適合の仕方

フョードル・ネフスキー

第1話 とにかく連絡ちょうだい

 忘却の谷底に沈んだ記憶の数々から時に蘇る光景がある。ノートパソコンの入ったビジネスバッグを左手に提げ、橙色の列車が踏切を通過するのを待つ自分の姿だ。あれは春に差し掛かっていた頃だろうか。


 郊外にある駅の改札口から見えるロータリーには、タクシーが退屈そうに客を待ち、マフラーが排ガスを吐き散らす辺りには、外食チェーンの黄色い看板が掲げられ、パチンコ店の入口で明滅するLEDの表示板が眩しかった。轟々と響くモーター音が近づき、眼前に橙色の残像をとどめる中央特快が、土の匂いを含む湿っぽい風を運んできた。


 水元隆は胸ポケットに入れた携帯電話が着信音を鳴らしているのに気付いた。上司からだった。


「お話できる? 大丈夫?」


 その声色で苛立ちを感じ取った。入社し今に至るまで最初でかつ唯一の直属の上司であるのが、宮川という名の40がらみの女だった。世田谷のアパートで別の部署の女性社員と同居している彼女は、物腰が柔らかいのは救いだが、現場よりも上の意見に流されやすく、突発的な事象に対応する力はほとんどない。


 水元の目から見れば、彼女に対しては欠点しか見出すことができなかった。小柄な体躯とクリッとした瞳は、親父達の関心をひきつけるのだろうが、30に差し掛かった自分にとってはできる限り距離を置きたい相手だった。その宮川が言う。


「塩津製造所って確か、あなただったわよね、担当は」


 水元は少しの間たじろいだ。


「そうなんですか」

「そうなの。資金繰りがまずいみたい。様子見てきてくれない? 先月末で売掛金は何億円だっけ」

「ちょっと、すぐには」

「出てこないならいいわ。とにかく連絡ちょうだい」


 宮川が電話を切った。水元は午後4時に予定していた訪問先に、詫びの電話を入れて駅に戻った。どうせ掴まらないだろう、そんな予感がしていたし、ずいぶん前から、水元はこの仕事を辞めようと考えていた。


 塩津製造所は自動車や航空機、精密機器に使われる部品の切削加工を主力事業にしている。工場内にはドイツから輸入した工作機械が何台も並び、工作機械に組み付ける工具を販売する水元の勤務先の顧客の1社だ。彼がいる場所から本社工場までは電車とタクシーを乗り継いで30分程度かかる。


 水元は1週間前に、この会社の社長と新宿界隈で杯を交わしていた。英文学科出の水元は油くさい製造業の世界に馴染めずにいた。内定を手にした企業は外資系であり、いずれ得意の英語が使えるものと学生時代は期待したが、数字を出せない若手社員に海外行きの好機など与えられることはない。


 塩津製造所の塩津正隆社長も英文科だった。10年前に先代の父が他界し、後を継いだ30代後半の若手経営者だ。水元は業界団体が主催する展示会で知己を得、塩津はその男気で水元を可愛がってきたのであった。


 西の空が朱に染まっていた。工業団地の一角でタクシーを降りると春先にしては冷たい北風が肌を刺す。大型プレス機が厚い鉄板を打ち抜く時の、ゴン、ゴンという低周波の音が、足元から響いていた。首を東の方に向けると、黒く塗られた外壁にアルファベットの斜字体で『Shioz Industry』と書かれた社名が夕日に照らされているのが見えた。


 入口は暗い。正門の駐車場にいつもなら駐車しているはずの黒い日本製の高級セダンもそこにはなかった。


「すみません」


 背後から聞き覚えのない声がした。振り向くと営業車輌から今、出てきたばかりの、安物のスーツにダウンジャケットを羽織る四十代ぐらいの男の姿があった。


「塩津さんの方ですか?」

「いや。お宅は?」


 馴れ馴れしさにむっとした声が、逆に相手をたじろがせたようだった。男は名刺を出してきた。業界紙の名前が書いてある。記者かと思い少し警戒したが、地方支局の広告営業部員だった。中村と名乗った。


「電話したんですけど、つながらないので様子を見に来たんですよ。こんな真っ暗にされては弱りましたよ」

「確か、御社とは別のところでお付き合いありますよね」


 水元は名刺を渡した。


「ああG社さんの方でしたか。お世話になっています。にしても塩津さん、どうしちゃったんだろう。この前までは景気よかったのに」


 中村は目を細めながら正門を見ていた。水元は言葉を返した。


「台湾向けの注文がすごいって言って、3カ月前に機械を入れたばかりなのに。半導体業界っていうのは怖いですね。何もかも早すぎるので」

「うちは手を焼いているんです。半導体やっているところは広告をもらっても、ある日突然、支払いを延ばしてもらえないか、と求められたりして。手前どもの業界も余裕はないですからね。御社がもっと広告出してくれれば、少しは明るくなるんでしょうけど」


 中村はため息をつき歯を見せた。当社にもそんな余裕はない、と水元は笑って返した。中村は力なく言った。


「すでに裁判所に申し立てをしているんでしょうかね」


 沈黙が周囲を覆ったように感じた。二人は社長の姿が現れるのを待ち続けた。やがて日が沈み、空に闇が滲み始めた。水元は上司の宮川に携帯電話を掛けて事情を説明した。通話口から居酒屋の騒々しい雑音が聞こえた。切りのいいところまで待って、ダメなら帰宅してもいい、対応は明日朝考えようとのことだった。電柱の影で中村も背中を丸め、時折首を上下させながら電話をしていた。はいわかりました、お疲れ様です、と言って電話を切ると、水元の方に近づいてきた。


「駅まで送っていきますよ」


 水元は礼を述べて、最寄りの駅まで届けてもらうことにした。


 新宿方面に向かう快速電車は乗客の姿がまばらで、独りになった水元は難なく座席に腰をかけることができた。


 塩津製造所と取引関係を結んだのは3カ月前のことだった。ドイツ製の高性能な工作機械を導入する際、水元が勤めるG社と切削工具の購入契約を結んだのである。その数は10種類。半分は特注品だ。


 浮き沈みの激しい半導体関連が受注の一定の割合を占める会社だからこそ、1回の注文ごとに価格を決めるやり方にすればよかった。悔やんでも悔やみきれなかった。成績の悪い営業マンの水元は功を急ぎ過ぎたのである。


 塩津製造所はG社と半年間の長期契約を求めた。一定の金額を払えば半年間は指定された工具をどれだけ注文してもいい、というものだ。リーマン・ショックの傷が癒え始め、高機能の携帯電話が普及し始めた頃だった。24時間、工場を回したとしても、顧客の注文に応えられない可能性もあった。上司の宮川も悪い話ではないとし、幹部の許可を得た上で契約にこぎつけた。


 その金額は6億円で、契約期間は今年1月から6月末まで。塩津は毎月末に1億円と利息の10万円を加えた額をG社に払う形をとった。


 ところが3月上旬、塩津製造所は追加で、5種類の別の工具を購入したいとG社に求めてきた。新規の顧客から試作品の注文を受け、必要とされる特性を出すためには、今までの工具では不可能だ、というのが理由だった。


 宮川と相談した結果、追加の5種類の工具はスポットでの取引にし、次の半年間の契約を結ぶ際に、工具の種類数をどうするか、改めて見直すのが望ましい、という結論となった。塩津製造所は早速、支払い条件について聞いてきた。入金を確認次第、工具の発送の手続きをとり、納期は1週間程度だと伝えると、年度末に間に合わせないといけない、何とかしてもらえないか、早々に工具を届けて欲しいと訴えてきた。


 受注して間もない信用力の乏しい会社であるがゆえに、水元らは特例として要求を呑むべきかどうか躊躇した。G社のポリシーとしてNGとなるケースだった。説得という気の重い仕事が待ち受けていた。


 そんな矢先、国の外郭団体の顧問を名乗る男性から電話が来た。


「塩津さんの話だけどね」


 男は大手電機メーカーで通信衛星の開発に30年近く従事し、退職後は業界団体の理事として中小企業の経営相談に応じる仕事を手がけていると話した。聞くと国が補助金を支給した装置の研究開発に塩津製造所が関わっており、同社の加工ノウハウがなければできない基幹部品があるという。来年度からその装置を使って1年間の実証試験が始まるため、塩津には何としてでも納期までに部品を納めてもらわなければならない、とのことだった。


「それに、このプロジェクトには、お宅のメーンバンクの美空銀行も関わっている。塩津製造所しかできない技術なのだし、経産省も重要視しているんだ。取り急ぎ工具の方を手配できないかね」


 独断で決められる問題ではないと判断した水元は宮川に電話をそのままつないだ。宮川は本日中に折り返すので少し時間が欲しいと男に伝え、電話を切るとすぐに、営業部長に掛け合った。


 <大丈夫でしょう。野口さんでしょう、電話してきたのって。昔、よく営業に行っていたよ。あの人、ちゃんとそういうとこまで見ているから。問題ないでしょう>


 営業部長はあっさりとゴーサインを出した。この男は4月から、ベルリンにある本社の役員に昇進する予定である。


 今回の事態は、そもそも部長の責任問題でもあるのではないか。水元の頭の中にはそんな疑問もよぎっていた。

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