし、中小企業が生き残る上では設備投資への資金も必要だったから、社長もその話に乗った訳さ。当時はどっか別の会社の事業を買って大きくするみたいな話もあったっけな。それで塩津製造所が増資をして、地銀傘下のベンチャーキャピタルが株を引き受けた。保有比率は確か、51%がベンチャーキャピタルで、先代が27%、残りを半分ずつ、おっかさんと社長、そういう形になったと覚えているよ。でもね」


 柳岡が、塩津の母の方を見遣って言った。


「先代が亡くなって、27%をどうするかが問題になってね。相続の問題があるから、ベンチャーキャピタルに引き取ってもらうという手でいこうとしていたんだけど、ややこしい問題があった」

「問題?」


 水元が聞いた。


「そう。ちょうど先代があの世に行く前に、社長、奥さんと離婚したんだよ。今日ここには来ていないけどさ。慰謝料をどうするかと揉めていた時でね。会社はいつもと変わらず金策に苦労していたし、しょうがないから、27%のうち10%を前妻に引き取ってもらうことにして納得してもらったんだ。塩津製造所が上場すれば、前妻は株を売ることで儲かる訳だ。逆に旦那にとっては上場することが前の奥さんに見せることができる誠意の一つにもなってしまった」


「残りの17%は、そのベンチャーキャピタルに行った訳ですか」


 中村の問いかけに、柳岡は首を立てに振った。


「ベンチャーキャピタルの関係者はどうですか。ここにいますか?」


 八木が答えた。


「それがいないんです。株主でここにいるのはあちらのお母様と、検死を受けたあの棺桶の中の人だけです」


「弔電すら来ていないんですか」


 柳岡が立ち上がった。


「ちょっと待って。聞いてみるわ」


 八木は柳岡の背中に視線を送ってから、中村と水元の方に向き直し口を開いた。 


「すみません。うちの会社のせいでご迷惑をおかけして」

「いえいえ」


 中村はビールを八木と他の部下らのグラスに注いだ。返礼として中村と水元のグラスにビールを注いだ八木は、呟くように言った。


「でも債権者って、もっといるもんだと思っていましたよ。漫画とかによく出てくるでしょ、門に大勢の人が押しかけてくるシーン。あんなのを想像していました」


 中村は苦笑いした。八木はさらに続けた。


「社長からは塩津製造所が廃業するということが伝わると、迷惑がかかる人間もいるから、決して口外しないようにと釘をさされましたよ。電話は全部自分が出るからと、やけに意気込んでいましたね。そして夕方、送別会の日時を連絡するから、と言い残して、車でどこかに消えてしまいました。仕事を終えて職場のロッカーを開けると、手紙が入っていて。一人一人にです」

「銀行屋でも直前まで気づけなかった、という……」


 中村がそう言いかけた時、柳岡が戻ってきた。弔電の束を手に呟いた。


「知らないなあ、ここは」

「どこです」


 八木が柳岡の手元を覗き込んだ。


「アバンラバギャール投資育成組合共同代表 野口勇。え。野口って、あのおっさんじゃないですか。ムッシュ・グッチ」

「ムッシュ・グッチ?」


 思わず聞き返した水元に八木が言った。


「国の補助金申請などで面倒を見てくれた人ですよ。ヤナさんも見たことあるでしょう。東京電工という取引先で、ロケット関連の開発部門から常務までいって、それからどっかの外郭団体の代表に移って。フランスかぶれで、赤塚不二夫のマンガのキャラクターそっくりな、嫌味な奴で。アバンラ? バギャ? なんだムッシュ、こんなこともやってたのか。へえ」


 水元は数週間前に電話口で耳にした高飛車な声を思い出した。昇格が決まって能天気な毎日を過ごしている部長の間抜けな顔も思い浮かべた。


「ベンチャーキャピタルって、こちらの会社のことなんですか?」


 八木が首を横に振る。


「地銀の系列だったので、ここは別ですわ。ヤナさん、ここ聞いたことあります?」

「高崎銀行の系列しか知らないよ」


 柳岡は一通り弔電の束に目を通してから、再度1通ずつ、その差出名を確認した。八木が続けた。


「高崎銀行の関係者、ここに誰もいませんよね」

「薄情なやつらだよな、金融屋は」


 吐き捨てるように柳岡が言う。中村が聞いた。


「今でも高崎とは取引しているんですか」

「一応、うちのメーンだよ。だがね、最近は営業が来ることも、あまりなかったな。多摩支店は人を減らしたそうだし」

「そうですか。地銀も経営苦しいんですかね。社長もなんだか、浮かばれませんよ」


 中村が言った。しばらくの沈黙の後、柳岡が口を開いた。


「私どももね、何で社長があんな死に方になったのか、納得がいかないんですよ。こんな手紙を書けるような素直な人だった。なのにね」


 中村は話題を現実的な方向に戻した。


「とはいっても、今後どなたに話をすればいいのか困っているんです。弁護士の方とか、いらっしゃらないんでしょうか。そうすれば、こちらとしても話がしやすいんですけど」


 柳岡は応じた。


「倒産すれば、そういう話になるんでしょうけど。どうなんでしょう。われわれに聞いてもらっても、こちらも明日の飯の種ことで精いっぱいですし。正直何とお答えしたらいいのか分かりません」


 畳み掛けるように、中村が言葉を重ねた。


「じゃあ、われわれは泣き寝入りするしかないのですか?」

「その辺のところは、ほら。責任を持って言える立場じゃないから」


 勘弁して欲しいという文字が柳岡の頬に書いてあるかのように見えた。溜まりかねて水元が間に入った。


「他の関係者に話を聞くしかないんじゃないですか。高崎銀行のベンチャーキャピタルとか。今日はもう遅いですからね。中村さん」


 中村がこちらを見て頷く。


 雑談を続けてグラスを乾かすと、水元と中村は柳岡らに無礼を詫び、セレモニーホールを出た。地下鉄の駅に向かう道中、中村は腹が減ったのでラーメン屋に寄ると言う。水元と綿密に連絡を取り合うことを約束し、道中で別れることにした。


 武蔵小金井に着いた頃には小雨が降っていた。


 春先の暖かい雨の中に土埃の混じった匂いが仄かに漂った。濡れたとしても不快にならない程度だったので、折りたたみ傘を取り出すこともなく、マンションに挟まれた、北に伸びる片側一車線の都道をいつものように水元は歩いた。


 アパートの玄関を開けると、食卓塩の小壜を片手に弓子が近づいてきて、赤いキャップを外し、水元の頭に塩を振りかけてから、愉快そうに笑って、お疲れ、と言いながらキッチンに消えた。


 水元は寝室でルームウェアに着替えた。食卓塩の角ばった粒子がフローリングの床に落ち、乱舞する。キッチンから弓子の声がする。


「大変そうね、夕刊に載っていたわよ。あんたの会社の取引先の社長」

「そうなの?」


 リビングのソファに腰をかけ、ガラステーブルの上にあった夕刊の社会面を開いた。4段見出しの記事があった。


 支店長が行方不明 高崎銀 社長不審死の町工場と接点


 東京都立川市内の飲食店で、精密部品を製造する塩津製造所の社長、塩津正隆さんの遺体が発見された事件に関連し、同社のメーンバンクである高崎銀行の多摩支店長が行方不明になっていることが、捜査関係者への取材で分かった。トラブルに巻き込まれた可能性があると見て、警視庁と群馬県警は調べを進めている。

 支店長は群馬県高崎市内で行員の送別会に出席した23日以降、連絡が取れない状態になっていた。25日夕に家族が群馬県警に捜索願を届け出た。同行は塩津製造所のメーンバンク。傘下のベンチャーキャピタルは塩津製造所の筆頭株主。

 塩津製造所は2004年に政府により有力モノづくり中小企業の認定を受けた。現在は社長の死亡に伴い営業を休止した。調査会社によると、売上高は25億円(12年12月期)。現在、事業承継先となる企業の選定に向け、関係者と協議しているとみられている。


「町工場の社長は名前が出るのに、銀行の人だと名前出さないのね。変なの」


 弓子はパスタの茹で加減が気掛かりなようである。


 水元の胸から、思わずため息がついて出た。明日にでも宮川に売掛金の回収の見込みがないことを報告しよう、飛ばされようが何されようが、かまわない。世間で働く会社員がみな味わうように、辛酸をなめたのである。これ以上この件に首を突っ込むのはよそう。水元はそう考えていた。


「はいどうぞ」


 手製のアラビアータが運ばれてくる。ダイニングで2人はテーブルにつき無言のままスプーンとフォークを取った。エプロンを脱いだ弓子は着古したジーンズをはき、エメラルド色のシャツに黒いカーディガンを重ねている。まだ冷える夜だった。メイクを落とした彼女の顔には薄く疲労の色が差している。


「今度の土曜、休めそう?」


 弓子が口を開いた。


「どうして?」

「去年行ったでしょ? 吉野梅郷。青梅線に乗って。あそこにまた行きたいの。あたしは休み、取れそうなんだけど」

「多分いつも通り休めると思うよ」

「本当?」


 弓子の声が弾んだ。


梅蕎麦umesobaの店、今年もやっているかな」

「ああ、あれはおいしかったよな。出汁が絶妙の塩梅だった」


 青梅駅から伸びるバス通りから一本、小道に入ってしばらく歩くと、淡色の梅花が斜面に沿って咲き誇っている。冬の憂いを吹き飛ばす甘い香りが漂う中で、梅蕎麦は、梅郷の入口に佇む古民家で振舞われていた。その素朴な味を2人は忘れられずにいた。


「でも弓子さまは、いつも仕事忙しそうだね」


 彼女は塩を入れすぎたといいながら、パスタを口にしている。掛けた言葉があまりに陳腐すぎると後悔した。近くをトラックが走り抜ける音がする。


「あの記事」


 弓子が目線を皿から私の方に移して言った。


「仕事に影響しない?」

「分からない」

「分からないって、もしかしてクビになりそうなの?」

「クビとは言って来ないと思うよ。一応正社員だし」

「じゃあ、どうなるの?」


 水元はグラスを手にした。


「本当に分からないんだって。あの上司のいないところで働くことになるのかもしれないし、働き続けるかもしれないし」

「ババアのことでまだ悩んでるの?」

「まあ、チャンスだと思う。俺も、仕事が嫌だ嫌だって言っているけどね、よく考えてみると嫌いなのは仕事ではなくて、あの上司だと思うんだ」

「転職するってこと?」

「それもありかなって。まだ行動には移していないけど」


 そう言いながら、今となって出来る仕事などないではないか、と耳元で呟く別の自分の声が聞こえたような気がした。30を超えた、無能な自分を欲しがる会社がどこにあるのか。両親の小言じみたことを、矢継ぎ早に口にする分身が傍らにいた。


「我慢したら。正社員で雇ってくれるところなんて、どんどん少なくなっているし」

「そうだね」

 水元は、なんだか叫びたくなった。


 食事を終えると水元は弓子とリビングのソファに腰をかけ、テレビのチャンネルを報道番組に合わせた。塩津製造所が気になったからではない。それが2人にとっての日常だった。


 既成政党と官僚機構による支配打破を掲げた第3極と呼ばれる政党の代表が、政府の予算案の中身に異議を唱える映像が画面に映る。無味無色の、ひりひりした感じと、既視感があった。


 弓子はすっと立ち上がると本棚から1冊の本を取り出してページを繰り出した。表紙には、ロシア語入門、とあった。


「そんな本持っていたっけ?」

「昨日買った。まだわかんないけど、うちの会社、ロシアに合弁つくる計画があるんだって。B社っていう自動車メーカーが向こうにあるんだけど、その系列会社とね。あそこ英語通じそうにないでしょ。何だか怖いし。駐在しろって言われたら、一緒に行く? どうする?」

「仕事があるならね。何でロシアなの?」

「ちゃんと新聞、読んでる? うちの取引先がB社の株式を取得したの。十数%ぐらい」

「経済関係の話は頭に入ってこないんだ。金儲けが苦手だから。ロシアって、イメージが湧かないね」

「B社の車って品質がまだ全然駄目なんだって。本当かどうかは知らないけど、ちょっとした荒地を走るだけで、途端に足回りが変になるそうよ」


 水元はシベリアの大地をカーキ色のポンコツ車が左右に揺れながら走る絵を想像した。


「日本の技術が必要とされているわけだね。でも転勤になりそうなの? 危ないでしょ、あの国」

「具体的な話は何もないよ。あったとしてもずっと先の話だと思う。でもね、うちの海外営業部員って10人ぐらいしかいないの。部品メーカーの人間って大手企業の内定を取れずに仕方なく入った人が多いでしょ。優秀な人は自動車メーカーに就職するからね、英語できる人間は限られるの。声かかったら、断れるのかな」


 報道番組がCMに移る前のジングル音を鳴らす。


「行ったら、僕は何をしたらいいの。寿司職人?」

「一応あなたも英文科出ているんだから、外国語は苦にならないでしょう、日本語教師とかは?」

「簡単に言うね。ただでさえ日本語が通じない日本人を相手するのに頭が痛くなる毎日が続いているのに」

「要領が悪いのよ。寿司職人よりは現実的だと思うけど」


 朝8時半、派遣で働く1階の受付嬢は水元の姿を見ると俯き、必至に笑いを堪えようとしていた。彼はいつものようにオフィスに入り、会社のパソコンを立ち上げた。気のせいかもしれないが、周囲の視線が何本も自分に当たってくるような感覚がした。


 机の上を見ると、メモが残されていた。


(16時半 奈美さんと名乗る方来社、電話がほしいとのこと。090-xxxx-□□□□ 総務部)


 過日のスナックでタンバリンを振っていた、奈美だった。廊下に出てメモにある番号に電話をかけてみたが、水商売の人間にはまだ熟睡すべき時間であるせいか、奈美は出なかった。


 自席に戻ろうとした時、廊下で出社したばかりの宮川に呼び止められた。


「今朝、何か予定入っている?」

「いえ」

「じゃあ、9時半になったら、私のデスクに来てもらえる?」


 9時半になる前に、高崎銀の代表番号に電話をした。多摩支店にはつながりそうにもなかった。塩津製造所と取引をしている工具屋の担当者だと名乗り、融資担当者に取り次ぐよう求めたが、不在だという。他の担当者の照会を求めたが丁重に断られた。


 隣にいた後輩が声をかけてくる。


「水元さん。別の会社が事業を引き継ぐなら、債権も引き継ぎますよね、普通」

「あ、そうか」


 年下なのに上から目線で言われたような気がして癪に障ったが、ぐっと堪え、作り笑顔をした自分の顔を小さな置き鏡で確認して、響工業に電話をした。


 塩津の事業を承継した響工業は、すでに債権も引き受けていた。横目で見える後輩の口角が上がっような気がして、余計に自分に腹が立った。翌日の早い時間、取引内容の確認のために担当者に会う段取りを付けて、電話を切った。


 9時30分、水元は宮川のデスクに現れた。


 彼女はメールを送信し終えると立ち上がり、書類の束を抱えながらリフレッシュルームに彼を誘い、窓際の一角の席に座るよう指示してから言葉を発した。


「単刀直入に聞くけど、大阪で働くことはできそう?」


 その一言が水元の脳内に侵入するまで、時間がかかった。


「私がですか?」

「あなた以外に誰がいるの」

「え、それは、ど、どうなんですか」

「どう受け止めるかは、あなた次第だけど、決して悪い話ではないと思う」


 突然の内々示に水元は黙った。自動車産業が集積する名古屋なら規模もまだ大きい。だが大阪、広島、福岡にある他の事業所は所帯が小さく、東京の末端の人間が異動で行くのは、左遷以外の何ものでもない。


「ちょっと考えたいんですが」

「ここ以外は正直、ないと考えてもらったほうがいいと思う。準備してもらえる?」

「保留も出来ないんですか」

「残念だけど、分かっているわよね。後で人事部から電話がいくから。塩津製造所の件が落ち着いたら引継ぎと大阪行きの準備に専念してちょうだい」


 水元はまだ状況が飲み込めずにいた。


「ひとまず、保留にさせていただいていいですか」

「薄味のほうが健康にはいいわよ」


 宮川は眉をひそめて、その場を去った。


 10分後、人事部の担当者がオフィスにいた水元を訪ねた。会議室に移り諸々の説明も受けたものの、彼は保留の意思を告げた。話が平行線で終わった頃には昼休みの時間になっていた。


 エレベーターホールで水元は弓子の携帯に電話をかけたが、つながらない。転勤を迫られた事実をメールで知らせようとしたものの、上手い伝え方が分からず、直接会った時に打ち明けようと心に決めた。ふらついた感情を抱えたまま外に出て、月に1、2度は行くカレー屋で、500円のランチを頼んだ頃になって携帯が鳴った。奈美だった。


「突然ごめんなさい、今ちょっとだけ、大丈夫ですか」


 店の中と異なるか細い声だった。


「塩津さんのことで、ご相談があるんですけど。夕方、お店に来てもらってもいいかしら」


 落ち着いたものの言い方が、水元の心を鎮めた。


 神田川沿いに、まだ堅い蕾をつける枝々が川面に垂れる桜並木が目に留まる。薄暮の中、水元は会社から新宿まで歩いて残照に向かうことにした。


 幹線道路の歩道に、帰路に付く会社員らが溢れている。背中を丸め地下鉄の入り口に消えていく様はまるで、ベルトコンベヤーで運ばれる人形のようにも見えた。


 都バスのクラクションが鳴った。新宿二丁目の一帯に入ると、まだ馬鹿騒ぎをするには早い、遠慮がちな繁華街の輪郭が目に入った。


 雑居ビルのエレベーターに乗る前、階段を急いで上がっていく足音が耳に入った。余裕のない人間の足取りだ。酒壜か、あるいはお絞りの配送員なのだろう。


 エレベーターはなぜか各階どまりだ。これなら階段を上ったほうが早いではないかと心のなかで文句を言いながら、到着したエレベーターに足を踏み入れた。重苦しいモーター音とともに、水元の肉体は重力に抗って、残照のあるフロアに持ち上げられていく。


 ──エレベーターを出ると、まばゆい白い光が目に差し込んできた。角度として窓がある訳ではない。気にはなったが、外の光が複雑に反射してきたのだと思うことにした。


 残照のドアを開けると、奈美がカウンターで肘をつきながら、ヴァージニア・スリムを吸っている。暗い影が差すその体躯に近づき、水元は開口一番、こう言った。


「会社に来ないで下さいよ」

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